正道有理のジャンクBOX

経験から学ぶことも出来ないならば動物にも及ばない。将来の結果に役立てるよう、経験や知識を活用できるから人間には進歩がある。

正道有理のジャンクBOX

レーニン「なにをなすべきか?」学習ノート (第二回)

 第二章 大衆の自然発生性と社会民主主義者の意識性

 レーニンの問題意識の多くは「大衆の自然発生性」と「社会民主主義者(共産主義者)の意識性」をどのようにして結合するのかという点にあった。
 レーニンは当時のロシアにおける運動の強みが大衆の(主として工業プロレタリアートの)覚醒にあり、弱みが革命的指導者の意識性と創意性の不足にあることを冒頭で明らかにし、この章のテーマを「革命的指導者の意識性と相違性」ということに絞って問題を提起しているのである。

 

 → 『ラボーチェエ・デーロ』は「自然発生的要素と意識的・『計画的』要素の相対的意義についての評価の相違」あるいは「自然発生的要素の意義の軽視」と批判しているが、レーニンによれば「自然発生的要素」とは、本質上、意識性の萌芽形態であり、労働者階級が自らを圧迫している資本・雇い人に抵抗して自然発生的に結合する能力、すなわち組織的能力を意味しており、それと社会民主主義者の「意識性」つまり革命理論が結びつく以外にはブルジョア社会の転覆はできないのである。どちらを重視するかとか、どちらが上に立つかというような問題のたて方そのものがナンセンスなのだ。

 諸党派、諸潮流の党派性が労働運動と党との関係における「理論上・政治上の意見の相違の全核心」(P48)として表れている事をみれば、この問題の重要性は明らかである
 「だからこそ、意識性と自然発生性との関係という問題はきわめて大きな一般的関心をひ
 くのであって、この問題について非常にくわしく論じなければならない」と強調している。

 1)自然発生的高揚の始まり

 1890年代、労働者のストライキがロシア全土に広がった。1860年代~70年代のストライキに比して90年代のストライキ運動は、明確な要求を提出したり、時期を考慮したりとはるかに多くの意識性のひらめきを示していた。

 「…一揆が抑圧された人々の単なる蜂起でしかなかったのにたいして、組織的なストライキはすでに階級闘争の芽生えをあらわしていた。だが、あくまでも芽生えにすぎない。それ自体としてみれば、これらのストライキは、組合主義的闘争であって、まだ社会民主主義的闘争ではなかった。それらは、労働者と雇主との敵対のめざめを表示すものではあったが、しかし労働者は、自分たちの利害が今日の政治的・社会的体制全体と和解し得ないように対立しているという意識、すなわち社会民主主義的意識を持っていなかったし、また持っているはずもなかった。こういう意味で、90年代のストライキは『一揆』に比べれば非常な進歩であったにもかかわらず、やはり純然たる自然発生的な運動の範囲をでなかった」(P45)                             

  → 労働者階級以外の他の階級も自然発生的に決起し、闘争同盟のような組織を作ることは歴史的経験から明らかであるが、みずから恒常的に組織をつくるのはブルジョアジーへの隷属を余儀なくされている労働者階級が共同労働の経験をとおしてつくりあげる独特の能である。そして、この能力はブルジョアジーとの闘いとして形成され発達し、みずからの権利と労働条件を守るために団結することで、ますますその力を高めていくのである。

 ところで、社会民主主義的(共産主義的)意識というのは、労働者階級的利害が「今日の政治・社会体制全体と和解しえないように対立していると言う意識」であり、「この意識は外部からしかもたらしえないものだった。

 労働者階級が、まったく自分の力だけでは組合主義的意識、すなわち、組合に団結し、雇主と闘争をおこない、政府から労働者に必要なあれこれの法律の発布をかちとるなどのことが必要だという確信しかつくりあげられないことは、すべての国の歴史の立証するところである」(P49)


  → 労働者は個別資本あるいは資本家の団体、またはその政府に対して労働条件の改善や権利の向上、さらには労働者保護のための制度の確立等々を要求し、産業別統一闘争やゼネストなどを打ち抜くことによって資本の譲歩をかちとることはできるかもしれない。しかし、どのような戦闘的な労働組合、激しい闘いも資本に雇われ続ける社会関係、生産体制を前提にするものであり、事実としても雇用と雇用の継続を要求するのであって、賃労働と資本の関係を解消するために闘うわけではない


 <資本を打ち倒し賃労働を廃絶し、資本家の政府に代わって労働者階級みずからを支配階級へと組織するという>革命闘争への意識は労働組合の経済闘争からは独自の理論をもって形成される以外ないのである。被支配階級としての労働者階級が、みずからを支配階級へと成長・飛躍させ、ブルジョア支配を打ち倒していくという意識、つまり「社会民主主義的(共産主義的)意識は外部から持ち込むほかはなかった」(P50)

 「社会主義の学説は、有産階級の教養ある代表者であるインテリゲンチャによって仕上げられ、哲学・歴史学・経済学上の諸理論のうちから成長してきたものである。近代の科学的社会主義創始者であるマルクスエンゲルス自身も、その社会的地位からすればブルジョアインテリゲンチャに属していた」(P50)


 ここでレーニンは、1890年代中ごろのロシアにおいてはどうであったかを検討している。
 このころのロシアの社会民主主義者たちは経済的扇動に従事しながらも、そういう経済的扇動を自分たちの唯一の任務と考えなかったばかりか、反対に最初から一般にロシア社会民主党の最も広範な歴史的諸任務、とりわけ専制の打倒を提起することが重要と考えていた。
 このように「1895~98年に活動していた社会民主主義者の一部(おそらくはその大多数さえも)が、「自然発生的」運動がはじまったばかりのその当時でも、もっとも広範な綱領と戦闘的戦術とを提出することが可能であると、まったく正当にも考えていたということを確認することが極めて重要である。

 ロシアにおいても、「社会民主主義の理論的学説は労働運動の自然発生的成長とはまったく独立に生まれてきた。それは革命的社会主義インテリゲンチャのあいだでの思想の発展の自然の、不可避的な結果として生まれてきたのである」。そして、90年代のなかごろにはそれが「労働解放」団の…綱領になって…、ロシアの革命的青年の大多数を味方にしていた。まさに、当時の社会民主主義者たちは、(「経済主義者」がいうように「条件がなかった」どころか)ストライキ闘争を専制にたいする革命運動にむすびつけ、抑圧のもとにさらされている人々を社会民主党のもとに獲得するために新聞の発行も試みられていた。


 しかし、残念ながらこうした企画は権力の弾圧によって実現できなかった。それは当時の社会民主主義者に革命的経験と訓練が不足してからであり、(革命の事業では)この経験から学び、実践的教訓を引き出すためには、あれこれの欠陥や意義を完全に理解する(意識する)ことが必要である。
 「経済主義者」たちは、欠陥を美徳にまつりあげ(→ 革命党の訓練不足という欠陥を直視せず、専制の打倒という任務方針が誤りであり、経済的扇動に重心を置くべきだという)
 自分たちの自然発生性への屈従と拝跪を理論的に基礎づけようとさえしている。

 2)自然発生性への拝跪 『ラボーチャヤ・ムィスリ』(注)

  1897年の初めに「労働者階級解放闘争同盟」の「老人組」と「青年組」が「労働基金組合規約」をめぐって鋭く意見を対立させ、激しい論戦が行われた。これがのちのロシア社会民主党の二つの潮流の対立へと発展していく。
 ここでレーニンが取り上げた『ラボーチャヤ・ムィスリ』の社説は「労働運動がこのような根強さを得たのは、労働者が自分の運命を指導者たちの手からもぎとって、ついに自分の手にそれをとりあげつつあるたまもの」だとか「政治はつねに従順に経済のあとに従う」と主張している。

 事実は社会民主主義者、「闘争同盟」の組織者が憲兵の弾圧によって「労働者の手からもぎとられた」のであり、「経済主義」の主張は「前進するよう、革命的組織を固めるよう、政治活動を拡大するようによびかけようとはしないで、後退するよう、組合主義的闘争だけをやるよう」よびかけるものだったが、これが当時の青年大衆に大きな影響をおよぼしていた。

  (注)『ラボーチャヤ・ムィスリ』=1897年から1902年に出された「経済主義者」の機関誌。              レーニンは国際日和見主義のロシアにおける変種と批判していた。

 レーニンはこうした状況に対しで社会民主党内に浸透しつつある経済主義(『ラボーチェエ・デーロ』)を検討・批判する視点として3つの事情についてふれ、次の節で詳しく展開している。
 第1の事情として、「意識性が自然発生性によって圧服されたのは、これまた自然発生的(外在的要因による力関係の変化の中でという意味?)におこなわれた」ことをあげ、「この圧服は二つの対立した見解が公然と闘って一方が勝った結果ではなく『老人組』の革命家が憲兵によって『もぎ取られ』、『青年組』がますます数多く舞台に登場してくることによっておこなわれた」ことを明らかにしている。(P59)


 第2の事情として、すでに「経済主義」の最初の文筆上の極めて特徴的な現象として、彼ら(注)が自分たちの立場を擁護するのに、ブルジョア的な「純組合主義者」の論拠にたよらざるをえないということがある。
  およそ労働運動の自然発生性のまえに拝跪すること、およそ「意識的要素」の役割、社会民主党の役割を軽視することは、とりもなおさず―その軽視する人がそれを望むと望まないとにはまったくかかわりなく―労働者にたいするブルジョアイデオロギーの影響を強めることを意味する。(P50)

 (注)一言でいえば「経済主義」だがレーニンは、①「純労働運動」の味方たち、②プロレタリア闘争との最も「有機的」な結びつきの礼賛者たち、③非労働者的インテリゲンチャの敵対者たちをあげている。


 第3の事情として「経済主義」という名称が新潮流の本質を十分正確に伝えるものでないことがある。『ラボーチャヤ・ムィスリ』は政治闘争を全く否定しているわけではなく、政治はつねに従順に経済のあとに従うと考えているだけである。政治闘争の否定というよりも、むしろこの闘争の自然発生性の前に、あるいは無意識性にたいして拝跪するのである。

 「組合主義は、往々考えられているように、あらゆる『政治』を排除するものではけっしてない。労組合は、つねにある種の(だが社会民主主義的ではない)政治的扇動や闘争をやってきた。」
  『ラボーチャヤ・ムィスリ』は労働運動そのもののなかから自然発生的にするが、社会主義の一般的任務と当時のロシアの諸条件とに応じた(今日で言えば、それぞれの国内的条件に応じた)特有の意味での社会民主主義的政治を自主的=意識的に作り上げることをまったくやらなかったのである。


 → レーニンは前節において「社会民主主義的意識は外部からもちこむほかはなかった」と述べているが、前述の3つの事情のうちの第2の事情の中で、特にこの問題をカウツキーのオーストラリア社会民主党の新綱領草案批判を引用して展開している。(言葉の当否には議論のあるところだが)これがいわゆる「外部注入論」である。

 引用されているカウツキーの論述の主要な点を4点にまとめると次のようになる。
 ①学説としての社会主義プロレタリアート階級闘争と同じく、今日の経済関係のうちに根ざしており、またそれと同じく、資本主義の生み出す大衆の貧困と悲惨にたいする闘争のうちから成立してくる。(注)
 ②社会主義階級闘争は、並行して生まれるものであって、一方が他方から生まれるものではなく、またそれぞれ違った前提条件のもとで生まれるのである。今日の経済科学はたとえば今日の技術と同じく、その担い手はプロレタリアートではなく、ブルジョアインテリゲンチャである。近代社会主義もやはりこの層の個々の成員の頭脳の中から生まれた。
 ③まず、はじめに知能のすぐれたプロレタリアに伝えられたのであって、ついでこれらのプロレタリアが事情の許すかぎりでプロレタリアート階級闘争のなかにそれをもちこむのである。
 ④だから、社会主義的意識はプロレタリアート階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない。したがって、プロレタリアートのなかに自分たちの地位と自分たちの任務とについての意識を持ち込む(=自覚を促す)ことが社会民主党の任務である。
  
 この引用の結論として、レーニンは次のようにまとめている。
 労働者大衆自身が彼らの運動の過程それ自体のあいだに独自のイデオロギーをつくりだすことが考えられない以上(注)問題はこうでしかありえない。
 ①ブルジョアイデオロギーか、社会主義イデオロギー、と。そこには中間はない。(な
   ぜなら、人類はどんな「第三の」イデオロギーもつくりださなかったし、…階級外の、あるいは超階級的なイデオロギーなど決してありえないからである)
 ②だから、およそ社会主義イデオロギーを軽視すること、およそそれから遠ざかることはブルジョアイデオロギーを強化すること意味する。
 ③労働運動の自然発生的な発展は、まさに運動をブルジョアイデオロギーに従属(屈服)させる方向にすすむ。なぜなら、自然発生的な労働運動とは組合主義であり、〔純組合主義〕であるが、組合主義とは、まさしくブルジョアジーによる労働者の思想的奴隷化を意味するからである。だから、われわれの任務、すなわち社会民主党の任務とは、自然発生性と闘争すること、ブルジョアジーの庇護のもとに入ろうとする組合主義のこの自然発生
   性的な志向から労働運動をそらして、革命的社会民主党の庇護のもとにひきいれることで
ある。(P63)

 (注)ところで、労働者階級が社会主義イデオロギーをつくりあげる仕事にまったく参加しないだろうか、そうではない。ただし、その場合にはプロレタリアとしてではなく、社会主義の理論家として社会科学の学習、理論的研究に参加する。そして彼らは労働者の中でその意識水準を高め、社会主義の思想を広めると同時に、自ら獲得した理論を実践的に検証するために極力骨をおるのである。

 また、レーニンは「自然発生的運動、最少抵抗線を進む運動がなぜブルジョアイデオロギーの支配に向かってすすむのか?」として、それはブルジョアイデオロギー社会主義イデオロギーより、その起源においてずっと古く、いっそう全面的に仕上げられていて、はかりしれないほど多くの普及手段(→ 特に今日の帝国主義国におけるその社会的=政治的経済的物質力はロシア革命当時とは比べものにならないほどである)をもっているためである」として、だからこそこれとの闘いが重要であることを訴えている。

 (社会主義者が反動的な労働組合や組織の中でも、そこに労働者が存在する限りはうまずたゆまず活動しなければならないという原理は、そうしなければ労働者階級はいっそう深くブルジョアイデオロギーのもとに隷属させられるということ、またこのことに無頓着であるということは、みずからの陣地を敵に明け渡すにひとしく、およそ革命を語ることそのものが空論でしかない)

 【いわゆる「外部注入論」の考え方】
 往々にしてレーニンが労働者の自然発生性はダメなんだ、と言っているかのように誤解され、さらには「無知な労働者に知識のあるインテリ活動家が理論を吹き込む」と言った反共イデオロギーの宣伝にさえ使われている。しかし、これはレーニン組織論の核心をなす部分であり、正確に理解することが是非とも必要である。

 ① レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中でも、「資本主義によって訓練されたプロレタリアート」と規定し、また『論集十二年間』の序文においても「客観的な経済的理由から最大の組織能力をもつプロレタリアート」と述べているように、労働者階級の自然発生的能力を客観的、歴史的なものとして積極的に評価しているのである。これはマルクスの『共産党宣言』でも明らかにされている核心的内容でもある。
 革命は、労働者階級のこの組織能力(労働者階級が自然発生的に結合し、団結していく革命的能力)と結びつくことなしには成し遂げることができない。
 しかし、プロレタリアートは資本と賃労働が本質的、非和解的に対立しているという感覚は自らの歴史的経験をとおして獲得できる(※注)が、自分自身の歴史的、経済的存立基盤である資本主義の体制そのものを転覆し、プロレタリアートの権力と置き換えなければならないという共産主義的意識(イデオロギー)は自然発生的な闘争のなかからは身につけることはできない。レーニンが強調しているのは、この関係をはっきりさせることなのである。

   ※注)「ある人には脅し道具としか見えない工場こそ、まさにプロレタリアートを結合し
     訓練し、彼らに組織を教え、彼らをその他すべての勤労・被搾取人民層の先頭に立たせた
     資本主義的協業の最高形態である。資本主義によって訓練されたプロレタリアートのイデ
     オロギーとしてのマルクス主義こそ、浮動的なインテリゲンチャに、工場が備えている搾
     取者の側面(餓死の恐怖に基づく規律)と、その組織者としての側面(技術的にも高度に
     発達した生産の諸条件によって結合された共同労働に基づく規律)との相違を教えたし、
     いまも教えている。ブルジョアインテリゲンチャには服しにくい規律と組織をプロレタ
     リアートは、ほかならぬ工場というこの『学校』のおかげで、特にやすやすとわがものに
     する」(『一歩前進、二歩後退』)

 ②「労働者階級は自然発生的に社会主義に引きつけられる」(労働運動の階級的、自然成長的発展の延長上に革命を描こうとする「経済主義者」の論拠でもある)という見方について。

 この言葉が正しいのは、「社会主義理論は、最も深く、また最も正しく労働者階級の困苦の原因を示しているので、…労働者はこの理論をきわめて容易にわがものにする、という意味である」(P67)
 ただし、現実の過程は「労働者階級は自然発生的に社会主義にひきつけられるが、それにもかかわらず」、(労働者が自然発生の前に降伏し、意識性をもたなければブルジョア社会の中で)「最も多く押し付けられてくるものは、最も普及しているブルジョアイデオロギーである」
    
 ③学説としての社会主義理論はブルジョアインテリゲンチャによって成立したものであるが、その出発点は資本主義が生み出す経済関係、その貧困と悲惨に対する労働者階級の闘い、この怒りに根拠をおいているということである。この点を否定ないし曖昧にしてプロレタリアートを解放の主体として位置づけない場合には、労働運動はたんなる救済運動、空想的社会主義でしかなくなる。
  
 ④「外部から持ち込む」という意味についてレーニンは次章の第5節で「階級的・政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない」と誤解の生じようのない言い方で明確に述べている。

 資本主義の国家そのものを打倒するという立場にたつためには、革命のための理論が必要であり、それは労働者の運動の中から自然発生的には作られない、経済闘争の外部からしかもたらし得ない。そして、もうひとつ労働者階級の政治意識の成長を阻んでいるのは彼らの全生活を覆うブルジョアイデオロギーの洪水なのである。
 したがって、「持ち込む」の意味は、労働者をブルジョアイデオロギーの影響から遠ざけ、「自然発生的な経済闘争」に対して「意識的な政治闘争」に目を向けさせること。
 そのためには労働者階級の闘いの中だけではなく、あらゆる階級、階層の政治的現れに精通し、それを暴露できる特定の組織をつくることが必要だ、ということを提起しているのである。

 ⑤「社会主義理論がプロレタリアート階級闘争と別個に成立した」ということを強調するあまり、学説としての社会主義理論を階級闘争から切り離し、労働者階級の闘いとは無縁な純粋理論として成立したかのように描き出すこと、これを階級闘争の場に持ち込むことが必要なのだ、と理解する誤りである。スターリン主義は、労働運動の自然発生的要素を蔑視し、労働者の主体性を無視し、党の路線を労働組合に「外部から持ち込み」押し付け   る、いわゆる「引き回し」を行ってきたのである。
  
 3)「自己解放団」と『ラボーチェエ・デーロ』

 ・『ラボーチャヤ・ムィスリ』(「労働者の思想」)

                  創刊号1897年10月
 ・『労働者自己解放団の檄』        1899年3月
 ・『ラボーチェエ・デーロ』創刊号     1899年4月

   『ラボーチャヤ・ムィスリ』は初めから経済主義潮流としての姿をだれよりもあざやかに示していたが、少し遅れて『労働者自己解放団の檄』も同様の結論をひきだし、経済主義の特徴を鮮明にした。ついで活動を開始した『ラボーチェエ・デーロ』は、はじめから「経済主義者」を「擁護した」だけでなく、自らもたえず「経済主義」の基本的誤謬に迷い込んでいった。この誤りの根源は、彼らの綱領のなかにある「大衆運動が『任務を規定する』」という命題に対する理解、これへの態度をめぐる対立に問題の核心があった。

 「これは二とおりの意味に理解することができる。すなわち、この運動の自然発生性の前に拝跪するという意味、つまり、社会民主党の役割を、あるがままの労働運動への単なる奉仕に帰着させるという意味(これが、『ラボーチャヤ・ムィスリ』、『自己解放団」その他の『経済主義者』の理解である)」そして、もう一つは「この大衆運動が発生する以前の時期にはそれで足りていた任務にくらべて、はるかに複雑な、あたらしい理論上、政治上、組織上の諸任務を大衆運動がわれわれに提起するという意味」にも理解することができた。
 そして、この第一の理解に傾いていた『ラボーチェエ・デーロ』は、「大衆的労働運動にたいして専制の打倒を第一の任務として提起することはできないと考えて、この任務を(大衆運動の名において)最も身近な政治的要求のための闘争という任務に低めた」(P72~73)

 →『ラボーチェエ・デーロ』第7号(ペ・クリチェフスキーの論文)の引用
 「政治闘争における『段階論』」(P74)
 「政治的要求は、その性格上、全ロシアに共通であるが、しかし、はじめは」「当該の労働者層(原文のまま!)が経済闘争から引きだした経験に合致するものでなければならない。この経験にもとづいてのみ(!)、政治的扇動に着手することができるし、また着手しなければならない」「マルクスエンゲルスの学説によれば、個々の階級の経済的利益が歴史上決定的な役割を演じるのであり、したがって、とくに自己の経済的利益のためのプロレタリアートの闘争が、プロレタリアートの階級的発展と解放闘争とによって、第一義的な意義をもたなければならない…」

 これに対して、レーニンは次のように批判している。
経済的利益が決定的な役割を演ずるからといって、したがって経済闘争(労働組合闘争)が第一義的な意義を持つという結論には、けっしてならない。なぜなら、諸階級のもっとも本質的で、『決定的な』利益は、一般に根本的な政治的改革によってはじめて満足させることができるし、とくにプロレタリアートの基本的な経済的利益は、ブルジョアジーの独裁をプロレタリアートの独裁でおき代える政治革命によって、はじめて満足させることができるからである」(74P)

 →『ラボーチェ・デーロ』第10号の主張
 「行いうる闘争こそのぞましく、そして現瞬間に行われている闘争こそ、行いうる闘争である」「計画としての戦術はマルクス主義の基本精神とあいいれない」「戦術とは『党とともに成長する党任務の過程』」

 レーニンは、こうした主張こそが、自然発生性に拝跪する、日和見主義潮流の綱領そのものであると指弾し、「マルクス主義にたいする中傷であり、かつてナロードニキがわれわれとのたたかいにあたってえがいてみせた、まさにあの戯画に、マルクス主義を変えてしまうものである」と批判する。

 そして、「国際社会民主主義者の全歴史は、あるときは甲の、あるときは乙の政治的指導者によって提出された計画で満たされており、ある人々の政治上・組織上の見解の先見と正しさを実証し、他の人々の短見と政治的誤謬をあからさまにしている」(P76)

 「歴史がその最後の判定をくだしてから多くの年月がたったあとで、昔をかえりみ、党とともに成長する党任務の成長という格言によって自分の深遠さを示すのは、もちろんむずかしいことではない。しかし、ロシアの『批判家』や『経済主義者』が社会民主主義を組合主義に低めており、またテロリストが、古い誤りを繰り返す…混乱の時期にこのような深遠な迷論でことをすませるのは、自分自身に『貧困証明書』を発行するというもの」「多くの社会民主主義者が、ほかならぬ創意と精力に不足し、『政治的宣伝、扇動、組織の規模』に不足し、革命的活動をいっそう広範に組織するための『計画』に不足している時期に『計画としての戦術ということはマルクス主義の基本精神にあいいれない』などとかたるのは、理論的にマルクス主義を卑俗化するだけでなく、さらに実践的に党をうしろへ引きもどす」(P77)ものだと断罪している。

 また、「マルクス主義が意識的な革命的活動に正しくも巨大な意義を与えていることに心を奪われて、実践上では。発展の客観的あるいは自然発生的要素の意義の軽視におちいっている」という『イスクラ』への批判にこたえて次のように反論している。
 「もし主観的計画の立案者(=経済主義者)が客観的発展を『軽視する』とすれば、それはどういう点に現れるだろうか?この客観的発展があれこれの階級や階層や集団、あれこれの民族や民族群などを、あるいはつくりだし、あるいは強め、あるいは滅ぼし、あるいは弱めそれによってあれやこれやの国際的な政治的勢力編成や、革命的政党の立場等々を条件づけていることを…見おとす点に現れる」(つまり意義の軽視とか重視とかいう問題ではなく)指導者は具体的な「客観的発展を正しく理解する意識性」が必要なのだと言っている。

 最後に結論として、ロシア社会民主党内の「新しい潮流」の基本的誤りは、自然発生性の前に拝跪する点に、すなわち「大衆が自然発生的であればこそ、われわれ社会民主主義は多くの意識性をもつ必要があることを理解しない点にあることを確信するにいたった」「大衆の自然発生的な高揚が大きければ大きいほど、運動がひろまればひろまるほど、社会民主主義派の理論活動においても、政治活動においても、組織活動においても、多くの意識性をもつ必要が、くらべものにならないほどいっそう急速に増大する」(82P)

 そして、1890年代のロシアの革命運動は「理論」でも活動でも大衆運動の自然発生的高揚に立ち遅れてしまい、運動全体を指導する能力のある、中断のない、継承性のある組織をつくりだすことができなかった。この巨大な任務を成し遂げるためには、①対政治警察との闘いにおいて、②理論、政治、組織活動において訓練を欠いていた。と総括している。
 また、革命党の指導者の意識性、役割とは「いろいろな問題にあらかじめ理論的に解答をあたえ、そのあとで(実際の経験を通して)この解答の正しいことを組織にも、党にも大衆にも納得させる」ということであり、そうして「大衆運動を『自分の綱領』のところまで引き上げる」ことこそが社会民主主義党の役割なのだ、と言っているのである。
  経済主義に迷いこむ根源的理由は、大衆追随主義にあるということ。裏返せば意識的活動の困難さ、壁の厚さの前に圧倒され、自然発生性の前に拝跪し、その範囲での闘いこそが党の一義的任務であると信じ込むのである。大衆運動の発展が、共産主義者、革命党に突きつけている革命的役割、任務をあらかじめ推理し研究し、それに応えぬくことこそが革命党たらしめる、ということ。それ以外のことで大衆運動が問題を解決する、ということはない。
                                                                                                 (第3回に続く)

レーニン「なにをなすべきか?」学習ノート (第一回)

    目次  
 序 レーニン組織論の形成過程(末尾年表参照)
  1)「なにから始めるべきか」でレーニンが提起した三つの問題
  2)「われわれの組織上の任務について一同志にあたえる手紙」
  3)『なにをなすべきか?』の意義
   ・プロレタリアートの組織性 ・「生きた人々」の意味
 第一章  教条主義と「批判の自由」   
  1)自然発生的高揚の始まり   2)「批判の自由」の新しい擁護者たち
  3)ロシアにおける批判   4)理論闘争の意義についてのエンゲルスの  所論
 第二章 大衆の自然発生性と社会民主主義者の意識性
  1)然発生的高揚の始まり  2)自然発生性への拝跪 『ラボーチャヤ・ムィスリ』
   ・いわゆる「外部注入論」について
  3)「自己解放団」と『ラボーチェエ・デーロ』
 第三章 組合主義的政治と社会民主主義的政治
  1)政治的扇動、および経済主義者がそれをせばめたこと
   ・「政治的扇動」の意味はなにか
  2)マルトィノフがプレハーノフを深めた話
  3)政治的暴露と「革命的積極性をそだてること」
   ・「労働過程」論と人間の意識=認識の形成についての考察
  4) 済主義とテロリズムには何か共通点があるか
  5)民主主義のための先進闘士としての労働者階級
  6)もう一度「中傷者」、もういちど「瞞着者」(略)
 第四章 経済主義者の手工業性と革命家の組織
  1)手工業性とはなにか?   2)手工業性と経済主義
  3)労働者の組織と革命家の組織
   ・労働者の組織と革命家の組織との区別と関連 
   ・専制下のロシアにおける労働者組織の建設
  4)組織活動の規模
   ・専門化と分散化、集中化と分業論に関する考察
  5)「陰謀」組織と「民主主義」  6)地方的活動と全国的活動
   ・全国的政治新聞の必要性 ・全国的政治新聞の性格とそのための組織条件
 第五章 全国的政治新聞の「計画」
  1)だれが論文「なにから始めるべきか?」に感情を害したか? (略)
  2)新聞は集団的組織者になることができるか
  3)われわれにはどのような型の組織が必要か

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【序】「なにをなすべきか?」の背景と意義
 
1)「なにから始めるべきか」でレーニンが提起した三つの問題

 1800年代末のロシアでは、地方の社会主義者がそれぞればらばらにサークル的な活動を始めており、そのもとでプロレタリアートの自然発生的・組合主義的な闘いが急速に高揚を見せ始めていた。そして、地方の社会主義者のサークルはそうした労働者階級に対する経済主義的宣伝・扇動、狭い枠の中での組織化ということに全精力を費やしていた。レーニンの「なにをなすべきか?」はそうしたサークル的、手工業運動の在り方に対し、単一の全国党組織への統合の必要性、経済主義的宣伝を専制政府打倒のための政治宣伝・扇動に置き換える必要があること、その為の集団的組織者としての役割を担うのが「全国的政治新聞」でなければならないと提起したのである。
   
 レーニンが序文で述べているように、当初は「なにからはじめるべきか」で提起した内容の具体化として
  ①政治的扇動の性格と主要な内容の問題
  ②われわれの組織上の諸任務の問題
  ③さまざまな方面から同時に全国的な戦闘組織を建設してゆく計画の問題というように組織建設上の極めて実践的な問題を提起する計画だった。

 だが、レーニンのこの計画に対する『経済主義者」との見解の相違は予想以上に根深かった。経済主義者との論争に決着をつけない限り、全国的な革命党の統一的建設を一歩も前に進めることはできないと考えたレーニンは、①と②について「意見が相違しているすべてについて」解説しながら「系統的に話し合う」試みをおこなった、と述べている(注)。

 しかし、意見の相違は想像以上に大きく、深刻なものだった。経済主義者との対話が成功しないことを知ったレーニンが、当初の非論争的な方法で行うつもりだった経済主義者に対する批判を論争的な方法に置き換え、論駁し尽くすものとして著したのが「なにをなすべきか?」である。

 本著作では、この①に対応する課題が第3章、②に対応する課題が第4章、③に対する課題が第5章として書かれており、また経済主義者の特質が理論闘争の軽視にあることを指摘し、この点にこそ科学としてのマルクス主義を否定し、卑俗化する根拠があることを明確にする為に第2章が当てられている。


 (注)『経済主義者の擁護者たちとの対話』(1901.5)
「この傾向はつぎのことを特徴としている。すなわち、原則的な点では、マルクス主義を卑俗化し、日和見主義の最新の一変種である今日の「批判」にたいして無力であること。
政治的な点では、政治的扇動と政治闘争をせばめ、あるいはこれを些末な事柄にとりかえようとつとめ、社会民主主義派は一般民主主義運動の指導権を自分の手に握ることなしには専制を転覆できないということを理解しないこと。戦術的な点では確固さをまったく欠いていること…。組織的な点では、運動の大衆的性格は、準備闘争であろうと、どのような思いがけない爆発であろうと、また最後に最終の決定的攻撃であろうと、そのどれをも指導する能力のある、強固な、中央集権化された、革命家の組織をつくりだすというわれわれの義務を…理解しないこ


2)「われわれの組織上の任務について一同志にあたえる手紙」


  「なにをなすべきか?」の中でもそれぞれの課題について基本的な回答はあたえられているが、より実践的な組織建設上の問題意識やレーニンの構想は「われわれの組織上の任務について一同志に与える手紙」(1902.9)によって知ることが出来る。
 そこに貫かれているのは、徹底した党組織の防衛=秘密性を保持しながら中央集権化された組織をどう作るかということである。

  「運動の直接の実践的指導者となりうるのは、特別な中央グループ(これを中央委員会とでも名づけよう)だけであって・・・いっさいの全党的な仕事を指揮するものである。厳重な秘密活動を行い、運動の継承性を保つ必要があるため、わが党には二つの指導的中心、中央機関紙と中央委員会があってもよいし、なければならない。

 前者は思想的に指導し、後者は直接に実践的に指導しなければならない。この両グループのあいだの行動の統一と必要な意見の一致は、単一の党綱領によって保障されるだけでなく、両グループの構成に(互いに協調をたもつ人々がはいる必要がある)によっても、また、両者の定期的、恒常的な協議の制度によっても、保障されなければならない」と述べた上で、党員の意見を述べる権利については「すべての希望者の手紙がかならず編集局に伝達されること」「・・また活動の全参加者、ありとあらゆるサークルがその決議、要望、要請を委員会へも、また中央機関紙や中央委員会へでも通報する権利を持つようにすること」とし、「もちろん、できるだけ多数のありとあらゆる活動家の個人的協議を組織するように、このうえともに努力することは必要であるが、ここでの眼目は秘密活動である」と明確に述べている。

 さらに、「秘密活動の全技術は、いっさいのものを利用し、『すべてのものにそれぞれ仕事をあたえ』それと同時に、全運動の指導権を保持すること、いうまでもなく権力によってではなく権威の力によって、精力によって、より多くの熟練、より多くの多面性、より多くの才能の力によって保持されなければならない」また「ときには組織者として全然役にたたない人間が、かけがえのない扇動家であったり、厳重な秘密活動の堅忍性にたいして無能な人間が卓越した宣伝家であったりする等々のことを忘れずに」十分な分業を実施すること、言うなれば党員の実務的能力・専門的能力を十分に引き出すことの出来る任務配置の問題、指導の中央集権化と党員あるいは党に同調しているサークルの党に対する責任を出来るだけ分散化すること、などが述べられている。


 → 党員の専門的能力に応じた分業の実施とは、すなわち党への責任の分散であると同時に、個々に与えられた任務への使命感、責任感を最大限にひき出し得る形態でもある。適切な分業と専門化は、結果として党の任務全体への責任が貫徹されるということである。こうした形態をとり得るのは中央集権化した指導部と、そこでの適切な任務配置による以外にない。
 また、こうした中央集権的な実践指導と任務配置の専門化・分散化によってこそ厳格な秘密活動を維持することができるのであるが、そのためには党中央は運動のあらゆる事情や各組織が抱えている問題に熟知していることが前提となる。

 レーニンは一切の眼目を秘密活動としたうえで、定期的な組織的協議=討議に加え、可能な限り多くの活動家間での闊達な協議=討論を組織するよう求めていた。
 さらに、全ての希望者の手紙がかならず編集局や中央に伝達されること、つまりすべての党員の率直な意見、要望、要請を無条件に党中央に集中させることによって、秘密組織であるという制約のもとで、直接民主制にかわる党内民主主義を実現しようとしたのである。
    
 中央集権の組織が上意下達の官僚主義的で硬直したものに変質してしまうのは、この中央~ 細胞(党員)の対等な関係が歪められ、断たれてしまう結果だ。党員相互の討論を分派活動として禁じたり排斥する、あるいは地方組織の権限が強められ、下部の意見が却下または歪められる。いずれにしてもスターリン主義によって解体されてきたレーニン主義組織論が、あたかもそれ自身の中にスターリン主義発生の根拠があるかのように吹聴され、これに屈服して他の組織形態を模索するなど、いま現在も革命諸党派の組織論上の混迷と模索が続いている現状を打開しなければならない。

 スターリン主義を克服せんとした筈の反スタ党派が停滞、衰退、破綻を突きつけられる中、レーニン主義組織論の原点に立ち返って、その理解のしかたそのものを再検証することが必要であるように思われる。


 3)『なにをなすべきか?』の意義


 レーニンは、論集「12年間」(1907.11)の序文の中で『なにをなすべきか?』の意義について次のように述べている。

①この小冊子は、もはや論壇の諸潮流の中の右翼にたいする批判ではなく、社会民主党内の右翼にたいする批判にあてられている。(社会民主党内に生み出された「経済主義」との)意見の不一致の原因とイスクラ派の戦術、および組織活動の性格とを系統的に叙述している。

②1901年と1902年のイスクラ派の戦術、イスクラ派の組織政策の総括である。まさに「総括」であって、それ以上でもなければ以下でもない。
 →1901年から02年当時の世界共産主義運動の流れ、ロシアの歴史的、政治的条件の中でイスクラ派がとった戦術とその総括であるということ(従って、それぞれの国の歴史的、政治的条件を考慮せずにそのまま当てはめるのではなく、普遍性と特殊性をしっかり読み取ること)

③『イスクラ』は、職業革命家の組織をつくりだすためにたたかった。・・当時優勢だった経済主義うち負かし、1903年には最終的にこの組織を創立した。

④わが党のこの最大の団結、堅固さおよび安定性を一体だれが実現し、これに生命をあたえたか? なによりも『イスクラ』の参加のもとにつくられた職業革命家の組織がそれをなしとげたのである。

⑤『なにをなすべきか?』は「真に革命的な、自然発生的に闘争にたちあがる階級」と結びついてはじめて、この闘争のなかでまもられる組織が意味をもつことを、くりかえし強調しているのである。だがプロレタリアートが、階級へ結合する最大の能力を客観的にもっているとしても、この能力は、生きた人々によってしか実現されないし、特定の組織形態でしか実現されない。そしてイスクラ組織のほかには他のどんな組織も……このような社会民主労働党を創立することはできなかった…。


 プロレタリアートの組織性】
 「プロレタリアートの組織性」とは資本主義的生産がもつ歴史的、経済的条件に規定され主体的には自らの労働力を資本に売る以外には生産手段を持たず、したがってより高く労働力を売るために自然発生的に団結する能力をもった階級であること、客観的には資本主義的生産そのものが、その担い手である労働者に組織的である(協業と分業)ことを求め、そのために訓練するということである。

 そのことは、他方では不断にブルジョアイデオロギーに晒され、自らの利益のためではなく資本の利益のためにのみ組織的であるように(そうすることが労働者自身にとっての利益でもあるかのような幻想すら与えて)、またそうしなければ生きられないように強制されるということである。
  
 【「生きた人々」の意味】
 レーニンは労働者階級の自然発生性を軽視していたわけではない。逆に「真に革命的な、自然発生的に闘争にたちあがる階級」と結びつかなければ革命的組織は意味を持たないと言っている。そのうえで、プロレタリアートが階級に結合する能力を客観的に持っているとしても、そのままでは革命に突き進むことはできないと指摘している。

 では、そのあとの「生きた人々」とはどういう意味なのか。労働者階級は賃金奴隷として一日の一定時間、その労働力の行使を資本の処分に委ねる。労働から解放され家に帰って食事をし、家族と過ごし、体調を整え休養をとる、あるいは街に出て買い物をしたり趣味のために時間を費やす等々がつかの間の人間性をとりもどす時間だといってもよいだろう。

ところで、その私的生活そのものさえ国家によって収奪され、監視され政治的抑圧や迫害に満たされていないだろうか。労働者階級が革命に突き進むためには資本との関係で自然発生的に団結して闘うのみならず、こうした人間生活のすべての面における政治的表れを資本とその政治権力=国家を打倒すための政治闘争に集約していくことが必要なのだ。まさに「生きた人々」をとらえることのできる組織がなければ革命はできないということなのである。


 第一章  教条主義と「批判の自由」


 1)「批判の自由」とはなにか?

 「今日の国際的な社会民主主義派のなかに二つの傾向ができあがっている…」「批判の自由」の名のもとに、①『古い、教条主義的』(だとの汚名を着せられている)マルクス主義の潮流と ②この『批判的』態度をとっている『新しい』傾向

 → 「イギリスのフェビアン派も、フランスの入閣論者(=ミルラン、急進社会党から転向し後に、第12代大統領になった人物)も、ドイツのベルンシュタイン主義者もすべてこうした連中は一家族をなして」いる。

 → ベルンシュタインらの主張とは、①社会主義を科学的に基礎付け、その必然性・不可避性を唯物史観の見地から立証することを否定すること。②したがって、社会主義自由主義は原則的に対立するものであることを否定し、社会革命の党を社会改良の党へと変質させようとするものである。③階級闘争の理論は、多数の意思にしたがって統治される厳密な民主主義社会とは相容れないと主張し、かつ「終局目標」の概念すなわちプロレタリア独裁の思想を排撃することである。


 これは「革命的社会民主主義からブルジョア社会改良主義にむかって決定的に転換せよ、という要求」であり、それは「マルクス主義のすべての基本的思想のブルジョア的批判への転換」をともなっておこなわれた。
   
 つまり、国際社会民主主義内の新しい潮流とは「…日和見主義の新しい変種以外のなにものでも」ないし、また「『批判の自由』とは、社会民主主義派内の日和見主義的傾向の自由であり、社会民主主義を民主主義的改良党に変える自由であり、社会民主主義の中にブルジョア思想とブルジョア的要素とを植えつける自由である」


 「自由とは偉大なことばではある。しかし産業の自由という旗印のもとで最も強盗的な戦争がおこなわれてきたし、労働の自由という旗印のもとで労働者は略奪されてきた。『批判の自由』ということばの今日の使い方にも、これと同じ内面的虚偽がひそんでいる」

 「自分の手で科学を前進させたと真に確信している人なら、古い見解とならんで新しい見解を要求するのではなく古い見解を新しい見解と置き換えることを要求するはずである」(P19)


 → 日和見主義の特徴は、彼らがマルクス主義の理論を真っ向から否定、あるいは論駁をせず、部分的にこっそりとすり替えて、なにか新しい革命的な見解を見出したかのように吹聴し、社会科学として確立されたマルクス主義の体系的理論を歪曲・破壊することにある。
   
 2)「批判の自由」の新しい擁護者たち


 「批判の自由」を『ラボーチェエ・デーロ』が政治的要求として提出した。
 これは「国際社会民主主義派内の日和見主義的傾向全体の弁護を引き受けるということ」であり「ロシア社会民主主義派内の日和見主義の自由を要求しているということである」

 ・『ラボーチェエ・デーロ』の主張
 「今日の社会主義運動のなかには階級利害の衝突というようなものはない。この運動全体が、…ベルンシュタイン主義者までも含めて…すべて、プロレタリアートの階級利害の基盤に、政治的および経済的解放をめざすプロレタリアート階級闘争の基盤に立っている」
 ・レーニンは、国際社会民主主義内の日和見主義的潮流がフランス、ドイツでどのように現れたかを明らかにし、つぎにロシアにおける社会民主主義派内の日和見主義、その代弁者である『ラボーチェエ・デーロ』が、自分たちの見解として真っ向から押し出さないやり方、自分の論拠を明らかにしないやり方で日和見主義を擁護していることを暴露している。

 →ドイツの「猿まね」、ロシアにおける『ラボーチェエ・デーロ』の「かくれんぼう遊び」とは、このように隠然と日和見主義を持ち込み、あるいは自分の見解をかくして日和見主義を擁護することをさしている。
 ・世界の共産主義運動の中で「それぞれの条件や歴史性に照応し形態を変えて登場してくる日和見主義」は、常にマルクス主義を語りつつ、それを正面から理論的に否定するのではなく、部分的にすりかえ「新理論」のように見せかけるという点で共通している。


 3)ロシアにおける批判


  ロシアの事情と特徴
 → 革命的マルクス主義と「『合法マルクス主義』の蜜月」
 「たとえ信頼できない人々とでも、一時的同盟を結ぶことをおそれるのは、自分で自分を信頼しない人々だけがやれることである。それにこのような同盟をむすばずにやっていける政党は、ただの一つもないであろう」

 レーニンは「合法マルクス主義」が権力に許容されたインテリゲンチャの運動ではあるが、非合法下のロシアにおいて、マルクス主義理論を普及するのに一定の役割を果たしたことを評価しつつ、このような「同盟をむすぶための不可欠の条件」は、それ(マルクス主義の理論)によって「働者階級とブルジョアジーの利益とが敵対的なものであることを労働者階級に明らかにする完全な可能性をもっている」ことだと述べている。

  → ところが典型的には『クレード』の主張として顕在化した、ロシアにおける社会民主主義運動は、合法的批判(「合法マルクス主義者」が権力に許容されたベルンシュタイン主義に転向し、階級対立は緩和していると説く潮流)と非合法的経済主義との潮流が結びつき蜜月を形成している。

 「社会革命やプロレタリアートの独裁などの思想を不条理な考えであると宣言し、労働運動と階級闘争を狭い組合主義と小さい斬進的改良のための『現実主義的』闘争とに帰着させること」によって、この(同盟を結ぶための条件)可能性は否定された「これは、ブルジョア民主主義者が社会主義の自主権を、したがってまたその生存権を否定した」に等しいのだと批判している。
   
(補1)ロシア資本主義がツアー専制によるボナパルティズム的支配のもとに成立してきたという特殊歴史性に規定され、はじめのうちは専制の打倒という点でブルジョアインテリゲンチャとの同盟関係を形成できたが、資本の成長とともに次第にプロレタリアートブルジョアジーとの対立が顕在化してきたと言うことであり、歴史の必然なのかもしれない。それはレーニンの組織論、革命論の形成過程とも密接に関係していると思われる。


(補2)革命党の任務は労働者階級を宣伝・扇動を通して教育し、ブルジョアジーによるイデオロギーのくびきから切り離し、階級意識を高めていくことであり、その可能性と条件がある限り、政府に反対し抵抗するあらゆる勢力と同盟を結ぶことは可能だし、しなければならない。レーニンは一貫してこうした立場を主張しているのである。
       
 「ボルシェビズムの歴史全体を通じて、十月革命の前にも後にも、迂回政策や協調政策、ブルジョア政党をはじめとする他の政党との妥協の例がいっぱいある……」と述べて、多くの例を引きながら、「しかも同時に、ブルジョア自由主義に対し、また労働運動内部のブルジョア自由主義の影響の最も小さな現れに対しても、きわめて容赦ない、思想的な、政治的な闘争を行う術を知っており、それを中止しなかった」       (『共産主義における「左翼」小児病』)


 レーニンボルシェビキ専制と闘うあらゆる勢力との同盟=統一戦線を重視したし、そのために闘いの方向性がそらされるという危険性が常にはらんでいることも自覚していた。だからこそ党が自分自身を見失わないための理論闘争が重要であることを強調し、党内での理論上の曖昧さ、不一致を克服するために闘ったのである。
 逆説的に言えば、理論闘争を軽視するものは広範な勢力との統一戦線を恐れ、偏狭な独善的組織へと自分を追い込んでいく以外ない。
 
 4)理論闘争の意義についてのエンゲルスの所論

 『ラボーチェエ・デーロ』の「教条主義、空論主義」「思想の硬直化」等々の批判は「理論的思考の発展にたいする無頓着と無力を隠すもの」「悪名高い批判の自由なるものが、ある理論を別な理論と置きかえることではなく、いっさいの、まとまりのある、考え抜かれた理論からの自由を意味し、折衷主義と無原則性を意味する」(→すなわち原則の否定)。
 レーニンは、こうした理論的思考への無頓着や無原則性があらわれる原因が、①マルクス主義の広範な普及にともなって理論水準がある程度低下したこと  ②運動が実践的意義を持ち、また実践的成功をおさめるようになって理論的素養の乏しい人々、それどころか全然そういう素養のない人々までが大ぜい運動に参加してきたという点を指摘しつつ、『ラボーチェエ・デーロ』の主張は「マルクスの名において理論の意義を弱めよう」とするものだと断罪し、その例として「『現実の運動の一歩一歩は1ダースの綱領よりも重要である』というマルクスの金言を勝ち誇ったようにもちだして」いることを例にあげ、この的外れで無頓着な引用(※注)に見られるものこそは理論の軽視に他ならないと喝破している。
  

 ※注→このマルクスの言葉というのは、ゴータ綱領がアイゼナッハ派に譲歩し折衷主義的になってしまったことを総括して、マルクス・エンゲルスが「綱領よりも重い教訓を得た」という意味で言ったもので「もし、是非とも提携しなければならないのなら運動の実際的目的を満たすために協定をむすぶがよい。けれども、原則の取引を許してはならない。理論上の『譲歩』をしてはならない」といっているのであり、原則を曖昧にしたまま運動の拡がりのみ目的にすることを戒めているのだ。


 次に、レーニンエンゲルスの『ドイツ農民戦争』の序文を引用し、理論活動は労働運動の勝利のために必要であるとともに、それは労働運動の指導者にとっての義務でもあることを確認している。
 
 「エンゲルスは、社会民主党の大きな闘争の形態として、二つのもの(政治闘争と経済闘争)をみとめるのではなく、――わが国ではこうするのがふつうであるが――理論闘争をこの二つと同列において三つの形態をみとめている」
 労働者階級が潜在的に革命的能力を持っているにもかかわらず、それを自覚し得ないのはなぜなのか。イギリスやフランス、スペインその他の労働者階級がすばらしい戦闘性、組織性を発揮しながらも後退を余儀なくされ、異質なものになってしまったのはなぜか。それを理論活動に秀でたドイツの革命党建設と対比しながら考察し、革命党、とりわけその指導者の義務として理論的研究が重要なのだということを述べている。レーニンマルクス・エンゲルスの問題意識を実践的に継承・発展させるものとして前衛党組織論を確立し、そうすることによってはじめてロシア革命の基礎がつくられたのである。
   
 (ドイツの労働者がヨーロッパの他の国々の労働者と比べて理論的感覚をもっていたこと、イギリスの労働組合やフランスの経済闘争の先例に学ぶことができるという利点を生かすことで)「労働運動が生まれていらい、ここにはじめて闘争は、その三つの側面――理論的側面、政治的側面、実際的・経済的側面(資本家に対する反抗)にわたって、調和と関連をもちつつ、計画的に行われている」ここにドイツの運動の強さと不敗の力がある。そうであれば、なおさら「指導者の義務は、あらゆる理論的問題についてますます自分の理解をふかめ、古い世界観につきものの伝来の空文句の影響をますます脱却し、そして社会主義が科学となったからには、また科学としてとりあつかわなければならないこと、すなわち研究しなければならないことをたえず心にとめておくことで
  あろう」<エンゲルスの『ドイツ農民戦争』序文> P45)

  
 第一章でレーニンが提起していることは、
  ①指導者が理論活動の義務(研究)を果たし
  ②そこで獲得された理解を党派闘争と労働者階級の理論的感覚を形成するために適用しなければならない、ということ。
  → 革命的理論なしには革命的運動もありえない」
                                <第二回に続く>


  【レーニンと組織論形成過程】

1895年 10月 「闘争同盟」メンバー一斉検挙
1895年 末~96年夏 レーニンは獄中で『社会民主党綱領草案と解説』を執筆
1898年   ロシア社会民主労働党第一回大会)
1899年   ドイツ社会民主党のベルンシュタインが公然とプロ独に反対する改良運動を提案。ロシアの「経済主義者」グループが『青年組のクレード(信条)』を発表
1899年 8~9月 レーニン「クレード」に対し『ロシア社会民主主義者の抗議』 『われわれの綱領』『われわれの当面の任務』を執筆し反論
1900年 1月 シベリア流刑を終え、1899.7月に出国したレーニンジュネーブでプレハーノフらと合流
  12月 イスクラ」創刊号発刊。経済主義者との闘争開始
1901年 5月 『なにから始めるべきか』(「イスクラ」第4号) 『経済主義者の擁護者たちとの対話』
1902年 2月 『なにをなすべきか?』執筆
  9月 『われわれの組織上の任務について一同志にあたえる手紙』 (→1904.01にジュネーブで小冊子として再刊)
1903年 8月 (ロシア社会民主党第二回大会)
1904年 1月 『一歩前進、二歩後退』(第二回大会の総括と分析)
1905年   血の日曜日」~1905年革命 /(ロシア社会民主党第三回大会)中央機関を中央委員会に一本化(編集局との並立を廃止)、中央委員の選出に選挙制を適用
1906年   (ロシア社会民主党第四回大会)/中央委員会が編集局を任命するという組織原則を打ち出す。各級レベルでの選挙実施を原則化するよう提案

憲法前文は平和主義・国民主権という理念の変更を認めてはいない

憲法改正論議を阻害してきた9条改憲

 憲法第96条は、あくまでも憲法の「改正」を規定したものであり、憲法の理念を覆すような自民党の「改憲」は憲法が認めていない。憲法前文の成立過程はそれを証明している。

立憲民主党の登場によって現実的には「改憲」そのものに絶対反対という勢力(いわゆる護憲派)は少数派になりつつある。

ただ、これまで「護憲派」と言われてきた人々は憲法の改正(修正)に絶対に反対だったのだろうか。現在は方針を転換したかに見える日本共産党だが、天皇制に反対していた当時、象徴天皇制を規定した憲法を望ましいと思っていただろうか。社会党社民党自衛隊違憲論と容認派の間で揺れ動いたとき、憲法の矛盾に整合性を求めようとしなかったのだろうか。

あるいは、国家公務員法という法律が、憲法の規定する公務員の規定、つまり国民による選定と罷免の権利(憲法第15条)を満たすものではないが、この矛盾をどうするのか。

また、NHK出身の極右の参議院議員和田正宗氏が改憲を言う時によく持ち出す憲法第11条と第97条の重複も、その指摘自身は間違ってはいない。

憲法第11条)
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。 
憲法97条)
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

「この憲法が(日本)国民に保障する基本的人権は」「侵すことのできない永久の権利として」「現在及び将来の国民に」与えられる、という部分は全く同じである。

 97条は、基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ」て勝ち取られたものだという事を強調したかったに違いない。それがGHQの意思だったとしても不思議ではない。しかし、憲法の理念は前文に表現されているのだから、今日的に見た場合、敢えて97条が必要なのかというのは論議を必要とするだろう。

このように、憲法自体の見直しが必要なことは、論理的にも語学的にも絶体的に否定すべき事でないことは自明のことだ。

では、何故「護憲派」と言われてきた人々が、「改憲」に是が非でも反対を貫こうとしたのか。

それは改憲を主張してきた自民党の主要な狙いが、9条の改憲=軍隊と交戦権の容認にあることが明らかだったからだ。
護憲派の人々が、憲法96条に改正手続きが規定されていることを知らなかった訳でも、また憲法は未来永劫一切の改正も許されないものだと考えていた訳でもないだろう。

戦後一貫した保守支配体制の中で、うっかり改憲論議に加われば9条改憲に道を開くかもしれないという護憲派の危機意識が憲法全体を見直す改正=修憲のための論議をタブー化してきたのである。

 ところが、最近では自民党日本会議に所属する議員の中に、戦争放棄を規定した第9条の改憲のみならず、ブルジョア革命=市民革命以来続いている近代国家の在り方そのものを否定し、基本的人権国民主権は「自主憲法」を作るうえでの障害だと言い出す者まで現われる始末である。

また「緊急事態法」も、人民は国家の意思に従うのが当たり前という人権意識を下敷きにして出されてくるのは明らかである。

そこで、ここでは憲法前文の成立過程の検証を通して、憲法の理念を変えるような「改憲」はこの憲法が認めていないという事を明らかにしたい。

憲法制定に至る総司令部と日本政府の攻防

 はじめに憲法成立過程の流れを資料に沿って整理しておきたい。
(以下の図表は衆議院憲法審査会事務局 資料。詳細はリンク先参照)   http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi090.pdf/$File/shukenshi090.pdf 

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【1】松本四原則  1945年12月8日

 松本烝治国務大臣衆議院予算委員会において、憲法問題調査委員会の調査の動向及びその主要論点を述べたもので、政府側が憲法改正問題について具体的に述べた最初のものである。

  • 天皇統治権を総攬するという原則には変更を加えない
  • 議会の権限を拡大し、その結果として大権事項を制限する。
  • 国務大臣の責任を国務の全般にわたるものたらしめ、国務
    大臣は議会に対して責任を負うものとする。
  • 人民の自由・権利の保護を強化し、その侵害に対する救済を完全なものとする。

【2】 松本案 (「甲」案) 1946年1月

  松本国務大臣憲法問題調査委員会の議論を参考にして起草した憲法改正私案を骨子として、宮沢俊義委員(東大教授)が要綱化(後に甲案と呼ばれる)、さらに松本国務大臣が更に加筆して総司令部に提出するための「憲法改正要綱」【3】を作成した。

尚、この案とは別に、憲法問題調査委員会の小委員会は、総会に現れた各種の意見を広く取り入れた改正案を起草し、これが後に乙案と呼ばれた。

甲・乙両案とも明治憲法に部分的に改正を加えるものであったが、取り上げた改正点は乙案のほうが多く、また乙案には条文によっては数個の代案があった。

ところが、この松本案(いわゆる甲案)は正式発表前の 1946 年 2 月 1 日、毎日新聞にスクープされ、それによって松本案の概要を知った総司令部はその保守的な内容に驚き、マッカーサーは 2 月 3 日、ホイットニー民政局長に対し三つの原則【4】示し、独自の憲法草案作成を命じた。

日本政府側も甲案にさらに加筆した憲法改正要綱」を2月8日に提出したが、GHQは既に原案作成作業を始めており、これは拒否されたのである。

  〈甲案の主な項目〉

  • 明治憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラスを「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」と改める。
  • 軍の制度は存置するが、統帥権の独立は認めず、統帥も国務大臣の輔弼の対象とする。
  • 衆議院の解散は同一事由に基づいて重ねて行うことはできないこととする。
  • 緊急勅令等については帝国議会常置委員の諮詢を必要とする。
  • 宣戦、講和及び一定の条約については帝国議会の協賛を必要とする。
  • 日本臣民は、すべて法律によらずして自由及び権利を侵されないものとする。
  • 貴族院参議院に改め、参議院は選挙または勅任された議員で組織する。
  • 法律案について衆議院の優越性を認め、衆議院で引き続き三回その総員三分の二以上の多数で可決して参議院に移した法律案は、参議院の議決の有無を問わず、帝国議会の協賛を経たものとする。
  • 参議院は予算の増額修正ができないこととする。
  • 衆議院で国務各大臣に対する不信任を議決したときは、解散のあった場合を除くのほかその職にとどまることができないものとする。
  • 憲法改正について議員の発議権を認める。

 

【3】 憲法改正要綱 1946年2月8日 GHQが拒否 

<主な内容>

  1.  改正の根本精神 ポツダム宣言第10項(民主主義、宗教及び思想の自由、基本的人権の尊重)の目的を達しうるもの
  2.  天皇
    (1)天皇の大権を制限し、重要事項はすべて帝国議会の協賛を要するとし、国務は国務大臣の輔弼をもってのみ行いうる。
    (2)国務大臣帝国議会に責任を負う。
  3.  国民の権利及び自由
    (1)あらゆる権利、自由は法律によらなければ制限されない旨の一般規定を設ける。
    (2)行政裁判所を廃止し、行政事件の訴訟も通常の裁判所の管轄に属せしめる。
    (3)独立命令の規定、信教の自由の規定を改正し、非常大権の規定を廃止する。
    (4)華族制度、軍人の特例等、国民間の不平等を認めるがごとき規定を改正・廃止する。
  4.  帝国議会
    貴族院参議院と改め、皇室、華族を排除し、衆議院に対し第二次的な権限を有するにすぎないものとする。
  5.  枢密院
    枢密院は存置するが、帝国議会の権限の強化及び帝国議会常置委員の設置に伴って、従来の枢密院の国務に対する権限は排除され、政治上無責任のものとする。
  6.  軍
    (1)「陸海軍」を「軍」と改める。
    (2) 軍の統帥は内閣の輔弼をもってのみ行われる。(3) 軍の編制及び常備兵額は法律をもって定める。
  7.  その他
    (1) 皇室経費について、議会の協賛を要せざる経費を内廷の経費に限
    (2) 憲法改正の発議権を帝国議会の議員にも認める。(3) 従来、憲法及び皇室典範の変更は摂政を置く間禁止されていたのを解除する。

【4】 マッカーサー三原則  1946年2月3日 

  • 天皇は、国家の元首の地位にある。皇位の継承は、世襲である。天皇の義務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところにより、人民の基本的意思に対し責任を負う
  • 国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段とし戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない
  • 日本の封建制度は、廃止される。皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上に及ばない。華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むものではない。予算の型は、英国制度にならうこと。

【5】 総司令部案   1946年2月13日 

総司令部は、日本側が提出した憲法改正要綱を全面的に拒否し、マッカーサー三原則に沿った総司令部案を日本側に交付し、これに基づく改正案の作成を求めた。

〈主な内容〉

 総司令部案には前文がついていたが、これについては後半で検討する。

  1. 国民主権天皇について
    主権をはっきり国民に置く。天皇は「象徴」として、その役割は社交的な君主とする。
  2.  戦争放棄について
    マッカーサー三原則における
    「自己の安全を保持するための手段としての戦争」をも放棄する旨の規定が削除された。
  3.  国民の権利及び義務について
    (1)
    現行憲法基本的人権がほぼ網羅されていた。
    (2)社会権について詳細な規定を設ける考えもあったが、一般的な規定が置かれた。
  4. 国会について
    (1) 貴族院は廃止し、
    一院制とする
    (2)
    憲法解釈上の問題に関しては最高裁判所に絶対的な審査権を与える
  5.  内閣について
    内閣総理大臣国務大臣の任免権が与えられるが、内閣は全体として議会に責任を負い、不信任決議がなされた時は、辞職するか、議会を解散する。
  6. 裁判所について
    (1)
    議会に三分の二の議決で憲法上の問題の判決を再審査する権限を認める
    (2) 執行府からの独立を保持するため、最高裁判所に完全な規則制定権を与える。
  7.  財政について
    (1) 歳出は収納しうる歳入を超過してはならない

    (2) 予測しない臨時支出をまかなう予備金を認める
    (3) 宗教的活動、公の支配に属さない教育及び慈善事業に対する補助金を禁止する。
  8.  地方自治について
    首長、地方議員の直接選挙制は認めるが、日本は小さすぎるので、
    州権というようなものは どんな形のものも認められないとされた。
  9. 憲法改正手続について
    反動勢力による改悪を阻止するため、
    10年間改正を認めないとすることが検討されたが、できる限り日本人は自己の政治制度を発展させる権利を与えられるべきものとされ、そのような規定は見送られた。

 

日本側は、突如として全く新しい草案を手渡され、それに沿った憲法改正を強く進言されて大いに驚いた。そして、その内容について検討した結果、松本案が日本の実情に適するとして総司令部に再考を求めたが、一蹴されたので、総司令部案に基づいて日本案を作成することに決定した。

【参考】いわゆる「押しつけ憲法論」について
上述のとおり、総司令部案が提示され、この草案を指針として日本国憲法が作成されたことについて、現行憲法は「押しつけられた」非自主的な憲法であるとの見解がある。
しかし、マッカーサーの3原則が必ずしもそのまま草案化されている訳でない事は比較して見ればはっきりする。むしろ、マッカーサー3原則が「占領統治」という立場を意識したものであるのに対し、出来上がった総司令部案にはより民主的なものを求めようとした意思さえ感じられる。

なお、「総司令部が草案作成を急いだ最大の理由は、2 月 26 日に活動を開始することが予定されていた極東委員会(連合国 11 ヵ国4の代表者から成る日本占領統治の最高機関)の一部に天皇制廃止論が強かったので、それに批判的な総司令部の意向を盛り込んだ改正案を既成事実化しておくことが必要かつ望ましい、と考えたからだと言われている。

もっとも、草案の起草は 1 週間という短期間に行われたが、総司令部では、昭和 20 年の段階から憲法改正の研究と準備がある程度進められており、アメリカ政府との間で意見の交換も行われていた」との指摘(芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法(第 6 版)』(岩波書店、2015 年)25 頁)もある。

【6】 三月二日案   1946年3月4日 

 総司令部案に基づき日本側が起草し、3月4日に総司令部に提出したもの

【参考】3 月2 日案の主な特色(総司令部案との主な相違)

  1. 前文を削除(注)
  2. 天皇の地位に関する「人民ノ主権的意思(sovereign will)」を「日本国民至高ノ総意」と改めた(主権が天皇から国民に移るという革命的な変革を条文上明記することを回避する趣旨)
  3. 天皇の国事行為について、内閣の「補弼及協賛(advice and consent)」を「補弼」に変更
  4. 2月13 日会談で松本国務大臣が「一番驚いた」(何と社会主義的な!)条文である「土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有権ハ人民ノ集団的代表トシテノ国家ニ帰属ス」を削除
  5. 院制を二院制に変更
  6. 国会召集不能の場合における応急措置に関する「閣令」規定の追加
    芦部信喜憲法学Ⅰ』(有斐閣、1992 年)167-168 頁)

(注) 総司令部案には前文があったが、三月二日案ではこの前文はすべて削除された。総司令部案の前文は国民が憲法を制定するとしているが、明治憲法によれば憲法改正天皇の発議、裁可によって成立することとなっているためである。この「国民主権」をめぐる抵抗は天皇の位置をどう扱うかとも密接に結びついている。

上記「3 月 2 日案」をめぐる総司令部との交渉での主な争点とその結果は以下のようであった。

  1. 前文を省略 ⇒総司令部案がほぼ完全に復活
  2. 「至高ノ総意」 ⇒了承
  3. 「補弼」 ⇒「輔弼賛同」に修正
  4. 「土地ノ国家帰属」を削除⇒了承
  5. 一院制を二院制に変更 ⇒了承(ただし、参議院の組織に関する提案は拒否)
  6. 国会召集不能の場合における応急措置に関する「閣令」規定の追加 ⇒削除

 この作業の大部分は、佐藤達夫法制局第一部長(当時)が一人で当たったとされる。
 草案要綱は、その後、総司令部との交渉を経て、幾つかの点に修正が加えられ、これと並行して要綱を口語体の条文として成文化する作業が進められ、4 月 17 日、枢密院への諮詢と同時に「憲法改正草案」(内閣草案)として公表された。

密院で可決された内閣草案は、明治憲法 73 条の定める手続に従い、1946年6 月 20日、新しく構成された第 90 回帝国議会衆議院に、「帝国憲法改正案」として勅書をもって提出された。
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衆議院は、帝国憲法改正小委員会を作り、7月25日から8月20日までの間に13回にわたって秘密を開き、各会派から提出された修正案の調整を行った。

「帝国憲法改正案」には佐藤達夫法制局次長による書込みが随所に見られる。
こうして原案に若干の修正を加えたのち、8 月24 日圧倒的多数をもってこれを可決し、貴族院に送付された。 http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/123/123_002l.html

 

 

衆議院における主要な修正点】
国民主権の表現の明確化(総司令部からの要求により修正したもの)
②9条の文言の修正―戦力の不保持を定めた第9条第2項に「前項の目的を達するため」という文言を挿入(この修正によって、この規定は自衛のための軍隊の設置が必ずしも否認するものでないという解釈に道を開いた)
③国民たる要件を法律で定める規定と納税の義務の規定を新設
生存権の規定、勤労の義務の規定、国家賠償の規定、刑事補償の規定を設けたこと、等。

宮澤俊義著・芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』(日本評論社、1981 年)

 衆議院特別委員会が本会議に提出した修正議決の報告書には、貴族院での修正箇所も一部手書きで記されている。英語のciviliansに対応する用語が、「武官の職歴を有しない者」が「文民」に落ち着いた経過などもこの資料からもうかがえる。


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憲法9条よりも攻防を極めた前文=国民主権の理念

日本政府が考えていた、いわゆる松本案をベースにした「憲法改正要綱」には、改正の根本精神として「ポツダム宣言第10項(民主主義、宗教及び思想の自由、基本的人権の尊重)の目的を達しうるもの」が考えられていたが、「憲法前文」は無かった。

そもそも、日本政府は明治憲法大日本帝国憲法に手を加える形での改憲を考えていたのであるが、大日本帝国憲法に前文はなく、明治天皇が神に誓う告文(つげぶみ)が詠まれた後、勅語が発せられたである。

朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣榮(きんえい=喜びと光栄)トシ、朕ガ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ、現在及ビ将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス

意訳(私は国家の隆昌と臣民の喜び幸せとを以て、一番の喜びと光栄とし、私が歴代の先
祖から受け継いだ大権によって、現在及び将来の臣民に対してこの不磨の大典を宣布する。(このあとに、惟ウニ我ガ祖、我ガ宗ハ我ガ臣民祖先ノ協力輔翼ニヨリ我ガ帝国ヲ肇造シ、以テ無窮ニ垂レタリ・・・と続く)

 

 <総司令部案 >   1946年2月13日

 政府ノ行為ニ依リ再ヒ戦争ノ恐威ニ訪レラレサルヘク決意シ、茲ニ人民ノ意思ノ主権ヲ宣言シ、国政ハ其ノ権能ハ人民ヨリ承ケ其ノ権力ハ人民ノ代表者ニ依リ行使セラレ而シテ其ノ利益ハ人民ニ依リ享有セラルトノ普遍的原則ノ上ニ立ツ此ノ憲法ヲ制定確立ス、而シテ

我等ハ此ノ憲法ト抵触スル一切ノ憲法、命令、法律及詔勅ヲ排斥及廃止ス(we reject and revoke all constitutions, ordinances, laws and rescripts in conflict herewith.)

 

憲法改正草案要綱」  1946年3月6日

日本国民ハ、国会ニ於ケル正当ニ選挙セラレタル代表者ヲ通ジテ行動シ、我等自身及子孫ノ為ニ諸国民トノ平和的協力ノ成果及此ノ国全土ニ及ブ自由ノ福祉ヲ確保シ、且政府ノ行為ニ依リ再ビ戦争ノ惨禍ノ発生スルガ如キコトナカラシメンコトヲ決意ス。乃チ茲ニ国民至高意思ヲ宣言シ、国政ヲ以テ其ノ権威ハ之ヲ国民ニ承ケ、其ノ権力ハ国民ノ代表者之ヲ行使シ、其ノ利益ハ国民之ヲ享有スベキ崇高ナル信託ナリトスル基本的原理ニ則リ此ノ憲法ヲ制定確立シ、之ト牴触スル一切ノ法令及詔勅ヲ廃止ス。

 

憲法改正草案 前文> 1946年4月2日GHQ承認 4月17日、発表

わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する

 

<帝国憲法改正案 前文>(帝国議会に提出) 1946年6月20日

日本国民は、国会における正当に選挙された代表者を通じて、我ら自身と子孫のために、諸国民との間に平和的協力を成立させ、日本国全土にわたって自由の福祉を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が発生しないやうにすることを決意し、ここに国民の総意が至高なものであることを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の崇高な信託によるものであり、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行ひ、その利益は国民がこれを受けるものであつて、これは人類普遍の原理であり、この憲法は、この原理に基くものである。我らは、この憲法に反する一切の法令と詔勅を廃止する。

 

<「衆議院小委員会修正」>

1946年7月25日から8月20日まで13回に亘り非公開で行われた衆議院帝国憲法改正小委員会では、各会派から提出された修正案をもとに討議され、条文の調整が行われた。同時に「憲法前文」はこの憲法の理念、性格を規定する重要な位置を持つもので、実に総司令部との間でも最も争点になっていたものだったのである。

政府は、4月2日に総司令部から草案の承認を受けていたにも拘らず、3月6日の「憲法改正草案要綱」の前文を口語体に変えたものを「憲法前文」として提出している。

これは、国民主権 ②この憲法に反する憲法を認めないという2点をどうしても前文に入れたくないという意図があったか、あるいはその意味を理解していなかったという事なのかもしれない。

しかし、小委員会での論議は政府のこの意図を打ち砕き、今日の「帝国憲法改正修正案」として衆議院に提出されたのである。

http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/124_1/124_1_001l.html 

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衆議院修正可決「帝国憲法改正案」> 1946年8月21日提出

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する

 

⇒ 帝国議会衆院小委員会で当初案がほぼ現行憲法の形になるまでの文言の書き換えや細部の修正が行われた。その意味では、GHQから押し付けられた憲法に唯々諾々と従ったのではなく、各会派の真剣な議論の結果だったと見るべきなのである。

 これまでの検証を通して憲法前文」にはGHQとの間で、その理念をめぐる対立があり、条文そのものにも増して重要な争点だったことがうかがえる。それは、一つは「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存する」という平和主義の確立と国民主権をめぐる考え方、もう一つは、「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という理念を排除した改憲をあらかじめ禁じる、という事が焦点だったのである。 

 今日、憲法学者の中には「憲法前文」は条文のように拘束力を持たないという意見もあり、改憲に反対する勢力の中でも「前文の重要さ」が殆んど注目されていない。

私たちは憲法制定過程ではこの前文が極めて重視されていた事の意味をしっかり考えるべきではないだろうか。

遺伝子組み換え食品への道を開いた種子法の廃止

 戦後日本の農政と消費者の食を守ってきた食管法と種子法

4月1日をもって主要農作物種子法が廃止された。
これと軌を一にして、モンサントなどの化学資本による遺伝子組換え食品の安全性をPRする活動が活発化している。

まさに、種子法の廃止は戦後農政を画する重大な農業政策の転換であり、依然日本農業の主流をなす零細な兼業農家にとって、その営農基盤を破壊する攻撃である。

同時に、消費者=労働者人民にとってはこれまでの食の安全と安定供給が根底から脅かされかねない、決して看過できない問題を突き付けられたということである。

種子法は、講和条約発効直後の1952年5月に施行され、主要穀物(コメ、小麦、大豆など)の安心・安全な種子の生産とその農家への安定供給に関する責任を国と都道府県に義務づけた法律である。

この法律の下で、国と都道府県は各種の農業機関(農業試験所など)を創設し、国家予算・自治体予算をつけて、各地域に適合する品種の開発(例えばコメでいえばコシヒカリや秋田小町の開発など)、種子の計画的な生産が進められ、それらは農協(現在のJA)を介して農家に安価かつ安定的に供給された。そして農家はその種子を原資にしてコメを中心に食糧増産を行い、北海道、東北地方を穀倉地帯に変え、食管法(注)の施行の下で、戦後一貫して、労働者人民の食生活を支え続けてきたのである。

(注) 政府による生産者米価の高額購入=農民・農業保護政策の一方で、 食管財政をもって低価格販売を保障することによって労働者の低賃金政策を下支えするという国家独占資本主義政策であった。

 ところで、日本の農政は、以下のごとく占領時を除けば米帝国主義との争闘戦を軸にしてめまぐるしく変化してきたのである。
1947~48年 農地改革(地主制度解体・農地分配と自作農創出)
1954年 日米間におけるMSA協定
1955年 農産物貿易促進援助法の調印(米帝の援助を前提としたコメ生産への特化と小麦・大麦生産の切り捨て)
1960年 日米安保条約(米国市場を前提とした食糧輸入国化と工業製品の輸出立国化へ)
1961年 農業基本法(農業生産の機械化、化学化、大規模化への転換政策)
1985年 プラザ合意(農産物・魚介類・木材収奪のためにアジア諸国への資本進出)
1994年 ウルグアイ・ラウンド(コメの部分自由化受け入れ)
1995年 食糧法(コメの商品化と自主流通米制度の導入)
1999年 食糧・農業・農村基本法(第2の農業基本法
2002年 米政策改革大綱
2012年 アベノミクス政策(商業資本の農業生産への参入の解禁と「農地バンク」政策) 

 しかしこの過程にあっても種子法だけは維持され、その下で安価で優良な種子の安定供給を受けながら農家=農民階層によって農業生産は進められたのであった(なお、この過程における農政の変化に関しては別の機会に検討したい)

 種子に関して言えば、例えば主食であるコメの場合、この種子法の下で開発された品種は357種であり、このうち都道府県開発の品種が261種、国が開発した品種が52種(これらは公共品種と呼ばれる)、民間企業開発の品種(民間品種)が44種であり、公共品種が民間品種を圧倒している(2014年度、農水省まとめ)

それをコメ生産量でみると、民間品種による生産量は0.3%、公共品種による生産量は99%以上であるという(2016年度のデータ)。つまり現在の日本におけるコメ生産は種子法に基づく公共品種の種子に決定的に依存していて、それをわれわれは食しているのである。

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   なぜ種子法の廃止なのか。

TPP協定をめぐる日米対立(主として自動車、牛肉・農産物の関税撤廃問題)でアメリカの農・食・産コングロマリットカーギルモンサントなどの多国籍企業)からは、日本の農・畜産物市場開放が強く要求された。安倍政権はこれに適応させるように国内農業政策の改定・検討を進めてきた。

そして、規制緩和・民営化推進派の「有識者」から成る規制改革推進会議を2016年に立ちあげた。この推進会議は即座に「種子法は民間企業の投資意欲を阻害する」という理由をつけて、これを廃止するよう提案したのであった(2016年10月)。

 それは、上記したデータで見られるように農業生産の現場では民間品種が圧倒的に公共品種(国や地方自治体など)に駆逐されている現実、すなわち種子法に基づく種子市場における公共品種の独占状態という壁(規制)を取り払って民間品種の自由な参入を促進し、やがて公共品種を駆逐するという民間資本の意志の表明であったといえる。

 戦後の日本農業を根本において支えてきた種子市場に規制緩和・民営化路線を貫徹することによって農業への民間資本の参入に道を開こうとしたのである。

安倍政権はこの提案を閣議決定(2017年2月)し、ただちに国会に上程した。

 国会は、与野党間で殆んどと言っていいほど議論のないまま、しかもJA、各種農業団体、そして何よりも直接的な生産者である農家=農民階層の意見を聞くこともなく、したがって大部分の農家=農民階層に知らされる間もなく一方的に種子法の廃止が決定されたのであった(2017年4月)。

 しかし営農活動を99%以上の公共品種に依存して農業生産を続けてきた農民、とりわけコメ農家は、突如として安倍政権により公共品種の供給を絶たれ、生産実績のない、しかも公共品種に比べて高額な、収穫までに手間のかかる民間品種の採用を強制されるという事態に直面することになったのである。

当然、穀倉地帯では農家=農民階層(とくに零細な兼業農家)の怒りが巻き起こり、その結果、全国的な規模で農業生産を支えてきた旧来からの行政システムは大混乱に陥る。しかもその上、種子法廃止に伴って国から地方自治体に支給される関連交付金も削減され、自治体独自の多様な品種改良事業も縮小または打ち切りになる。
 それは地域農業の持続的な経営を阻害し、とどのつまりは当該自治体における地域経済(自立した地場経済)を縮小させ、不可避に農山村の過疎化・廃村化を進めるのは確実である。

 このようなことから、現在、新潟、兵庫、埼玉、北海道、長野、愛知などの各県では、廃止された種子法に準拠した内容で独自の種子条例を制定して、予算を組んで品種改良・開発を続け、農家=農民階層の営農活動の持続的な維持に対応しようとしているという。明らかに、国と農山村の比重が高い主要な自治体は、互いに対立する種子政策(農業政策)を採用してベクトルの異なる方向に動き出しているといえる。

 民間品種へシフトする狙いは何か

 コメを例にとれば、日本では主要には三井化学住友化学、日本モンサントに代表される化学資本によって開発された品種である。
 いずれも国や都道府県が開発した既存の公共品種をベースにして開発され、公共品種に比べて単位収穫量が多いので、大規模化した営農活動には好適と宣伝されている品種である。
 しかし、それは公共品種に比べて価格が最大で10倍はするという高額な品種であり、これまでは三井化学の品種は既に牛丼チェーンの業務米として使用され、住友化学の品種はコンビニの弁当として使用されているという。

 種子と農薬と化学肥料のセット販売

これらの品種は、種子(種もみ)と農薬と化学肥料を1セットにして販売されるところに特徴がある。

種子それ自体はコメの生産経費の2~3%と低額であるが、農薬・化学肥料がそれぞれ10%前後を占めるので、この種子で生産されたコメの場合、種子関連の生産経費だけで25%程度になるという仕掛けになっている。

化学資本は種子の販売と同時に自社の農薬と化学肥料を一体で販売でき、そしてそれに伴うもうけが転がり込むという仕掛けになっているのである。

① この結果、農家にとって民間品種は公共品種に比べてかなり高負担(経費増)となり営農活動を圧迫する事になる。
 しかもこれら民間品種は大規模化した農場経営でこそ相対的に高収益が得られ、品種の特性を生かすことも可能である。

したがって、小規模で分散した農地を持つ零細農家は駆逐され水田の集積化・大規模化に舵を切っていくことは間違いない。

 大資本による大規模農業化と零細農家の放逐

②また、それに伴って直接的なコメ生産では各種農機具の大型化・多機能化が求められることになり、システム化された企業経営・管理機構や収穫・貯蔵・販売・輸送・営業活動のために巨額な営農資金―資本投下が必要になる。

 日本農業は互いに分散する零細な兼業農家が依然として主流であり、これら農家にとって自己資本は無きに等しいのであるから、彼らは金融機関から返済不能な多額の借金でもしない限り、このような民間品種に依存する大規模農業は採用することも参入することも事実上は不可能なのである。

 こうして、大部分の零細な兼業農家は農業生産における生産主体としての社会的な立場を剥奪され、実質的に農業生産から駆逐され、それら法人・企業に雇用される農業労働者に転換するか、または土地権利を売却・貸出して離農し、そして都市部に流入し、その地で小規模自営業者や通常の賃労働者に転換するか、いずれかの道を強制されることにならざるを得ないのだ。

この間、安倍政権が進めている戦略特区づくりと「農地バンク」政策はそのための準備作業であるといえるだろう。

 

ではその民間品種を直接的生産者=農家が自分たちの耕作地の土質、気候条件、病虫害対策や収量増加などの条件に合わせて自発的に改良すればいいではないか、と思うだろう。
 いや、それができないのだ。農家の自発的な民間品種に対する品種改良は許されないのである。それはなぜか?

 種子・農畜産物に関する知的財産権の独占支配を狙うアグリ資本

「種子を制する者は農業を制する」この格言が的を射たものである事は、80年代から世界の種子企業を次々と買収し続けて肥大化した、米モンサントカーギルを始めとする6大多国籍企業(化学資本が軸となったアグリカルチャー資本)が全世界の種子市場の7割以上を独占したことによって証明している。

その過程で、これらアグリ資本は、種子・農畜産物に関する知的財産権(注1)の広大な網を世界に張り巡らせ、自らの開発種子とその関連食材に関する排他的な独占権を確保しており、また自らの知的財産権を守るために、米・独・仏・英などのアグリ資本の国際的な連携・要求を背景にして、帝国主義諸国を先導役として国際的に「植物の新品種の保護に関する国際条約」(UPOV条約)を締結させている(注2)

(注1) 生物・物質特許権であり、かの遺伝子組み換え食品の特許権が重要な位置を占める
(注2)この条約は欧米の先進諸国では批准されているが、多くの後進国・半植民地諸国=農業諸国では現在まで批准されていない

 この条約は1991年に改定され、その結果、新品種開発の企業(=アグリ資本=特許権者)の承認なくしては直接的生産者=種子を実使用する農家(生産主体)がその新品種を採種・改良することは原則禁止となったのである。

そして日本は、このUPOV条約を既に1998年に批准している。また、本年3月に米国を除く11ケ国間で調印されたTPP協定においても、TPP参加各国はこのUPOV条約の批准が義務づけられているのである。

 

 このようなことからして、上記した日本の主要な民間品種の開発企業も、少なくとも種子市場では(したがってその下流に位置する農・畜産物市場においても)このUPOV条約の緊縛下にあり、実質的には国際的なアグリ資本の支配下にあるわけだ。

 つまり、種子法が廃止されてしまった今、民間資本が開発した民間品種を購入して使用する農家=農民階層は、それを自家採種して自らの農業生産に適合するように品種改良することは国際条約違反になってしまうという事なのだ。

このことは、農民が自然と共存し格闘しながら農業生産者として生きる権利と生産主体としての誇りを強制的に奪うことに他ならない。

また、遺伝子組み換え食品の流通に道を開く事にもつながる。

 種子法廃止の彼方には、約300万世帯に及ぶ農家=農民階層の破綻・没落状態―日本農業の崩壊を想像するのに難くない。

それは、労働者人民の食生活環境をも国際的なアグリ資本の支配の下に組み込まれることすら意味している。

種子法の廃止は、消費者であるわれわれを養鶏場の鶏のように、養豚場の豚のようにアグリ資本が開発し、市場に供給する範囲の食糧を摂取するだけの戯画の世界に叩き込もうとしているのかもしれない。 

安倍政権による種子法の廃止に断固抗議し、その撤回―存続を求めて闘うことが必要である

内閣調査室をゲシュタポと化した安倍のおぞましき政治支配

  内調は安倍の私的謀略機関

このところ自民党の総裁選をめぐって、内閣調査室(内調)の暗躍がクローズアップされている。

 

自民党総裁選の有力候補と目される石破氏の言動や、誰を推すのかに注目が集まっている小泉進次郎氏の動向、そしてこのタイミングで野田聖子氏の疑惑をリークしたのもおそらく内調がらみだろう。安倍総理は、自分に不都合な人物の動向を公私を問わず監視する恐怖政治を行なっている。しかし、これは今に始まったことでは決してない。安倍官邸が北村をキャップとする内調を私的な謀略機関として利用してきた痕跡は枚挙に暇がない。

   警察組織を使い野党の政治資金を一斉調査

2014年10月 第二次安倍改造内閣で入閣した小渕優子、松島みどりが政治資金問題などで追及され、次々に辞任。これに対抗するように野党幹部の政治資金収支報告書の記載漏れが次々と発覚し、読売新聞や産経新聞にリークされた。

この時期、内調は全国の警察組織を使って野党議員の政治資金の流れを一斉に調査させ、官邸に報告していたという。

   泥酔レイプ容疑の山口氏に対する逮捕を直前で見送らせる

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2015年6月 山口敬之氏の泥酔レイプ容疑での逮捕を妨害、山口氏から北村滋内閣情報官(内調トップ)に宛てたメールが週  刊新潮に誤送信されたことから関与が発覚。

伊藤詩織さんは2015年4月に元TBSワシントン支局長の山口敬之氏に強姦されたと、警察に被害届を出した。逮捕令状が出され、成田空港で捜査員が布陣を敷き、山口氏の帰国を待っていたが、その直前に逮捕が見送られ、その後証拠不十分で不起訴処分となった。

山口氏は安倍首相に近しいジャーナリストであり、官邸の意思が働いたと考えられる。

 
    翁長沖縄県知事へのデマキャンペーンを組織

2015年10月 ネット上で沖縄県知事の翁長雄志氏に関するデマが流布された。

「長女が中国・上海の外交官と一緒になっていて、もう一人の娘も中国に留学している」と言うものである。翁長知事は、県議会の本会議で「娘のf:id:pd4659m:20180805211221j:plain一人は県内で勤めているし、末の女の子は埼玉の大学に行っている」と全面的に否定した。これは、新垣哲司氏(自民)の質問に答えたものだが、こうしたスキャンダルも官邸が内調にやらせていると考えられる。ネットや週刊誌などにデマを流し、これを議会で保守系議員に質問させて焦点化させ、政治的信用を失墜させることが目的なのである。

    都知事選の流れを変えた鳥越スキャンダル工作

2016年7月 都知事候補の鳥越俊太郎氏へのスキャンダルを工作。

出馬会見で「改憲の流れを変えたい」、安倍首相は「福島原発はアンダーコントロールされていると世界中に嘘をついた」と厳しく批判していた。

鳥越氏の脇が甘かったと言えばそれまでだが、この鳥越潰しを巡る内調の動きはその悍ましさを表している。リテラの記事からその一部を抜粋する。

「昨晩あたりから、内調の関係者がテレビや週刊誌関係者に鳥越氏の女性関係を聞いて回っているようなんです。昨日、内調のトップである北村滋内閣情報官が1日に2回も安倍首相と会っていたのも気になります、・・・まあ、首相が直接指示したかどうかはともかく、強力そうな政敵は内調を使ってスキャンダルを仕掛けてつぶす、というのがこれまでの安倍官邸の常套手段。今回、官邸は鳥越氏が出てくるのを相当嫌がっていましたから、女性スキャンダルを仕掛けるというのは十分あるでしょう。パイプのある『週刊新潮』か『週刊文春』にこっそりリークするというやり口でしょうね」(週刊誌記者)

「どうも、内調は今、鳥越氏のファッションアドバイザー的な役割をしている女性を愛人だと決めてかかっているようです。すでにリークを受けた週刊誌が張り込みを始めたという情報もある。また、仮にこれが不発でも、内調のことですから、過去の別れた元愛人を探し出して、官房機密費を彼女に支払って、週刊誌に告白させるなんて仕掛けもやりかねない」(前出・週刊誌記者)

http://lite-ra.com/2016/07/post-2415.html

 実際、21日発売の『週刊文春』で、【鳥越氏が2002年に女子大生のA子さんに強引にキスしようとし、それが今もトラウマになっている】と言う内容の暴露記事が掲載された。A子さんは既に結婚しており、その彼とは2002年当時から付き合っていた。この時、鳥越氏の件を聞いた彼が鳥越氏を呼び出し、鳥越氏は以後TVには出ないと約束して謝罪したが、都知事になるのだけは許せない、という事で14年目にして衆目に晒されることになった。鳥越氏は都知事選に立候補するまでは、幸か不幸か通常通り政治問題等にコメントすることが許されてきたのであるから、被害者にとっては、特に立候補したことそのものが許せなかったという事なのだろう。勿論、いかなる理由があるにせよ、鳥越氏のこのような行為は断罪されるべきである。

ここでは、メディアを利用し政権にとって目障りな政治家を追放していく陰湿で謀略性に満ちたやり方が、安倍政権の下では特に異様なものであると同時に、こうした内調の暗躍が常態化している事だけを指摘したい。

 投票まで2週間を切るタイミングでこの暴露記事が出された結果、選挙情勢はどう変わったか。ここに、ほぼ小池氏当選の流れは確定したのである。

【記事が出る前】
毎日新聞>小池氏、鳥越氏競り合い 増田氏が追う
日経新聞>小池氏が序盤先行 鳥越・増田氏が追う
産経新聞>小池氏一歩リード 鳥越氏、増田氏が急追
共同通信社>小池氏と鳥越氏が競る 増田氏追走

【記事が出た後】

<読売新聞>小池・増田氏競り合い、鳥越氏が追う
日経新聞>小池氏先頭に終盤なお接戦
中日新聞>小池氏がリード
JNN>小池氏を増田氏が追う展開

  山尾志桜里氏への高額ガソリン代キャンペーン

2016年3月~秋

「保育園落ちた」ブログの一件で安倍首相を追い詰め、2年目にして民進党政調会長(当時)に抜擢された山尾志桜里衆院議員に“政治資金疑惑”が浮上した。

  3月31日発売の「週刊新潮」が書いた山尾氏が代表を務める「民主党愛知県第7区総支部」が計上した12年のガソリン代が230万円にものぼることなど大々的に報じたからだ。

 この「週刊新潮」の記事を受けて、産経新聞夕刊フジが一斉に山尾政調会長への追及を開始する。「なんと地球5周分」「驚愕のガソリン代」と激しく攻撃し、それに歩調を合わせるように安倍応援団・ネトウヨは「ガソリーヌ山尾志桜里」のレッテルを張り、一斉に攻撃を開始した。しかし、これは取り立ててあげつらい、議員の政治生命を断つほどの問題では初めからなかった。

以下、『リテラ』記事を引用する。

・・・全国紙政治部記者が、こう答える。
「いずれの問題も、甘利明元大臣の口利き疑惑などとは比べものにならないしょぼい不正で、自民党の議員にしょっちゅう発覚しているレベルの政治資金報告書の虚偽記載。・・・ガソリン代については、事務所内での架空請求、秘書の使い込みが起きていた可能性があるようですが、これにしても山尾氏はむしろ被害者。・・・被害弁済を求めるなり、横領罪で訴えることで一件落着する可能性が高い」

そもそも、それを言うならば安倍首相が代表をつとめる「自民党山口県第4選挙区支部」が同じ12年に計上したガソリン代はなんと573万2858円(しかも、これは自民党が政権を奪回する前である)と、山尾政調会長の「民主党愛知県第7区総支部」の2.5倍! 山尾氏が地球5周分なら、こちらは地球12周分のガソリンを計上したことになる。それも13年、14年と続いているのだ。菅官房長官にしても同じようなものだ。

  したがって、山尾氏の冷静な対応もあって、この目論見はそれ程成功しなかった。

 とはいえ、これが官邸の仕掛けた山尾潰しの謀略であることは次の政界関係者の声からも明確である。

「山尾スキャンダルが官邸の仕掛けであることは、『週刊新潮』の記事に、官邸幹部のコメントが登場していることからも明らかだよ。実際、官邸と内閣情報調査室は、政調会長抜擢が浮上した2月くらいから、しきりに山尾のスキャンダルを流していたからね。山尾はアニー主演歴とルックスのよさといった話題性もある上、実は相当の実務肌。昨年の衆院法務委員会では、刑事訴訟法改正の問題点を次々と明かして自民党議員をきりきり舞いさせ、民主党案の一部を飲ませることに成功している。官邸は今後、山尾がダブル選挙前に目立った存在になって、自民党政調会長稲田朋美と比べられたらたまらないと警戒。“なんでもいいから山尾をつぶすネタを探せ”と大号令をかけていたんだ。実際、2月の衆院予算委員会で、山尾が『保育園落ちた』ブログを取り上げた直後に、このブログが山尾の仕込みだという情報が流れたが、これも内調の仕掛けだった。もっとも、これは誰が見てもわかるガセで、不発に終わったため、ここにきて、当初、リークしていた細かい政治資金報告書問題をもち出したということだろう。『週刊新潮』と産経は完全に謀略だとわかっていて、乗っかっていると思うね」(リテラより引用)

   山尾氏の身辺調査~不倫スキャンダル

そして、高額ガソリン代計上というスキャンダルのデッチ上げが不発におわった官邸=内調はさらに山尾氏の徹底した身辺調査とスキャンダルの口実探しに奔走する。

その中で掴んだのが、山尾志桜里氏と夫の恭生氏の不和、恭生氏自身の事業展開にまつわるトラブル、そして山尾志桜里氏と倉持弁護士の関係だったのである。内調は山尾氏と夫・恭生氏、恭生氏自身の事業をめぐる対立とトラブルなどの人間関係のもつれを巧みに利用し、そこにつけ込みながら『週刊文春』を通して不倫キャンペーンを繰り広げた。

 民進党野田幹事長の辞任と混乱の仕掛け人は誰か?

 おりしも、民進党が野田幹事長の辞任とその後継をめぐって混乱していた、大会前の時期とも重なっている。衆院の冒頭解散を狙っていた安倍政権が民主党を貶める絶好のチャンスとして内調、メディア、民主党内の情報提供者が一体になって仕掛けた一連の陰謀と考えて間違いあるまい。

これについては、以前に記述した記事を参照されたい。

⇒ http://pd4659m.hatenadiary.jp/entry/2017/11/04/230629

   文科省事務次官・前川喜平氏へのスキャンダル

2017年5月22日 学校法人「加計学園」をめぐり、「総理のご意向」と記した文書を、前川喜平・前文部科学省事務次官が本物と証言し、野党による国会での追及が続く中、読売新聞の朝刊が「前川氏が在職中に出会い系バー通いをしていた」とスクープ記事として報じた。このスキャンダルは地下鉄サリン事件当時の警察庁警備局長で公安畑を歩み神奈川県警本部長から内閣情報官になった杉田和博官房副長官のもと内調が嗅ぎまわって掴んだ情報であった。事実、前川前事務次官の場合、16年秋の時点で杉田和博内閣官房副長官から呼び出され、”出会い系バー通い”を厳重注意されている。もちろん勤務時間外のことで違法性もなく、前川氏自身もやましい動機に基づくものでなかったのでその時は問題にならなかった。

しかし官邸が勤務時間外の役人の私的な言動を把握するために、公安警察を使って監視や尾行、周辺の聞き込み等の行為を行っていることを如実に物語るものであった。

その中心となっているのが、公安警察出身の杉田官房副長官内閣人事局長)である。

 

同じく公安出身の官邸謀略隊、“安倍のアイヒマン”こと内閣情報調査室のトップ・北村滋内閣情報官と共に、もっぱら、官僚の行動を監視しているのが杉田官なのである。

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 釜山総領事 森本康敬氏の更迭

 2017年6月 韓国・釜山総領事 森本康敬氏の更迭 森本氏がプライベートの席で慰安婦像をめぐる安倍総理の対応に異を唱えたことを内調がつかみ、官邸に報告した結果だと言われている。

先ごろは、新潟県知事選挙においても官邸と内調は選挙終盤において、地元紙を使ってデマキャンペーンを行い、取り返しのつかない打撃をもたらした。

安倍晋三と官邸は、自分に従わない政治家の排除や、公私にわたる官僚の動向を日常的にマークし、少しでも意に沿わないものにはスキャンダルや些細な不正やミスを突いて追放するという恐怖政治を行っている。その私兵となっているのが内調である。

しかし、このような政治手法は遠からず人民を統制する手段、即ち、かつての特高警察が横暴の限りを尽くしたような警察国家へと向かうことは明らかだ。

 

<安倍首相が総裁選に向け「内調」に石破茂の監視をさせていた! 政府機関を私兵化・謀略装置化する横暴> http://lite-ra.com/2018/08/post-4162.html

原発立地自治体の原発課税について

原発立地自治体の財政難を「原発税」で補填

立地自治体には電源三法(74年、原発建設ブーム時に田中政権によって施行された立地自治体へのカネのバラ巻き法=買収法であって、自立的な地場産業の発展を阻害し立地自治体の原発依存体質を強めてきた国家独占資本主義的政策の一環であった)に基づき巨額の交付金補助金が国から支給され、それを原資にして立地自治体は「地域振興」と称して「箱もの行政」を満展開してきた。しかし現在ではそれら支給金も圧倒的に減額し、地場産業も破壊されて少子高齢化が進み、それに加えて3.11以降にあっては自治体の財源であった原発は停止し、そのいくつかが廃炉となり始め、もって立地自治体の収入源が激減し、財政難が恒常的になっていった。

 そのようなことから、多くの原発立地自治体では、税収を確保・増加させるために、各自治体独自の条例をもって、原発それ自体への課税をあの手この手で行っている。

 自治体の「原発税」に先鞭をつけた福井県

 ① 稼働中の原発 ⇒ 核燃料税

原発への課税を最初に実行したのは関西電力敦賀原発など原発13基が立地する福井県である。

福井県は、1976年に県条例で安全対策、地域振興という名目を立てて、稼働中の原発に核燃料が装填されるたびに、その価格、重量に応じて課税する核燃料税(法定外税)を導入した。そして得られた税収を敦賀市などの原発立地市町村に「核燃料税交付金」として分配していったのである。

その後、この課税方式は他の自治体にも波及していき、2010年の時点では、13県で220億円にまで膨らんでいった。

 ② 安全の担保 ⇒ 使用済み燃料への課税

しかし、この課税方式はあくまでも原発の稼働が前提となっており、それは同時に使用済み核燃料を増加させていくことにもなる。そのようなことから、いくつかの自治体は、安全の担保料金として、2003年から使用済み核燃料に対しても課税するようになる。この方式を導入している自治体は、3県4市町で48億円になっているという。

 ところが、定期点検や相次ぐ原発事故などによって度々原発は運転を停止する。とくに3.11以降は全ての原発が運転停止となり、また新たな原発は建設しないという政府の方向が強まると、立地自治体における核燃料税の収入はいずれ途絶することが避けられないという事態に直面した。

 ③ 停止している原発にも課税

このような状況を敏感に感じ取った福井県は、新たに原発それ自体(稼働・非稼働は関係なく)の規模に対応して課税する「出力割」課税方式を導入した(2011年11月)のである。

これも他県に波及して現時点では12県150億円になっているという。

 ④ 廃炉が決まった原発への課税

2014年頃からは、東電の福島第1原発を先頭にして、各電力資本は再稼働を断念した老朽原発廃炉作業を決めていく。原発財政に依存してきた各自治体にとっては主要な財政源が相次いで消えていく訳である。このような現実に直面し、やはり福井県廃炉原発にも課税する制度を導入した(2016年11月)。 この課税方式は4県に導入され、現在その税収総額は48億円になるという。

  原発依存を温存したまま原発収入を追及する自治

 このような原発立地自治体における独自の課税方式(法定外税)は、あくまでも原発に依存しようとする体質を温存し、地域社会に密着した地場産業の育成を阻害するものである。

現行の原発政策が廃棄されずに存続する場合には、原発の変化する動態に対応した形で各種の課税方式を導入し、様々に形を変えながら他の自治体へと波及していくに違いない。

 「原発課税」は電気料金に上乗せして回収

普通、自治体が高額の税を掛けるのは大資本の進出を抑制し、地場産業を守る場合の方策である。それならば、電力資本はやがて原発から撤退するに違いない。停止中の原発廃炉原発にまで課税されると聞けばそう考えたくなる。

ところが、ここにカラクリがある。

これらの「原発税」は原発の所有者=各電力資本に課せられる。当然それは電力資本にとって負担になる。そこで電力資本はその税を彼らの営業活動として計上し、電気料金に上乗せするのである。つまり、「原発税」を徴収される電力資本は、その「原発税」分を含む電力料金を電力使用者=一般消費者から徴収し、自治体に還元するだけであり、決して自腹を切ることはないのだ。

 一般消費者の側からすれば、自分たちは高くなった電気料金を電力資本に支払うことにより、知らず知らずのうちに、原発立地自治体に納税していることになる訳である。政府が原発政策を根本から変えない限り、われわれ消費者は電力資本を救うために、政府と立地自治体の双方に、一方は国税として、もう一方は電気料金として税金を納める事になる訳である。

原発廃炉にしても忌まわしい負荷から誰も逃れられない 

このことは何を物語っているのか。原発は一度作らせてしまえば、廃炉が終了するまで、いや放射性廃棄物の処理・管理を含めれば数百年、数千年と人民に負担を強いるものなのだという現実を改めて認識する事である。

これは本質において、単純に政権が変わればどうにかなるものではない。好むと好まざるとに関わらず、原発を許してきたすべての人々の、こう言ってよければ全人類の責任であり忌まわしい負荷なのである。

 今すぐ、エネルギー転換=全原発の即時停止・廃炉

したがって、たとえ少しであってもその負担を軽減する道は何か。  

  • 自然エネルギーをはじめとした、クリーンでできるだけ費用の掛からないエネルギー政策に一刻も早く転換し、これ以上「核のゴミ」を増やさない事。
  • 新エネルギーへの転換で浮いたコスト分を「原発の後始末費用」に補てんし、少なくとも今以上に消費者に負担を強いることはさせない事。
  • 政府は電源三法の時のように、今度は立地自治体の原発依存から脱却する政策を支援し、奨励する事。
  • 各電力会社は、自治体の「原発税」を電力料金に組み入れるのをやめる事。

「高プロ」法案=残業代ゼロ法案の強行成立を弾劾する!

労働時間の短縮は19世紀から続く労働者の普遍的闘い

18世紀から19世紀の初めイギリスで産業革命が起きた頃、労働者は1日14時間~18時間も働かされていた。この長時間労働に反対する闘いが活発になり、やがて一日の労働を最大10時間とする「工場法」が作られた。その後、1886年5月1日、合衆国カナダ職能労働組合連盟がシカゴを中心に8時間労働制を要求して2万社余りの労働者が統一ストライキを行った。集会とデモには、ニューヨークやボストンなどを含め38万人以上の労働者が決起した。これが全世界に波及しメーデーの起源となったのである。

この時の米労働者のスローガンは「8時間の労働、8時間の睡眠と休息、残りの8時間は自分のために」だった。

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今日、労働基準法に定められている8時間労働制は、こうした全世界の労働者の営々たる闘いで勝ち取ってきたものである。

  • 安倍政権は、労働者が血と汗で闘い取ってきた8時間労働制を再び130年以上前の無権利に近い状態に引き戻す「働き方改革なる労働法制の改悪を進めている。

    そればかりではない。あろうことか、この忘れてはならない労働者の権利の記念日=メーデーを新天皇即位の記念日とすることによって、その歴史的意義をも抹殺しようとしている。断じて許すことはできない。

労働時間の短縮は賃上げと並ぶ攻防の焦点だった

 戦後日本の労働運動の中でも労働時間短縮の闘いは、少しでも労働時間を延長したい資本側とのせめぎ合いとして賃金要求と共に、いやそれ以上に労働者の基本的権利を守るものとして重視されてきた。

 資本の側は休憩時間を厳格に監視しトイレタイムや水飲み、喫煙の回数をチェックする、守衛所に設置されていたタイムカードをより仕事場近くに移動する、始業・終業の整理清掃や準備体操、ミーティングなどを労働時間外にさせる、さらにはQC活動と称して改善提案の為のサークル活動を時間外に半強制的に無給(サービス残業)で行わせる等々、隙あらば僅かの労働時間も延長しようとしてきた。

そのために、節電に名を借りた冷水器の撤去など「些細な事」でも労働者の既得権を侵害するすべての問題が労使交渉―紛争になる場合があった。

死の危険を考える程の超過労働、どこに人間らしさがあるのか

 資本主義的生産の発展にともない、労働者階級が社会的生産の重要な担い手になって以来、その雇用主との労働時間をめぐる闘いはもっとも基本的、根底的なものであった。

他人に雇われて「働くこと」によって賃金を得る以外に生活の手段を持たない労働者にとって、「仕事が終わってから」はじめて「自分の生活」が始まるのであり、その中にこそ家族の健康や幸福があり、文化的生活の実体があるのだ。まさに、人間が人間らしい生活を送るための要求が8時間労働だったのである。

 だから「健康で文化的な生活」の権利を追求するときには、必ず労働時間の短縮―すなわち資本によって拘束される時間を短縮すること、つまり自分と家族が自由に過ごせる時間の拡大―を要求してきたのだ。

 ところが、今や「過労死」が問題にされているのだ。働き過ぎで死の危険を考えるような労働条件のどこに人間らしさを求めることができると言うのか。もはや、憲法が保障する「健康で文化的な生活」以前の話なのだという事をしっかりと認識する必要がある。

 経団連の強い要請とそれを受けた安倍政権の「高プロ」法案=残業代ゼロ法案の強行成立、更に改めて次期国会への提出が狙われている「裁量労働制」、労働者を過労死するところまで働かせるような労働法の改悪策動は、労働者が家畜のように扱われてきた18世紀末の劣悪な労働条件に引き戻すに等しく、時代錯誤も甚だしい。

 原点に立ち返って労働者の権利を奪還しよう

 かつて、社会主義者たちは電化が進むこと(今日的に言えばIT産業の発達)は極めて少ない労働時間と、そして誰にでもできるような単純作業によって社会的富を生産し、残された時間が人民の豊かで幸福な、知的生活の為に使われるに違いない、という理想を描いていた。しかし、それは資本家階級がその利潤を追い求める社会が続く限り、叶わない話である。

 残念ながら、我々が目にしている現実は18-19世紀の初めに戻りつつあるかのようだ。それならば今我われに求められるのは、19世紀の労働者階級が無権利状態の中から立ち上がり、荒々しい階級闘争を通じて働く者の権利を確立してきた歴史に学びながら、もういちど労働者の権利を取り戻す道を拓くことだ。