正道有理のジャンクBOX

経験から学ぶことも出来ないならば動物にも及ばない。将来の結果に役立てるよう、経験や知識を活用できるから人間には進歩がある。

正道有理のジャンクBOX

「血債」についての覚書


▼「血債」について

直接的な言葉としては、魯迅の「血債」があげられる。それがなぜ、アジアで強く現れたのか。その背景には植民地支配、中国革命、日中戦争などがあった。
そもそも、「血」の代償という考え方は古代から世界各地にあり、そこでは「復讐」や「等価の報復」というような意味を持っていた。それが近代になって道徳的、政治的責任や清算を要求する考えに変わっていく。
「血債」に近い考え方、「血」の意味について
① ハムラビ法典(紀元前18世紀頃)
→ 「目には目を、歯には歯を」で知られる同害報復の原則
② 旧約聖書
報復の原則や「血の復讐者」の概念が登場。 「 流された血は大地が覚えている」 ・・ 血は消えない負債であり、必ず裁かれる
③ 新約聖書
「すべての義人の血の責任が問われる」→近代ヨーロッパにおける、道徳的責任としての「血」
④ フランス革命以降
民衆の血を流した権力は正当性を失う、民衆の流された血には政治的責任が伴うものとして、「血」の歴史的、政治的清算を要求する考え方となった。
⑤ ハンナ・アーレント(ドイツの政治思想家)
ナチズムとスターリニズムに共通する支配構造を分析し「全体主義」という概念を体系化した。アーレントは代表作となった『全体主義の起源』(1951年)や、『革命について』(1963年)のなかで、ナチズムの国民社会主義とソ連の共産主義・ボリシェヴィズムの大粛清や恐怖政治の起源をフランス革命に見いだして批判した。
アーレントによれば、スターリン体制の犯罪性は・・・数百万の無辜の民の殲滅にこそあった。フルシチョフによるスターリン批判は、むしろスターリン体制の犯罪性を矮小化するものであり、隠蔽するものだった。全体主義のテロルは、すべての組織的反対勢力が死滅し、支配者がもはや恐れる必要のあるものは何ひとつないことを知ったときにはじめて解き放たれるものであった。 ・・・ソ連の全体主義的独裁では、イデオロギー教義とそこから生まれた嘘を本物の現実に変えるためにテロルが用いられ、スターリンはロシア革命史の書き換えのために旧版の著者を抹殺した。
こうした脈絡の中で、アーレントは大量虐殺 (によって流された血)の道徳的な責任(負債)を問題にしている。
⑥ マルクス主義
「資本は頭から足の先まで血と汚物にまみれている」→ここでは人間の人間的な生き方が資本によって圧殺されてきたことを問題にしており、階級社会の止揚を述べたもので、ブルジョアジーによって流された「血」を何かの対価によって償うという考えではない。マルクス主義における「血」の対価を強いてあげるならば、それは階級闘争によってブルジョアジーの支配を打倒することであり、究極的には全人間の解放を勝ち取ることである。

▼魯迅の「血債」と儒教との関係

儒教には、もともと調和や秩序の重視、権威の尊重、社会の安定を最優先としつつ、他方では人間関係を“負い目”で捉える感覚、つまり「恩に報いる」=恩を仇で返すことは不道徳であり許されないという考えがある。これが、安定した社会秩序や権威を支える思想であった。
逆に魯迅は一貫して、家族主義(孝・忠)や上下の秩序、道徳による統治といった儒教的価値を強く批判していた。『狂人日記』 では、儒教社会を「人を食う社会(吃人)」として描いている。
つまり魯迅にとって儒教は暴力を隠蔽する倫理体系であった。
魯迅は、この儒教的考えを逆にして(恩に報いるのではなく)、その(儒教社会の)構造の中にある暴力に「報いる」、すなわち「血債」として告発したのである。
「血債」は「儒教が覆い隠してきた暴力を可視化する言葉」であった。

▼まとめ

古くから世界各地で、「 流された血の代償」という意味でのことばはあった。
古代でのそれは、「復讐・報復」を意味するものだったが、近代になって以降は「歴史的・政治的責任、償い」という意味合いが強くなった。
アジア地域では、魯迅の「血債」に表現される、つまり流された血に対する債務・代償とするのに対し、西欧ではblood guilt (血の罪)という考え方になるのは宗教観の違い――アジアは現世的・仏教的で、西欧では罪は死後に神によって裁かれるという考えによるものなのだろう。

「血債の思想」が共産主義者によって強調されることへの違和感

重要なのは、「血」に対する代償という考え方は、マルクス主義の考え方とはいずれも相いれない。マルクス主義は、唯一ブルジョアジーの打倒のみを求める運動であり、ブルジョアジーの犯した罪、すなわち搾取、暴虐、 血、戦争に何がしかの代償を求める思想でも運動でもないからである。

 

革共同は誤りの歴史を隠蔽するな

第7回大会は「党の革命」と「階級的労働運動路線」の実践的総括として提起されたのではなかったか?

『前進』3439号(3月23日)は、革命的共産主義者同盟・全国委員会が第10回大会を開催したと報じた。36全総でも論じられてきた「第7回大会路線」からの決別=血債の思想の再構築を大きな組織的課題として前面に出している。しかし、これは明らかな党史の歪曲であり、隠蔽に他ならない。

なぜならば、第6回大会以来の14年間の党内闘争の結論、「総括」として打ち出されたのが7回大会路線だったからである。
従って、第7回大会路線が誤りだというのであれば、そこに至る14年間の総括が誤りだったということになるはずである。

第7回大会は、14年間の党内闘争の歴史的総括

ところで、この間「第7回大会からの決別」を語り、35—36全総、第10回大会の先頭に立ってきた秋月書記長やISさんたちは、第7回大会以前の党の歴史をなぜか語りたがらない。そればかりか、全政治局員の辞任にまで発展する直接の契機となった第7回大会以前に生起した女性差別・性加害の階級的犯罪について何一つ触れようとしない。いったいなぜなのか。
「7回大会」の誤りを言いながら、この大会に集約された14年間の歴史の中で、自分たちが果たしてきたことの意味を考えようとしないのは何故なのだ。
他ならぬ、秋月書記長やISさんたちは「党の革命」のあとの「階級的労働運動路線」そして07年の「7月テーゼ」路線を労働者大衆の中に持ち込み、党を経済主義の沼地に誘うための先頭に立ってきたのではなかったか。あるいは緒戦線の闘いを貶め、労働運動の後尾につけようとすることはなかったのか。そして「7月テーゼ」路線下では、それが模範的な党員とされてきたのだ。

そのことに対する自己切開、人民に対する自己批判的総括の内容を示すこと抜きに、安易に「血債の思想」の再獲得だとか、人間解放などと語らないで欲しい。

第7回大会を批判しながら、それを生み出した14年間の実践上の総括を拒絶し、口を塞ぐのは党の歴史の一部に蓋をすることであり、党史の歪曲・改ざんと言うべきではないのか。

勿論、91年の5月テーゼ、そして第6回大会それ自体の総括も必要ではある(特に第6回大会の規約改正はレーニン主義党組織論を根本から覆す「毒」が含まれていた)。

それは、何れかの機会に譲るとして、第6回大会から第7回大会に至る14年間に何が起きたのかをかいつまんで整理しよう。

「党の革命」への序章

03年1~4月期の闘争方針とその総括

この年、党は三つの闘い(統一地方選、イラク反戦、春闘・国鉄決戦)を3大決戦として全力で闘うことを確認した。

しかし、杉並区議選においては、北島候補はあと200票というところで、勝利できなかった。「今日の階級情勢の中で3人当選が絶対必要であったし、その可能性もあったという点で、杉並区議選は革命的絶対基準からして党としては敗北」だったと総括。

他方、重大なことは、・・・「最も決定的であった動労千葉春闘ストおよび3・29春闘集会の(党の)取り組みは、きわめて不十分にしかできなかったことであった。それは3・29の結集数に端的に現れた」

こうして1~4月期の総括では、動労千葉の闘いを高く評価すると共に、その支援に全力を挙げなかった党の責任を厳しく指弾し、それと対比させる形で政治闘争分野(選挙+イラク反戦)における敗北をそれまでにない調子で、明らさまに強調したのだった。
それは、清水丈夫議長の指導(政治闘争)に対する中野洋副議長(労働運動)の徹底した弾劾だったのである。

「党の革命」

「党の革命」の始まり――04年新年号アピール

04年新年号アピールにおいて、「新指導路線」=「党の革命」が打ち出された。
91年の「5月テーゼ」から10年に近い歳月を経ながら、労働運動、労働組合運動に対し、まともな方針すら示せず、他方では国労1047名闘争と国鉄闘争に対する、反動の側の包囲網がジリジリと狭められるという状況の中で、清水——天田主導の全政治局は中野洋(動労千葉委員長・当時)の追及と弾劾に為す術なく屈服した。中野洋の主導で打ち出されたのが、この新指導路線である。

清水議長は、そこに潜んでいる組合主義、経済主義的本質を見抜けなかった筈はない。しかし、清水や天田には官僚的に組織を統制する力はあっても、全党的なイデオロギー闘争を組織する能力はなかった。また、上意下達的な組織運営に慣らされてしまった下部組織にも、そうした党風は失せてしまっていた。

「党の革命」反対派と称する水谷、岸(故人)たちは「3.14決起」そのものをクーデターと言って批判しているが、そこに至る06年までの2年間、「新指導路線」=「党の革命」が打ち出されたことに対してはどのような党内闘争を行ってきたのだろうか。「政治局の敗北」本の中でも、その点は明確ではない。

そもそも、清水議長の自己保身的な欠陥、力関係を見て(よく言えばリアリスト、悪く言えばカメレオン的に)態度を変えるという――革共同の第三次分裂当時から危惧されてきた――欠点はあっただろう。それを本多書記長亡き後は野島(木下)や山村(白井)などの党創生以来のメンバーが理論的、イデオロギー的=路線的に支えてきたのである。清水議長には、そういう支えが必要だったのだ。しかし、すでに5月テーゼを前後して清水や天田は彼らを失脚させ、放逐してきたのであった。

「階級的に自覚した革命的労働者(党)は、マルクス主義的・階級的な労働者階級の全面的解放の立場に立ち、その思想あるいは共産主義的政治の立場を貫くものとして、経済闘争の先頭にも政治闘争の先頭にも立ち、その最もすぐれた指導者となるように闘い、その中で始めから終わりまで、労働者階級の階級的自覚の全面的深化と階級的団結の強化、共産主義的政治の全面的貫徹のために闘うということ(05年新年号アピール)」

これは、「なにをなすべきか」の中でレーニンが経済主義を批判していることについて、どう理解するべきかを述べたものだ。党(この場合は共産主義者の最高の団結形態)と階級、労働者階級の解放と共産主義的政治との関係等々をごちゃまぜにして、それらしく述べているが、要は、自分たちは経済主義者ではないんだ、ということを必死に弁解しているのである。おそらく、動労千葉特化型の方針に対して、党内からも疑問や批判の声が上がっていたに違いない。

何れにせよ「新指導路線」は「四大産別決戦」という名による国労、教労、郵政、自治労内への動労千葉物販の持ち込みと、11月労働者集会への結集運動に集約されていくのであった。また、「労働組合の革命論的意義」が語られるのもこのあたりからである。
にもかかわらず、05年の新年号アピールでは、まだ戦線的課題を含めて全面的に展開されていたのである。

「党の革命」の完遂に向けた新指導体制

都議選敗北の深刻な総括、03年前半戦の総括をめぐる中央指導の責任と「新指導路線」=「党の革命」という第6回大会では未だ具体的に示されてはいなかった、新路線の提起があったにもかかわらず(06年「3.14蜂起」で与田を打倒したその年の秋まで)全国委員会総会での議論も行わなかったのは異様ですらあった。

その回答は第22全総を報告した次の記述にヒントがあるように思われる。

「今回の拡大全国委員会総会で革共同は、06年に労働者同志の決死の実力決起によって遂行された『党の革命』のただ中で、その勝利と成果を第一次的に断固として集約すると同時に、「党の革命」のさらなる徹底的な完遂に向かっての組織体制、指導体制を革命的な臨時体制として確立・・・何よりもこの点に、過去のいかなる全国委総会とも格段に違う、今回の総会の歴史的意義があった」

党内権力闘争

「5月テーゼ」以来10年を経ても労働者を組織する有効な方針を出すことができないという、破綻した指導が続く中で中野が政治局入りし、清水は中野の実践的手腕と動労千葉を牽引し抜いてきたというその権威の前に圧倒され、すでに公然政治局の多数派を形成していた中野に完全屈服し、従僕したのである。

のちに(3.14決起の後に)清水議長が政治局に提出した自己批判文書の次の記述でも分かるように、実践経験も実績もないやつが理論的・政策的レベルで批判することは許されない――これは清水が自分に対して向けている言葉であり、自分が屈服した言い訳でもある――というものであり、「新指導路線」とは初めから実践以外の一切の異論を拒絶する激しさを持っていた。だからこそ「党の革命」だったのである。それは、中野洋という実戦経験をもった人格と「動労千葉」が歴史的に築き上げた権威がそういう圧力になったことは想像に難くない。

革共同は「前衛党」としての役割を放棄した

革命党が進むべき道を考える時に理論的・イデオロギー的な視点を軽視するのは、それ自身が経済主義のもつ特徴であり、革命家=共産主義者の組織(そこには労働者であるかインテリゲンチャであるかとか、経験が長いか短いかといった差異はない)とは相容れないものなのである。

5月テーゼ以来、特に6回大会以降、革共同中央は自らを「プロレタリアの党」「労働者党」と規定するようになった。これは単に労働者受けを良くするための表現ではない。口当たりの良いオブラートに包んで害毒を飲ませ続け、「共産主義者の最高の団結形態」「職業革命家の党」という結党以来、革共同が堅持してきた党建設の根本的転換を図ろうとするものであり、レーニン主義党組織論からの逸脱であった。

他方、5月テーゼ以来の清水―天田指導は、地区組織や現場の特殊性、創造性を無視し「単一的党建設」を振りかざし(それ自体、党建設論の誤った理解に基づくものでしかない――レーニンは党の全国的統一をイデオロギー的・質的な均一化に求めたのであって、同じことをやれと言ったのではない)、中央方針の画一的な遂行を時には恫喝をもって要求し続けてきた。

「3.14蜂起」の強烈さと異様な緊張を利用した翼賛運動

「党の革命」が打ち出された時には、まだ与田の腐敗と組織の私物化、私党化は公には問題になっておらず、関西の労働者が与田の官僚主義的指導にいたたまれず、これを打倒するための工作、情報収集をしている過程で、財政の私的流用や、TSG問題(与田の秘書をしていた高杉という男が公安調査庁のスパイであり、それを知った与田は自分が勝手に査問をして高杉を逃亡させた)などの実態を掴んだと言われている。この時に「蜂起」の正当な理由を見つけたのであり、「党の革命」のシナリオに「3.14蜂起」があらかじめ組み込まれていた訳ではない。

しかし「3.14蜂起」はこれらのすべてを鮮明に突き出してしまったのである。そこで、中央政治局はこれを「労働者のやむにやまれぬ実力決起」、「労働者の自己解放的決起」として強調し「3.14決起」の翼賛運動を組織するとともに、「党の革命」の中に取り込むことによってその激しさを印象付けるために最大限に利用したのである。

その一方で「党中央は打倒された」として、清水議長の自己批判をもって早々の幕引きを図ろうとした。これは、関西の問題が単に与田の不正にとどまらず、「新指導路線」と戦線との関係、四大産別決戦論とそれ以外の産別における闘いの評価、そして何よりTSG問題等々、中央指導をめぐる多くの問題が浮き彫りになるからであった。

「3.14蜂起」は、直接には与田私党グループの打倒を目的とした戦闘ではあったが、中央政治局の中では清水―天田体制の打倒 ⇒ 中野―天田体制の確立として進んだということだ。清水議長は、5月テーゼ以来の自らの指導のあり方に言及し、「中野同志―天田同志や労働者組織委員会の労働者同志など公然指導部にもっと自己権力を認めるべきだった」とし、19―20全総以来、中野同志が非公然政治局に参加したことで飛躍的に改革が進んだと最大限に評価した上で、自分は「新指導路線」のもとで進行している新指導体制に正しく対応出来なかったと自己批判している。

これは、中野副議長に全権を委任し、その決定に従うという全面降伏の意思表示にほかならなかったであった。

つまり、中野は「新指導路線」を進める上で障害となる関西問題を鎮めるために、破産した清水議長に「自己批判書」を書かせて見せるという茶番劇を演じさせたのである(清水議長は関西に対して行った自己批判の内容を、その一年後にはすべて反故にした)。

そして、党中央はこの「自己批判」をもって今後は政治局全体への責任追及を一切認めないという姿勢に舵を切る。「3.14決起」の翼賛運動は、返す刀でその実行者を切り捨てたのである。

全くの偶然なのか否かは分からないが、「3.14蜂起」が行われていたその時、東京の法政大学では当局による立て看撤去に抗議した全学連委員長ら29人が、建造物侵入と威力業務妨害の容疑で逮捕された。この弾圧には約200人の捜査員が動員されたという。(「3・14法政大学弾圧事件」)

「階級的労働運動路線」と「7月テーゼ」

第22回拡大全国委員総会(06年秋)—動労千葉特化運動

「党の革命」がほぼ完遂した06年の秋に、その勝利の宣言を発したのが第22回拡大全総であった。そして、「党の革命」のさらなる徹底的な完遂に向かっての組織体制、指導体制を革命的な臨時体制として確立すると宣言。実際、この第22拡大全総を経て戦線の地区への統合と地区キャップを現場労働者に置き換える決定が全党的に遂行されていく。同時に動労千葉物販オルグと中野本(「俺たちは鉄路に生きる」)の学習運動が叫ばれ、その感想文を書かせる指導すら行われるようになる。

日刊動労千葉と外注化阻止ニュースをもってJR職場を回ることが「国鉄決戦」の中軸活動とされ、各産別の事情や条件とは関係なくすべての産別労働者がここに投入された。その熱意が「階級性」の証であるとともに、党への忠誠心を計るリトマス試験紙であり、不満分子を炙り出す踏み絵でもあった。

何よりも重要なのは、この第22全総で政治局の重心は公然PBに移ったことだ。中野を頂点に天田―木崎―坂木という体制になり、辻川はWOB議長として中野の名代のように振舞うことになる。

07年新年号アピール

07年新年号アピールでは、これまでの新指導路線を改め、初めて「階級的労働運動路線」を打ち出した。その中では次のように述べている。

「階級的労働運動路線とは何か。それは帝国主義の危機がもたらす革命的情勢への突入の中で、帝国主義打倒のプロレタリア革命を全力でたぐりよせる唯一無二の道として、階級的労働運動と階級的団結の前進・拡大をかちとり、同時に階級に深々と根を張った労働者細胞建設に、党的組織的精力の一切を注ぎこむ闘いである」

「革命情勢への突入」なる空論主義も驚きだが、そう言いながら「革命情勢における党の三つの義務」を打ち出すのではなく、「細胞建設に党的組織的精力の一切を注ぎこむ」というチグハグな組織方針にも開いた口が塞がらない。

だが、問題は次の点である。

これ(階級的労働運動路線)は「別個に政治決戦一般を対置したり、並列的に位置づけることはできない。『共産党宣言』で言うように、共産主義者はプロレタリア階級全体の利益から離れた利益は持っていない。プロレタリア自己解放闘争と階級的労働運動の強化を基軸に、その普遍性のもとですべての闘いを一体化していくのだ」

「プロレタリア自己解放闘争の共産主義的普遍性の内部に、民族解放闘争など被抑圧民族人民の闘いとの連帯・結合・一体化の論理を内包していく」

「階級的労働運動とは、こうした立場から労働組合を革命論的に位置づけ、プロレタリア独裁の樹立へ向けて、労働組合の階級的団結を拡大していく闘いなのである。動労千葉は、そうした労働運動を実際に実践してきた」

①「階級的労働運動」に政治決戦を対置したり、並列的に位置付けることはプロレタリア階級の利益に反するもの
②「プロレタリア自己解放闘争の共産主義的普遍性の内部に、民族解放闘争など被抑圧民族人民の闘いとの連帯・結合・一体化の論理を内包していく」

→ これは、全く逆立ちした論理である。「共産主義的普遍性」とは全人間の人間的解放を実現する普遍性だと思うが、そうであれば、民族解放闘争や被抑圧民族人民、被差別人民の闘いはそれぞれが人間性を希求する、人間解放を求める闘いそのものであり、プロレタリア自己解放=プロレタリア革命を戦いとるためにも、これらの人民との連帯、共同闘争として革命運動を進めなければならない。これは、革共同が70年「7.7自己批判」を契機として確立した戦略的総路線の考え方ではなかっただろうか。
ところが、ここでは「政治決戦を対置するな」「緒戦線的闘いは、階級的労働運動と並列であってはならない」(=階級的労働運動の下で闘うべきだ)と言っているのだ。

こうした新年号アピールを下敷きとして「党の革命」と「階級的労働運動」路線の集大成としてだされるのが「7月テーゼ」なのである。

WOB内で発言力を強めた辻川、強権的に批判的意見を圧殺

07年 5月 中央労働者組織委員会(WOB)基調報告 辻川

「全指導的同志には、本会議を期して全国全同志に対しこの議案書を基に、この内容で徹底討議して意思統一する党員としての義務がある」

議案書は党員の討論に供されるものではなく、一方的に受け入れるもの!!
驚天動地、何と傲慢な組織指導だろう。

そして、辻川はここで党内から湧き出ている一つひとつの批判的意見や疑問を敢えて羅列して紹介した上で、これに対する党中央としての辛辣な批判を浴びせるのである。「階級的労働運動路線」批判に同調するメンバーを中央は容認しない、という強烈なメッセージを出すことによって、「7月テーゼ」の露払いが行われたのだ。

7月テーゼ

「7月テーゼ」批判については、当ブログの別掲記事を参照されたい。

要は、①経済主義への組織論的転落 ②前衛党としての役割の放棄 ③プロレタリア革命に対する空論主義 ③70年「7.7自己批判」を契機として確立した戦略的総路線(抑圧民族としての日本プロレタリアート、とりわけ革命的左翼が、民族植民地問題、民族解放闘争をしっかりと革命戦略の中に措定していくという目的意識性を欠落させてきたという自覚に立って再確立した)を投げ捨てたことである。

7月テーゼ

※ 70年「7・7自己批判」で問われたのは被抑圧民族人民、特に在日朝鮮・中国人、アジア人民にとって帝国主義的民族抑圧は法的で、それゆえ日常生活と不可分の攻撃であること。同じように民族差別・排外主義の攻撃も日々の生活を脅かしているということなのだ。被抑圧民族を襲うこの日常に、抑圧民族プロレタリアートがいかに肉薄し、一過性の闘争課題や問題が起こった時だけ闘うのではなく、われわれ自身の日常的な問題意識へと高められるかという極めて意識的で実践的な問題だったと思う。

※ 被抑圧民族に対する民族抑圧、差別・排外主義の攻撃と抑圧民族内の人民に対する差別分断攻撃は「差別」という形態は同じでも、その性格は必ずしも同じではない。

前者は帝国主義者が自国の人民を排外主義と侵略戦争に動員するための攻撃であり、後者は国内階級支配を貫徹するために、プロレタリアートの怒りが支配階級に向かわないよう分断することにある。ゆえに、帝国主義戦争には国内の被差別人民をも動員されるのである。

「7月テーゼ」以降

「7月テーゼ」以降は「国鉄決戦」「四大産別」「革命的選挙闘争」を軸に、全体は11月労働者集会

2007年夏頃、第23回拡大全国委員会総会開催。「7月テーゼ」を正式決定。岸、水谷政治局員と結柴、新城区議の除名を決定。
2007年秋頃、第24回拡大全国委員会総会。「関西派」の塩川らを除名。

2008年02月 「広島差別事件」部落解放全国連合会(全国連)との対立
2009年09月、第25回拡大全国委員会総会。「綱領草案」を採択。

 ➡ この第25回拡大全国委員会総会のあと、2019年9月の第26全総まで、一度も全国委員会総会が開かれていない。一方で「中央労働者組織委員会(WOB)全国会議」なるものが毎年定期的に開かれてきている。つまり、党の基本組織である全国委員会総会を招集できない客観的事情があったわけでは決してなく、強いて基本会議を招集しなかったということだ。本来、革共同の規約(第6回大会で改訂)でも執行委員会の一小委員会に過ぎないWOBが、全国委員会総会に代わって年間方針を決める――これは党の破壊であり私党化意外の何ものでもないのだ。

2010年03月04日  副議長の中野洋が胆管癌のため病死
2013年07月14日 「全国水平同盟」を結成
2014年  山梨によるA部局の女性党員に対する性加害(山梨問題。政治局はこの事実を知りながら5年間も握りつぶしてきた。1019年になってA部局の信頼できる同志の励ましもあって、命がけの決断による渾身の告発によって明るみに出たのである)

2015年 第7回大会

➡ 通常は大会が全国委員を任命し、その場で新全国委員による総会が行われ、政治局をはじめとする下部機関の任命・決定を行うのだが、第7回大会はそれも行わなかったということだ。かくもデタラメな組織を筆者は見たことも聞いたこともない。

2019年09月 第26回全国委員会総会。全政治局員の辞任(暫定政治局員の決定、清水議長は再任)

第26全総の第一報を掲載した『前進』3076号(2019/10/14)には、山梨、辻川による女性差別・性加害と政治局員によるその隠ぺいの事実、それに対する一言の自己批判も語られていない。曰く「この間の政治局による国鉄闘争と階級的労働運動、改憲阻止闘争における指導の誤りを明確に認め、その指導の破産から生みだされた中央における党規律の解体、女性解放闘争への敵対を含む組織問題の自己批判的総括の基本的方向性を示していくことと一体でした」

7回大会の路線が誤りだったとしても、政治局員全員が辞任するということはあり得ない。最高決定機関である大会方針の誤りは大会によってのみ修正できるのであり、政治局が全面的に責任を問われる話ではないからである。
政治局が責任を問われるとすれば、疑いもなく党内の女性差別・性加害(しかも、全国委員会にとって代わって指導権を簒奪してきた全国中央労働者組織委員会の議長・辻川や、ここに参加していた山梨による)であり、その事実を知りながら長期にわたってこれを隠蔽し、逆に、告発者を監視し弾圧してきたことにあったはずだ。

そして、これは現在に至るも「7回大会の誤り」を前面に押し出すことによって、素通りさせられているのである。
この間、関西から出されている「女性解放学習会」の報告を読んでも、非常に違和感を持つのは、この山梨、辻川問題に全く触れていないことである。山梨、辻川問題は第7回大会後に発覚しているが、それが引き起こされたのは7回大会以前である。決して7回大会によって「血債の思想」「7.7思想」を投げ捨てたから起こったのではなく、それ以前に腐敗の芽は育っていたのだ。

ここにきて、<「党の革命」は7・7路線―「血債の思想」を「階級的」に再確立し「5月テーゼ」が本来めざした・・・「連帯し、侵略を内乱へ」の闘いを貫徹していくことを求めていた・・・が、現実にはそうはならず・・・ついには7・7路線―「血債の思想」そのものを解体していくことに>などと苦しい言い訳をしている。
「7.7自己批判」を契機に確立した戦略的総路線がそれほど安易な、「ちょっと目を離したら見失った」みたいなこととして語られることそのものが腹立たしい。
現政治局は、清水丈夫が強調した「階級的倫理性」にかけて血の償いが求められているという重みさえ忘れてしまったようだ。

しかし、事実は「階級的労働運動(路線)」を最優先し、差別や排外主義との闘いをその後尾につけようとする「7月テーゼ」のイデオロギーそのものが「7・7路線」を否定し、解体したのではなかったのか。

「階級的労働運動(路線)」の実践者、「指導的」メンバーは絶対的存在であるかのように思い込み、彼らの性加害には政治局員ばかりか女性解放組織委員会(FOB)の指導部さえ目をつぶる。あまつさえ、それを告発することは「階級的労働運動」に敵対すること、労働者階級の闘いを弱め、団結を破壊するものだとして制動をかけ圧殺する。政治局そのものがイデオロギー的に退廃し、小ブル経済主義へと転落していたのだ。
それを作り出したのが「党の革命」と「階級的労働運動路線」=「7月テーゼ」であったことをいい加減、認めるべきではないのか。そのことに頬かむりした女性解放闘争などあり得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「無限回廊」に迷い込んだ革共同

党の基本組織は10年に亘り崩壊していた

今更ながら「党の革命」以来の革共同の歴史を検証する

驚くべきことに、09年の第25全総以来、第7回大会を含む19年の第26全総に至る10年間、一度も全国委員総会が開かれず、中央労働者組織委員会全国会議(辻川慎一議長)なるものが党の方針を決めてきた。清水議長がこれを黙認し、全国委員は自己の役割を放棄し、これに追随した。基本組織は完全に崩壊していたのだ。

全国委員会が機能を失った「革共同全国委員会」

革命党の基本組織が中央委員会(全国委員会)と細胞だというのは常識である。なのに、10年間も全国委員会が開催されないまま政治方針が決まることに、何の疑念も持たなかった自分も恥ずかしい。言い訳にしかならないが、対カクマル戦の過程でまともな機関会議が行われないことに慣らされてしまっていたのだろう。

だがもっと驚くのは、そう聞いてもそれほど深刻に受け止める党員・元党員が少ないことだ。

自分が属している(または属していた)組織が、実は組織の体を為しておらず、規約にさえ存在しない私的機関に牛耳られていたというのに、かくも愚鈍になれるものなのか。いうなれば、これが革共同の今日の姿なのだ。

レーニンが、なぜ規約第一条をめぐって党の分裂をも辞さず闘ったのか。自分たちが決めた規約を党員も指導部もしっかり守ることは最低限の党内民主主義なのであり、だからこそ規約には一切の曖昧さが許されてはならないのだ。その前提が崩れたところに、いかなる組織――まして民主的中央集権の組織――が作れるというのか。

周知のように「労働者組織委員会」は第6回大会で規約改正が行われた結果、政治局がその日常的執行機関として組織する「中央執行委員会」の下に組織される小委員会に過ぎない(規約第3条)。だから、全国単一かつ有機的な党の政治指導を行える指導権限はもっていないのだ。

つまり、「中央労働者組織委員会全国会議」なるものは名前が似て非なるデッチ上げ組織であり、それが10年間にもわたって全国委員会然として全国組織の指導から人事に至るまでを牛耳ってきたのである。

二重対峙対カクマル戦渦中のように、全国委員総会が開催できない客観的事情があった訳ではない。現に、毎年定期的に「中央労働者組織委員会全国会議」は行われ、その議案は『共産主義者』でも掲載されてきたのだ。

(この10年の間、批判的意見を持つメンバー、グループに対しては一切の異論を端から受け付けず、理論闘争としてではなく初めから排除ありきの姿勢で口汚く罵ることが革命的な指導者であるかのような風潮さえ作られた。これは中央指導部だけではなく、中間指導部や地区キャップをも染め上げていった。何の論理性もなく「反革命」「スパイ」「体制内」等々のレッテルを貼って批判した気になっている低水準の「指導部」が幅を利かせることになった。そのルーツは、2007年の「革共同中央労働者組織委員会」の大原=辻川論文(『共産主義者』153号掲載)に垣間見ることができる――これについては、別に論じる機会を設けようと思う)

7回大会は、いつ全国委員を選出したのか

しかも、その間に行われたのが第7回大会である。全国委員には任期が明記されていないが、大会によって任命されるのだから、少なくとも次の大会が開かれた時点で任期を失うと考えるべきだろう。しかしながら、第7回大会では全国委員の再任決議は行われておらず、本来、大会で任命された全国委員が大会中に総会を開き、政治局をはじめとする執行機関を組織するのだが、そうした手続きも行われていない。いったい、2019年の第26回全国委員総会に参加した全国委員はいつの大会で承認されたというのか?

そうなると、第26回全国委員総会の決定や、そこで選出された暫定政治局に正統性があったといえるのか。

第7回大会が誤りだったとか、いやその前から血債の思想が歪められたのだとか、今更のように言い訳をしているが、党が党としての体をなしていなかったのだから、理論や方針以前の問題であり、あたかも革命的であるかのように装い続ける事こそ階級を欺くものではないか

この「無限回廊」に迷い込んだ革共同がなすべきことは、党の崩壊を認め再建大会として初めからやり直す以外にないだろう

世論調査とSNSが生む多数派の錯覚

内閣広報室の情報発信機能を強化し、高市支持の世論を誘導

内閣府には大臣官房政府広報室(政府広報室)というのがあり、これは日本政府の施策を国民に周知したり、海外に発信して国際的な理解を深める役割を担っている。
それとは別に、官邸の広報を専門に担う内閣官房内閣広報室(内閣広報室)がある。

内閣官房予算のうち、内閣広報室の予算は安倍政権以来、毎年約14億円前後で推移してきた。ところが、高市政権では対前年比で1.4億円増の15.1億円となっている。政府予算全体から見れば小さな額かもしれないが、高市政権になって約10%増の広報室予算が計上された意味は大きく、これまでのどの政権と比べても内閣広報室の役割を重視していることを示すものである。

官邸は内閣広報室の重点を「オウンドメディア(注:高市政権に有利な情報を継続的に発信し、信頼や好感度を高めることを主な目的としてSNSなどを効果的に使う)を活用した情報発信機能の充実強化」とし、世論の動向調査・分析をはじめ、専門的なコンテンツ制作能力の強化を掲げている。その大半は民間の制作会社・広告会社・デジタル関連企業などから調達するとみてよいだろう。

発足当初から党内基盤はそれほど強いわけではなく、実務経験もそれほど長くない高市早苗にとって、世論の支持の高さだけが政権維持のための条件なのである。自民党の国会議員もそれを承知の上で、この高市早苗人気に便乗してきた。高市人気の陰りは、たちどころに求心力の低下に繋がる、いわばアキレス腱でもある。

この高市政権支持への世論を誘導する役割を担っているのが内閣広報室であり、総理官邸の宣伝機関、高市早苗のプロモート機関というわけだ。総裁選過程では高市事務所が担った世論工作を国家予算で行っているというわけである。

 多数派に見える意見が人を動かす仕組み

人はしばしば、自分の判断は自分で下していると思っている。だが現実には、判断はつねに社会的な空気の中で行われる。とりわけ世論調査は、その時点の意見を測るだけでなく、その結果が報道されることで、次の意見形成に影響を与える。支持率の数字は、単なる記録ではなく、多数派の所在を示すシグナルとして作用しうる。

いわゆる「バンドワゴン効果」である。これは、今日のようにSNSが普及する前にも「勝ち馬に乗る」とか「安全パイ」という言い方で、多数派につくことで安心感を得るという社会心理が働くことは知られてきた。それが、今日のようにSNSが普及し、既存メディアとは違った膨大な情報が発信されるようになると、少々事情は変わってくる。

SNSが客観性の錯覚を強める

 ここで重要なのは、人が露骨に勝ち馬に乗ろうと考えて動くとは限らないことだ。むしろ多くの場合、人は多数派に流されたとは考えず、自分は周囲をよく見て客観的に情勢を判断しただけだと理解する(そう思うことで自分を納得させたいという願望がある)。だが、その客観性はしばしば可視化された多数派の印象によって支えられている、ということに気付かない。

支持率の高さ、拡散数の多さ、フォロワー数の大きさは、本来は別の指標にすぎないのに、いつのまにか正しさや妥当性の証として受け取られてしまう。SNS環境において顕著なこの傾向は、反応の多い投稿ほど目立ち、似た方向の情報ほど繰り返し目に入りやすい。そこで受け手は、自分が偏った情報に囲まれているとは感じにくい。むしろ、広く情報を見た結果として判断しているつもりになる。しかし実際には、反復接触と可視的な人気が、ある意見を社会の中心にある常識のように見せていることがある。多数派に流されるとは、単純な服従ではなく、客観的判断の感覚を伴って進むのである。

人気ある発信者が持つ政治的影響

人気の高いクリエーターや発信力の強いインフルエンサーが政治的な影響力を持つのも、まさにこの文脈で理解できる。彼らが多くの支持を集めることには、技術力や表現力や選球眼といった現実の根拠がある。だが、その正当な評価が、そのまま政治的判断の客観性へと読み替えられるとき、問題が生じる。発信の巧みさは、認識の妥当性そのものを保証しない。それでも受け手は、影響されたとは思わず、信頼できる情報源をもとに自律的に判断したと感じやすい。

同調が同調として自覚されない時代

この意味で、世論調査とSNSはよく似ている。どちらも意見を映す鏡であると同時に、意見を作り出す装置でもある。多数派と見られる意見に人が流されるのは、意志が弱いからではない。多数派に見えるものが現実的で、穏当で、客観的な判断のように見えてしまうからである。今日の政治意識の難しさは、同調が同調として自覚されない点にある。だからこそ、数字や人気の背後にある情報環境を疑う視点が欠かせない。

問題は、高市政権がこうしたSNSの特質やアルゴリズムを十分承知の上で、無自覚な民衆につけ込み、世論の形成や政権の支持率を高めようとしていること、そのためだけに公費を使って内閣広報室を私物化していることだ。

ベネスエラで展開していた社会革命

 

ベネスエラで展開していた社会革命

   【元朝日新聞ロサンゼルス支局長 伊藤千尋さんのFBより転載】

トランプによるベネズエラ攻撃を、単に軍事力学や国際法との関係で見るのではなく、南アメリカにおける階級闘争の視点から見ることは極めて重要だと改めて思いました。

なお、この記事の後には、ベネズエラがアメリカと世界にあてたメッセージの中で、アメリカに協力的な態度を表明し「一転、態度軟化」(屈服)したかにも見えていますが、その意味についても触れられています。

https://www.facebook.com/search/top?q=%E4%BC%8A%E8%97%A4%20%E5%8D%83%E5%B0%8B

スラムのオーケストラの練習風景

 米国のトランプ大統領がベネズエラを攻撃したのは石油だけが目的ではありません。ベネズエラではこの20年間、キューバ革命さながらの社会革命が展開していました。このままならカリブ海に第2のキューバが確立する。米国はそれを嫌がったのです。

 この国は世界最大規模の油田を持ちながら、米国べったりの時代には貧富の差が極端でした。石油に関係する人は大金持ち、その他は貧困層という激しい格差がありました。社会を公平にしようと改革したのが1999年に大統領に就任したチャベスです。

 僕は2010年に首都カラカスを訪れ、住民自身による「地域づくり」の現場を見ました。スラムのスーパーは他のスーパーよりも同じものが40%安く買えます。残る60%は石油の利益から補てんしたのです。スーパーの棚にコメの袋があり、女性が「買占め怪獣」を蹴っ飛ばす絵が描いてありました。そこに民主主義や人権を保障する新憲法の条文が印刷してあります。

 憲法と言えば、チャベス政権で新憲法ができたときにこの国を訪れたさい、憲法を売る露天商を見ました。道端で本を広げて売っているので見ると、憲法の小冊子です。こんなものだれが買うかと思っていると、赤ん坊を抱えた若い女性が目の前で買いました。彼女に「こんなもの買ってどうするんですか?」と問うと、きっと振り向いてこう言ったのです。「憲法を知らないで、どうやって生きて行けと言うの?」。子どもの福祉のことで役所に相談に行くと、けんもほろろの扱いを受けることがあります。そのさいに憲法が役に立つと言うのです。水戸黄門の印籠のように憲法の福祉の条文を見せて「これを実現するのが役所の役割でしょうが」と啖呵を切るのだそうです。憲法はまさに市民が使うものだという事実を始めて見せつけられた思いでした。

 さて、スラムのスーパーの建物はかつて警察署でした。それをチャベス政権になって地域センターという住民自身による自治組織の拠点にしたのです。住民はここに集まって地域の予算をどう使うか、話し合います。集会に参加して話し合いの内容を聞くと、家にドアがない貧しい家庭がたくさんあるので、そのドアを買うのにまず地域の予算を割こうと決めました。2階の最初の部屋は「民衆銀行」です。スラムの住民がなにか起業したいときに元手を安く貸すのです。市中銀行の金利は年利23%なのに、ここは6%。これも国から資金が出るのです。

 スラムを歩いていると、手にバイオリンのケースを抱えた子どもとすれ違いました。後ろから着いていくと「エル・システマ」の事務所に着きました。貧しい家の子でも音楽を楽しめるように、国が楽器を貸し与える独特の制度です。小学生くらいの30人ほどの子がバイオリンやチェロを手に練習しています。指導するのは、同じようにこのシステムで育った高校生です。音楽を楽しむ子の層は厚く、水準の高い子が集まって立派なオーケストラを構成し、世界中で演奏旅行をしています。日本にも来ました。

 スラムにも診療所があります。かつてスラムにそのようなものはなかった。貧しい人々は発展から見捨てられていました。今やあらゆるスラムに診療所が作られました。医師はキューバ人で、キューバ政府が派遣しています。ベネズエラの石油とキューバの医療と、お互いに相手にないものを交換しあっているのです。

 こんな風にベネズエラが急速に変化するのを見て嫌悪したのが旧支配層、つまり富裕層です。2002年に米CIAとグルになて画策しクーデターを起こしました。チャベスをいったん拉致し、経団連の会長が「私が大統領だ」と宣言しましたが、民衆が大統領官邸を取り囲み、クーデターの首謀者たちはすぐに逃げ出してしまったのです。当時、朝日新聞のロサンゼルス支局長をしていた僕がベネズエラに入ったら、すでにクーデターは失敗していました。たった30時間でクーデターはひっくり返った。米CIAはこんなへまをやったのです。米国のひざ元でも米国の介入を覆すことができるという自信が南米に広がり、そこから南米大陸は反米大陸に変わったのでした。

 今回、CIAはいとも簡単にマドゥロ大統領夫妻を拉致しました。前のリベンジとばかり綿密な計画を練ったのでしょう。しかし、20年の社会変革の歴史はそれなりに市民の感覚に根付いています。すんなりと米国べったりの政府に戻るはずがありません。すぐに副大統領が大統領になりました。これからベネズエラの市民がどのような行動を起こすか。それはけっしてトランプの思惑に合致するものではないでしょう。

 

 

「石田反革命」を口実にした三里塚闘争破壊をやめよ

三里塚闘争は革共同のものではない

『前進』 第3418号3面に三里塚の記事が掲載された。

10・20三里塚蜂起戦40年を記念した論文という形をとり、その中で「・・・この時にわが革共同の内部から石田反革命を生みだしたこと、それにより三里塚芝山連合空港反対同盟に『10・12全国集会中止』という『苦渋の決断』をさせることになってしまったことについて、革共同は、反対同盟ならびに三里塚闘争を闘うすべての人々に謝罪します」としている。

三里塚反対同盟にとって10月の全国総決起集会というのは、1967年10月10日、日本共産党と決別して以来初めて全国の共闘団体と共に、くい打ち測量阻止闘争を実力で闘った日であり、それ以来、全国の「共闘の砦」としてカクマル以外の全党派によって守り抜かれてきた闘いの場としてあり続けたのだ。事実、今年の10.12に向けて、反対同盟はカラーのビラを作り地元住民に配るなど、地道な努力を重ねていた。

それを破壊したことの責任と謝罪を、こともあろうに「10・20戦闘の40年記念」にかこつけて掲載するというのは、党派として何という姑息なことだろう。
これではまるで、〝三里塚闘争は革共同の闘いだ” とでも思っているようにしか見えないではないか? 思い上がるのもいい加減にしろ!と言いたくなる。

しかも、その謝罪の内容というのは「苦渋の決断をさせてしまった」という、たった一言である。一党派の党内事情に比べて、そんなに三里塚の歴史は軽いものなのか?

謝罪と言いながら、その中身がない

そもそも、この謝罪において、反対同盟がなぜ「苦渋の決断」をせざるを得なかったのかについて、党の認識が全く表明されていない。 

事実の問題としては、全学連すなわち革共同政治局派が「石田反革命」と呼ぶグループとの対立において、彼らを「反革命」と規定し、かつ現実に京都では権力に逮捕されている2学生への激励行動中に、革共同関西地方委員会のメンバーが暴力的な襲撃を行ったことが確認されている。これに対し、反対同盟は懸念を表明していた。集会中止を回避する手立ては革共同に掛かっていたのである。それを知りながら、党政治局は自らの我を通し続けたのだ。

繰り返し言う 「反革命」の根拠は何か?

すべての党派や人民は、革共同が「反革命」と規定する時、それは殺し合いを含む対立であるということを認識している(それは、カクマルとの「戦争」で身をもって知らしめてきたことだ )。「打倒」と言おうが「血の海に沈める」と言おうが「反革命」に対する軍事的意味は変わらない(「反革命」とは軍事を伴う言葉なのだ)

同時に、すべての闘う人民は「反革命」というのは、帝国主義・国家権力やブルジョアジーを利する行為を指すことを知っている。通敵行為や権力を引き入れる行為、或いは冒険主義的な行動によって党と人民を著しい危機に叩き込む等々、階級闘争条理において、敵味方の分水嶺を超えるような行動をした者に対する規定であることは誰でも知っているのだ。

レーニンも言っているように、プロレタリアート人民は自分たちの経験から、誰が権力と闘っており、誰が裏切り者であるかを見抜く力を持っているのだ。根拠のない規定を与えて納得すると思っているとしたら、プロレタリア人民を愚弄するものでしかない。

軍事を弄ぶ者は革命の指導者ではない

だから、あらゆる人民、党が接点を持つあらゆる大衆団体が客観的に納得のいく説明ができない限り「反革命」と規定することは控えなければならない。なぜなら、「反革命」を打ち倒すということは基本的に全人民の動員と支持をもってする戦闘行動だからだ。これを大げさだと感じる者がいるとすれば、それは軍事を弄ぶ者であり、革命を指導する資格などない。

ところで、8.6ヒロシマでの実力闘争を闘い、少なくとも数か月前まで三里塚の援農にも入っていた学生が「反革命」と言われてにわかに納得する者がいるだろうか。革共同が「反革命」と言えば反革命なんだ、と言わんばかりの態度は、いかにも傲慢である。

そして、全体としてこの論文は革共同の自己正当化でしかなく、三里塚への謝罪などでは全くない。そもそも、謝罪の言葉の前後が「石田反革命」というカッコで括られているのだ。

「石田反革命」を打倒することが反対同盟との血盟に応えることだと言わんばかりではないか。そのような話で反対同盟が納得すると思っているのか?

さらに、驚くことに「これは、決して革共同という『一党派』の問題ではないことを訴えたい」と述べ、この「石田反革命」との戦争に他党派をも巻き込もうとしてさえいるのだ。独善もここまでくるとカルト的ですらある。

三里塚との血盟のためにも「反革命」規定を取り下げるべき

何れにしても、この態度表明では今後も三里塚現地集会はおろか、三里塚闘争が危機に陥りかねない。利敵行為を行っているのは、むしろ革共同政治局である。

三里塚との血盟を守ろうとする方針に変わりがないのであれば「反革命」規定を撤回し、改めて反対同盟に謝罪すべきだ。

同じ階級内での女性差別事件において、一方が他方を打倒するという方針はあり得ない

革共同中央と全学連(矢嶋委員長)との分裂に際して寄せられた読者からの投稿を掲載します。

 

日本の近代家族制度はいまグラグラに崩れつつあるが、日本社会の一員である限り、この家族制度に包摂されている。そしてこの家族制度は男性の女性に対する抑圧と差別によって成り立っているわけです。つまり日本には女性を抑圧し差別していない男性は存在せず、男性から抑圧され差別されていない女性は存在しないことになります。
 崩壊の危機にあるとはいえ、帝国主義の側はその反動的な護持にいま必死になっています。夫婦別姓問題、愛子天皇問題、芸能界における恒常的な性暴力の問題、ミートゥー運動に対する攻撃も執拗に続けられています。目を海外に転じれば従軍慰安婦問題など、日帝のアジア侵略戦争における苛烈を極めた性暴力の問題は絶対消し去ることのできない問題としてぶっ立っているのです。
 ところが・・・である。女性に対する差別と抑圧が全社会的問題であり、全世界的―全日本的問題であり、当然にも革共同内で起きた女性差別問題もその一つの環であるにもかかわらず、そういう視点は皆無のように見受けられる。党員の誰が誰を差別した、だから誰それを打倒しろ(除名しろ)。これが全てであるかのように見える。こういうのを小ブル個人主義と言うのだが、今これが現実に革共同を制圧しているのではないだろうか。

糸杉さんに言いたい。そして矢嶋さんにも言いたい。

君たちの受けた性暴力・女性差別が従軍慰安婦問題と密接につながっていると捉えることはできないだろうか。それがができないなら、君たちは革命的共産主義者ではない。なぜなら、つまるところ全ての女性差別事件、性暴力事件は、帝国主義(とスターリン主義)の世界支配と密接につながっており、その不可分の環をなすものだからである。帝国主義を打倒しない限り女性差別も性暴力もなくならない。なぜなら女性差別も性暴力も根源は帝国主義に発するものだからである。

打倒論ではなく、獲得論に立つべき

今も幾万、幾百万の、いや幾千万の性差別事件、性暴力事件が帝国主義の胎内から噴き出している。こういうふうに、党内の女性差別事件をとらえることができれば、それに対して何をなさなければならないかも明白になってくるだろう。
 私の結論を言いたい。少なくとも同じ階級内で起きた女性差別事件において、一方が他方を打倒するという方針はあり得ないということです。これは共産主義者(たらんとする者も含めて)同士の関係でも然りである。

つまり獲得論、再獲得論に立たなければならないということです。

極端に言えば、批判した相手がまったく変わらない、自己変革しない、ほとんど居直っているという状況になっても安易に打倒論に転げ落ちてはなりません。なぜならそれは共産主義者への絶望であり、プロレタリアートを獲得していくことへの諦めと絶望だからです。帝国主義の世界支配を根底から覆すこと、つまり日帝を打倒し世界革命を完遂することへの絶望だからです。    (U)