第7回大会は「党の革命」と「階級的労働運動路線」の実践的総括として提起されたのではなかったか?
『前進』3439号(3月23日)は、革命的共産主義者同盟・全国委員会が第10回大会を開催したと報じた。36全総でも論じられてきた「第7回大会路線」からの決別=血債の思想の再構築を大きな組織的課題として前面に出している。しかし、これは明らかな党史の歪曲であり、隠蔽に他ならない。
なぜならば、第6回大会以来の14年間の党内闘争の結論、「総括」として打ち出されたのが7回大会路線だったからである。
従って、第7回大会路線が誤りだというのであれば、そこに至る14年間の総括が誤りだったということになるはずである。

第7回大会は、14年間の党内闘争の歴史的総括
ところで、この間「第7回大会からの決別」を語り、35—36全総、第10回大会の先頭に立ってきた秋月書記長やISさんたちは、第7回大会以前の党の歴史をなぜか語りたがらない。そればかりか、全政治局員の辞任にまで発展する直接の契機となった第7回大会以前に生起した女性差別・性加害の階級的犯罪について何一つ触れようとしない。いったいなぜなのか。
「7回大会」の誤りを言いながら、この大会に集約された14年間の歴史の中で、自分たちが果たしてきたことの意味を考えようとしないのは何故なのだ。
他ならぬ、秋月書記長やISさんたちは「党の革命」のあとの「階級的労働運動路線」そして07年の「7月テーゼ」路線を労働者大衆の中に持ち込み、党を経済主義の沼地に誘うための先頭に立ってきたのではなかったか。あるいは緒戦線の闘いを貶め、労働運動の後尾につけようとすることはなかったのか。そして「7月テーゼ」路線下では、それが模範的な党員とされてきたのだ。
そのことに対する自己切開、人民に対する自己批判的総括の内容を示すこと抜きに、安易に「血債の思想」の再獲得だとか、人間解放などと語らないで欲しい。
第7回大会を批判しながら、それを生み出した14年間の実践上の総括を拒絶し、口を塞ぐのは党の歴史の一部に蓋をすることであり、党史の歪曲・改ざんと言うべきではないのか。
勿論、91年の5月テーゼ、そして第6回大会それ自体の総括も必要ではある(特に第6回大会の規約改正はレーニン主義党組織論を根本から覆す「毒」が含まれていた)。
それは、何れかの機会に譲るとして、第6回大会から第7回大会に至る14年間に何が起きたのかをかいつまんで整理しよう。
「党の革命」への序章
03年1~4月期の闘争方針とその総括
この年、党は三つの闘い(統一地方選、イラク反戦、春闘・国鉄決戦)を3大決戦として全力で闘うことを確認した。
しかし、杉並区議選においては、北島候補はあと200票というところで、勝利できなかった。「今日の階級情勢の中で3人当選が絶対必要であったし、その可能性もあったという点で、杉並区議選は革命的絶対基準からして党としては敗北」だったと総括。
他方、重大なことは、・・・「最も決定的であった動労千葉春闘ストおよび3・29春闘集会の(党の)取り組みは、きわめて不十分にしかできなかったことであった。それは3・29の結集数に端的に現れた」
こうして1~4月期の総括では、動労千葉の闘いを高く評価すると共に、その支援に全力を挙げなかった党の責任を厳しく指弾し、それと対比させる形で政治闘争分野(選挙+イラク反戦)における敗北をそれまでにない調子で、明らさまに強調したのだった。
それは、清水丈夫議長の指導(政治闘争)に対する中野洋副議長(労働運動)の徹底した弾劾だったのである。
「党の革命」
「党の革命」の始まり――04年新年号アピール
04年新年号アピールにおいて、「新指導路線」=「党の革命」が打ち出された。
91年の「5月テーゼ」から10年に近い歳月を経ながら、労働運動、労働組合運動に対し、まともな方針すら示せず、他方では国労1047名闘争と国鉄闘争に対する、反動の側の包囲網がジリジリと狭められるという状況の中で、清水——天田主導の全政治局は中野洋(動労千葉委員長・当時)の追及と弾劾に為す術なく屈服した。中野洋の主導で打ち出されたのが、この新指導路線である。
清水議長は、そこに潜んでいる組合主義、経済主義的本質を見抜けなかった筈はない。しかし、清水や天田には官僚的に組織を統制する力はあっても、全党的なイデオロギー闘争を組織する能力はなかった。また、上意下達的な組織運営に慣らされてしまった下部組織にも、そうした党風は失せてしまっていた。
「党の革命」反対派と称する水谷、岸(故人)たちは「3.14決起」そのものをクーデターと言って批判しているが、そこに至る06年までの2年間、「新指導路線」=「党の革命」が打ち出されたことに対してはどのような党内闘争を行ってきたのだろうか。「政治局の敗北」本の中でも、その点は明確ではない。
そもそも、清水議長の自己保身的な欠陥、力関係を見て(よく言えばリアリスト、悪く言えばカメレオン的に)態度を変えるという――革共同の第三次分裂当時から危惧されてきた――欠点はあっただろう。それを本多書記長亡き後は野島(木下)や山村(白井)などの党創生以来のメンバーが理論的、イデオロギー的=路線的に支えてきたのである。清水議長には、そういう支えが必要だったのだ。しかし、すでに5月テーゼを前後して清水や天田は彼らを失脚させ、放逐してきたのであった。
「階級的に自覚した革命的労働者(党)は、マルクス主義的・階級的な労働者階級の全面的解放の立場に立ち、その思想あるいは共産主義的政治の立場を貫くものとして、経済闘争の先頭にも政治闘争の先頭にも立ち、その最もすぐれた指導者となるように闘い、その中で始めから終わりまで、労働者階級の階級的自覚の全面的深化と階級的団結の強化、共産主義的政治の全面的貫徹のために闘うということ(05年新年号アピール)」
これは、「なにをなすべきか」の中でレーニンが経済主義を批判していることについて、どう理解するべきかを述べたものだ。党(この場合は共産主義者の最高の団結形態)と階級、労働者階級の解放と共産主義的政治との関係等々をごちゃまぜにして、それらしく述べているが、要は、自分たちは経済主義者ではないんだ、ということを必死に弁解しているのである。おそらく、動労千葉特化型の方針に対して、党内からも疑問や批判の声が上がっていたに違いない。
何れにせよ「新指導路線」は「四大産別決戦」という名による国労、教労、郵政、自治労内への動労千葉物販の持ち込みと、11月労働者集会への結集運動に集約されていくのであった。また、「労働組合の革命論的意義」が語られるのもこのあたりからである。
にもかかわらず、05年の新年号アピールでは、まだ戦線的課題を含めて全面的に展開されていたのである。
「党の革命」の完遂に向けた新指導体制
都議選敗北の深刻な総括、03年前半戦の総括をめぐる中央指導の責任と「新指導路線」=「党の革命」という第6回大会では未だ具体的に示されてはいなかった、新路線の提起があったにもかかわらず(06年「3.14蜂起」で与田を打倒したその年の秋まで)全国委員会総会での議論も行わなかったのは異様ですらあった。
その回答は第22全総を報告した次の記述にヒントがあるように思われる。
「今回の拡大全国委員会総会で革共同は、06年に労働者同志の決死の実力決起によって遂行された『党の革命』のただ中で、その勝利と成果を第一次的に断固として集約すると同時に、「党の革命」のさらなる徹底的な完遂に向かっての組織体制、指導体制を革命的な臨時体制として確立・・・何よりもこの点に、過去のいかなる全国委総会とも格段に違う、今回の総会の歴史的意義があった」
党内権力闘争
「5月テーゼ」以来10年を経ても労働者を組織する有効な方針を出すことができないという、破綻した指導が続く中で中野が政治局入りし、清水は中野の実践的手腕と動労千葉を牽引し抜いてきたというその権威の前に圧倒され、すでに公然政治局の多数派を形成していた中野に完全屈服し、従僕したのである。
のちに(3.14決起の後に)清水議長が政治局に提出した自己批判文書の次の記述でも分かるように、実践経験も実績もないやつが理論的・政策的レベルで批判することは許されない――これは清水が自分に対して向けている言葉であり、自分が屈服した言い訳でもある――というものであり、「新指導路線」とは初めから実践以外の一切の異論を拒絶する激しさを持っていた。だからこそ「党の革命」だったのである。それは、中野洋という実戦経験をもった人格と「動労千葉」が歴史的に築き上げた権威がそういう圧力になったことは想像に難くない。
革共同は「前衛党」としての役割を放棄した
革命党が進むべき道を考える時に理論的・イデオロギー的な視点を軽視するのは、それ自身が経済主義のもつ特徴であり、革命家=共産主義者の組織(そこには労働者であるかインテリゲンチャであるかとか、経験が長いか短いかといった差異はない)とは相容れないものなのである。
5月テーゼ以来、特に6回大会以降、革共同中央は自らを「プロレタリアの党」「労働者党」と規定するようになった。これは単に労働者受けを良くするための表現ではない。口当たりの良いオブラートに包んで害毒を飲ませ続け、「共産主義者の最高の団結形態」「職業革命家の党」という結党以来、革共同が堅持してきた党建設の根本的転換を図ろうとするものであり、レーニン主義党組織論からの逸脱であった。
他方、5月テーゼ以来の清水―天田指導は、地区組織や現場の特殊性、創造性を無視し「単一的党建設」を振りかざし(それ自体、党建設論の誤った理解に基づくものでしかない――レーニンは党の全国的統一をイデオロギー的・質的な均一化に求めたのであって、同じことをやれと言ったのではない)、中央方針の画一的な遂行を時には恫喝をもって要求し続けてきた。
「3.14蜂起」の強烈さと異様な緊張を利用した翼賛運動
「党の革命」が打ち出された時には、まだ与田の腐敗と組織の私物化、私党化は公には問題になっておらず、関西の労働者が与田の官僚主義的指導にいたたまれず、これを打倒するための工作、情報収集をしている過程で、財政の私的流用や、TSG問題(与田の秘書をしていた高杉という男が公安調査庁のスパイであり、それを知った与田は自分が勝手に査問をして高杉を逃亡させた)などの実態を掴んだと言われている。この時に「蜂起」の正当な理由を見つけたのであり、「党の革命」のシナリオに「3.14蜂起」があらかじめ組み込まれていた訳ではない。
しかし「3.14蜂起」はこれらのすべてを鮮明に突き出してしまったのである。そこで、中央政治局はこれを「労働者のやむにやまれぬ実力決起」、「労働者の自己解放的決起」として強調し「3.14決起」の翼賛運動を組織するとともに、「党の革命」の中に取り込むことによってその激しさを印象付けるために最大限に利用したのである。
その一方で「党中央は打倒された」として、清水議長の自己批判をもって早々の幕引きを図ろうとした。これは、関西の問題が単に与田の不正にとどまらず、「新指導路線」と戦線との関係、四大産別決戦論とそれ以外の産別における闘いの評価、そして何よりTSG問題等々、中央指導をめぐる多くの問題が浮き彫りになるからであった。
「3.14蜂起」は、直接には与田私党グループの打倒を目的とした戦闘ではあったが、中央政治局の中では清水―天田体制の打倒 ⇒ 中野―天田体制の確立として進んだということだ。清水議長は、5月テーゼ以来の自らの指導のあり方に言及し、「中野同志―天田同志や労働者組織委員会の労働者同志など公然指導部にもっと自己権力を認めるべきだった」とし、19―20全総以来、中野同志が非公然政治局に参加したことで飛躍的に改革が進んだと最大限に評価した上で、自分は「新指導路線」のもとで進行している新指導体制に正しく対応出来なかったと自己批判している。
これは、中野副議長に全権を委任し、その決定に従うという全面降伏の意思表示にほかならなかったであった。
つまり、中野は「新指導路線」を進める上で障害となる関西問題を鎮めるために、破産した清水議長に「自己批判書」を書かせて見せるという茶番劇を演じさせたのである(清水議長は関西に対して行った自己批判の内容を、その一年後にはすべて反故にした)。
そして、党中央はこの「自己批判」をもって今後は政治局全体への責任追及を一切認めないという姿勢に舵を切る。「3.14決起」の翼賛運動は、返す刀でその実行者を切り捨てたのである。
全くの偶然なのか否かは分からないが、「3.14蜂起」が行われていたその時、東京の法政大学では当局による立て看撤去に抗議した全学連委員長ら29人が、建造物侵入と威力業務妨害の容疑で逮捕された。この弾圧には約200人の捜査員が動員されたという。(「3・14法政大学弾圧事件」)
「階級的労働運動路線」と「7月テーゼ」
第22回拡大全国委員総会(06年秋)—動労千葉特化運動
「党の革命」がほぼ完遂した06年の秋に、その勝利の宣言を発したのが第22回拡大全総であった。そして、「党の革命」のさらなる徹底的な完遂に向かっての組織体制、指導体制を革命的な臨時体制として確立すると宣言。実際、この第22拡大全総を経て戦線の地区への統合と地区キャップを現場労働者に置き換える決定が全党的に遂行されていく。同時に動労千葉物販オルグと中野本(「俺たちは鉄路に生きる」)の学習運動が叫ばれ、その感想文を書かせる指導すら行われるようになる。
日刊動労千葉と外注化阻止ニュースをもってJR職場を回ることが「国鉄決戦」の中軸活動とされ、各産別の事情や条件とは関係なくすべての産別労働者がここに投入された。その熱意が「階級性」の証であるとともに、党への忠誠心を計るリトマス試験紙であり、不満分子を炙り出す踏み絵でもあった。
何よりも重要なのは、この第22全総で政治局の重心は公然PBに移ったことだ。中野を頂点に天田―木崎―坂木という体制になり、辻川はWOB議長として中野の名代のように振舞うことになる。
07年新年号アピール
07年新年号アピールでは、これまでの新指導路線を改め、初めて「階級的労働運動路線」を打ち出した。その中では次のように述べている。
「階級的労働運動路線とは何か。それは帝国主義の危機がもたらす革命的情勢への突入の中で、帝国主義打倒のプロレタリア革命を全力でたぐりよせる唯一無二の道として、階級的労働運動と階級的団結の前進・拡大をかちとり、同時に階級に深々と根を張った労働者細胞建設に、党的組織的精力の一切を注ぎこむ闘いである」
「革命情勢への突入」なる空論主義も驚きだが、そう言いながら「革命情勢における党の三つの義務」を打ち出すのではなく、「細胞建設に党的組織的精力の一切を注ぎこむ」というチグハグな組織方針にも開いた口が塞がらない。
だが、問題は次の点である。
これ(階級的労働運動路線)は「別個に政治決戦一般を対置したり、並列的に位置づけることはできない。『共産党宣言』で言うように、共産主義者はプロレタリア階級全体の利益から離れた利益は持っていない。プロレタリア自己解放闘争と階級的労働運動の強化を基軸に、その普遍性のもとですべての闘いを一体化していくのだ」
「プロレタリア自己解放闘争の共産主義的普遍性の内部に、民族解放闘争など被抑圧民族人民の闘いとの連帯・結合・一体化の論理を内包していく」
「階級的労働運動とは、こうした立場から労働組合を革命論的に位置づけ、プロレタリア独裁の樹立へ向けて、労働組合の階級的団結を拡大していく闘いなのである。動労千葉は、そうした労働運動を実際に実践してきた」
①「階級的労働運動」に政治決戦を対置したり、並列的に位置付けることはプロレタリア階級の利益に反するもの
②「プロレタリア自己解放闘争の共産主義的普遍性の内部に、民族解放闘争など被抑圧民族人民の闘いとの連帯・結合・一体化の論理を内包していく」
→ これは、全く逆立ちした論理である。「共産主義的普遍性」とは全人間の人間的解放を実現する普遍性だと思うが、そうであれば、民族解放闘争や被抑圧民族人民、被差別人民の闘いはそれぞれが人間性を希求する、人間解放を求める闘いそのものであり、プロレタリア自己解放=プロレタリア革命を戦いとるためにも、これらの人民との連帯、共同闘争として革命運動を進めなければならない。これは、革共同が70年「7.7自己批判」を契機として確立した戦略的総路線の考え方ではなかっただろうか。
ところが、ここでは「政治決戦を対置するな」「緒戦線的闘いは、階級的労働運動と並列であってはならない」(=階級的労働運動の下で闘うべきだ)と言っているのだ。
こうした新年号アピールを下敷きとして「党の革命」と「階級的労働運動」路線の集大成としてだされるのが「7月テーゼ」なのである。
WOB内で発言力を強めた辻川、強権的に批判的意見を圧殺
07年 5月 中央労働者組織委員会(WOB)基調報告 辻川
「全指導的同志には、本会議を期して全国全同志に対しこの議案書を基に、この内容で徹底討議して意思統一する党員としての義務がある」
議案書は党員の討論に供されるものではなく、一方的に受け入れるもの!!
驚天動地、何と傲慢な組織指導だろう。
そして、辻川はここで党内から湧き出ている一つひとつの批判的意見や疑問を敢えて羅列して紹介した上で、これに対する党中央としての辛辣な批判を浴びせるのである。「階級的労働運動路線」批判に同調するメンバーを中央は容認しない、という強烈なメッセージを出すことによって、「7月テーゼ」の露払いが行われたのだ。
7月テーゼ
「7月テーゼ」批判については、当ブログの別掲記事を参照されたい。
要は、①経済主義への組織論的転落 ②前衛党としての役割の放棄 ③プロレタリア革命に対する空論主義 ③70年「7.7自己批判」を契機として確立した戦略的総路線(抑圧民族としての日本プロレタリアート、とりわけ革命的左翼が、民族植民地問題、民族解放闘争をしっかりと革命戦略の中に措定していくという目的意識性を欠落させてきたという自覚に立って再確立した)を投げ捨てたことである。

7月テーゼ
※ 70年「7・7自己批判」で問われたのは被抑圧民族人民、特に在日朝鮮・中国人、アジア人民にとって帝国主義的民族抑圧は法的で、それゆえ日常生活と不可分の攻撃であること。同じように民族差別・排外主義の攻撃も日々の生活を脅かしているということなのだ。被抑圧民族を襲うこの日常に、抑圧民族プロレタリアートがいかに肉薄し、一過性の闘争課題や問題が起こった時だけ闘うのではなく、われわれ自身の日常的な問題意識へと高められるかという極めて意識的で実践的な問題だったと思う。
※ 被抑圧民族に対する民族抑圧、差別・排外主義の攻撃と抑圧民族内の人民に対する差別分断攻撃は「差別」という形態は同じでも、その性格は必ずしも同じではない。
前者は帝国主義者が自国の人民を排外主義と侵略戦争に動員するための攻撃であり、後者は国内階級支配を貫徹するために、プロレタリアートの怒りが支配階級に向かわないよう分断することにある。ゆえに、帝国主義戦争には国内の被差別人民をも動員されるのである。
「7月テーゼ」以降
「7月テーゼ」以降は「国鉄決戦」「四大産別」「革命的選挙闘争」を軸に、全体は11月労働者集会
2007年夏頃、第23回拡大全国委員会総会開催。「7月テーゼ」を正式決定。岸、水谷政治局員と結柴、新城区議の除名を決定。
2007年秋頃、第24回拡大全国委員会総会。「関西派」の塩川らを除名。
2008年02月 「広島差別事件」部落解放全国連合会(全国連)との対立
2009年09月、第25回拡大全国委員会総会。「綱領草案」を採択。
➡ この第25回拡大全国委員会総会のあと、2019年9月の第26全総まで、一度も全国委員会総会が開かれていない。一方で「中央労働者組織委員会(WOB)全国会議」なるものが毎年定期的に開かれてきている。つまり、党の基本組織である全国委員会総会を招集できない客観的事情があったわけでは決してなく、強いて基本会議を招集しなかったということだ。本来、革共同の規約(第6回大会で改訂)でも執行委員会の一小委員会に過ぎないWOBが、全国委員会総会に代わって年間方針を決める――これは党の破壊であり私党化意外の何ものでもないのだ。
2010年03月04日 副議長の中野洋が胆管癌のため病死
2013年07月14日 「全国水平同盟」を結成
2014年 山梨によるA部局の女性党員に対する性加害(山梨問題。政治局はこの事実を知りながら5年間も握りつぶしてきた。1019年になってA部局の信頼できる同志の励ましもあって、命がけの決断による渾身の告発によって明るみに出たのである)
2015年 第7回大会
➡ 通常は大会が全国委員を任命し、その場で新全国委員による総会が行われ、政治局をはじめとする下部機関の任命・決定を行うのだが、第7回大会はそれも行わなかったということだ。かくもデタラメな組織を筆者は見たことも聞いたこともない。
2019年09月 第26回全国委員会総会。全政治局員の辞任(暫定政治局員の決定、清水議長は再任)
第26全総の第一報を掲載した『前進』3076号(2019/10/14)には、山梨、辻川による女性差別・性加害と政治局員によるその隠ぺいの事実、それに対する一言の自己批判も語られていない。曰く「この間の政治局による国鉄闘争と階級的労働運動、改憲阻止闘争における指導の誤りを明確に認め、その指導の破産から生みだされた中央における党規律の解体、女性解放闘争への敵対を含む組織問題の自己批判的総括の基本的方向性を示していくことと一体でした」
7回大会の路線が誤りだったとしても、政治局員全員が辞任するということはあり得ない。最高決定機関である大会方針の誤りは大会によってのみ修正できるのであり、政治局が全面的に責任を問われる話ではないからである。
政治局が責任を問われるとすれば、疑いもなく党内の女性差別・性加害(しかも、全国委員会にとって代わって指導権を簒奪してきた全国中央労働者組織委員会の議長・辻川や、ここに参加していた山梨による)であり、その事実を知りながら長期にわたってこれを隠蔽し、逆に、告発者を監視し弾圧してきたことにあったはずだ。
そして、これは現在に至るも「7回大会の誤り」を前面に押し出すことによって、素通りさせられているのである。
この間、関西から出されている「女性解放学習会」の報告を読んでも、非常に違和感を持つのは、この山梨、辻川問題に全く触れていないことである。山梨、辻川問題は第7回大会後に発覚しているが、それが引き起こされたのは7回大会以前である。決して7回大会によって「血債の思想」「7.7思想」を投げ捨てたから起こったのではなく、それ以前に腐敗の芽は育っていたのだ。
ここにきて、<「党の革命」は7・7路線―「血債の思想」を「階級的」に再確立し「5月テーゼ」が本来めざした・・・「連帯し、侵略を内乱へ」の闘いを貫徹していくことを求めていた・・・が、現実にはそうはならず・・・ついには7・7路線―「血債の思想」そのものを解体していくことに>などと苦しい言い訳をしている。
「7.7自己批判」を契機に確立した戦略的総路線がそれほど安易な、「ちょっと目を離したら見失った」みたいなこととして語られることそのものが腹立たしい。
現政治局は、清水丈夫が強調した「階級的倫理性」にかけて血の償いが求められているという重みさえ忘れてしまったようだ。
しかし、事実は「階級的労働運動(路線)」を最優先し、差別や排外主義との闘いをその後尾につけようとする「7月テーゼ」のイデオロギーそのものが「7・7路線」を否定し、解体したのではなかったのか。
「階級的労働運動(路線)」の実践者、「指導的」メンバーは絶対的存在であるかのように思い込み、彼らの性加害には政治局員ばかりか女性解放組織委員会(FOB)の指導部さえ目をつぶる。あまつさえ、それを告発することは「階級的労働運動」に敵対すること、労働者階級の闘いを弱め、団結を破壊するものだとして制動をかけ圧殺する。政治局そのものがイデオロギー的に退廃し、小ブル経済主義へと転落していたのだ。
それを作り出したのが「党の革命」と「階級的労働運動路線」=「7月テーゼ」であったことをいい加減、認めるべきではないのか。そのことに頬かむりした女性解放闘争などあり得ない。