正道有理のジャンクBOX

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正道有理のジャンクBOX

菅首相は日本学術会議会員6名の任命拒否を曖昧にするな!

内閣官房ー内調による行政介入を許すな!

菅首相日本学術会議の推薦名簿のうち、6名の会員の任命を拒否したことで、「210人の会員で組織する」(日本学術会議法第七条)という規定に満たない違法状態が続いている。菅首相はこの6名の任命を何故拒否するのかという正当な理由すら説明出来ていない。

コロナ禍の「非常事態宣言」という情勢下にはあるものの、そのどさくさに紛れてこの問題をうやむやにすることは許されない。

ところで、この6名の任命拒否リストを作成した陰の人物が内閣官房副長官杉田和博であると言われている。

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杉田は1966年に警察庁に入庁したキャリアであり、1993年神奈川県警本部長を経て94年警察庁警備局長、97年から内閣情報調査室長。2001年1月の中央省庁組織改革により内閣情報調査室長が内閣情報官に格上げされたのを機に初代情報官。同年4月から内閣危機管理監に着任、2004年に退官し、JR東海顧問となり、同時に財団法人世界政経調査会会長に就任。
2012年に官僚に復帰し内閣官房副長官となり事務方のトップとなる。2017年からは内閣人事局長を兼務。

内閣官房副長官は日本のインテリジェンス機構を横断的に統括するポストであり、実体的な権力機構の要である。しかも、その同じ人物が霞が関の官僚の人事権を一手に握っているのである。

このような内閣官房への権力の集中は、戦前の内務省と同じような構造を示していないだろうか。

一)戦後、内務省の解体と内務官僚の残滓

内務省についてWikipediaには次のように記述されている。

日本の敗戦後、内務省は陸海軍の解体・廃止に伴う治安情勢の悪化に対応するために、警察力の増強と、特高警察の拡充を行うつもりでいた。1945年(昭和20年)8月24日、政府は「警察力整備拡充要綱」を閣議決定し、帝国陸軍・海軍と憲兵の解体によって、治安維持の全責任を内務省・警察が担うことを決めた。
1. 警察官数を現在の定員(9万2713人)の2倍にする。
2. 騒擾事件・集団的暴動・天災などに対処するため、集団的機動力をもつ「警備隊」
 (2万人を常設し、必要あるときは4万人を一般警察官によって編成する)を設置す
  る。陸海軍と憲兵なき現在の警察の装備では鎮圧が困難なので、軽機関銃・自動短
  銃・小銃・自動貨車(トラック)・無線機などの武器や器材を整備して、「武装警察
  隊」を設置する。
3.海軍なき後の領海内警備のために、水上警察を強化(1万人)する。

以上3つがその計画であり、警察を軍隊の代わりにすることを意図していた。1945年9月7日内務省陸軍省海軍省と協議し、復員軍人を警察官に吸収する計画を立てた。警備隊・武装察隊・水上警察の上級幹部として、陸軍大学校海軍大学校出身者と優秀な憲兵将校を2,000人採用し警部補には陸軍士官学校海軍兵学校出身者を充てることがその内容であった。

特高警察は大幅な拡充を計画し、「昭和21年度警察予算概算要求書」には、特高警察の拡充・強化のために1900 万円が要求されていた。内容は、①視察内偵の強化(共産主義運動、右翼その他の尖鋭分子、連合国進駐地域における不穏策動の防止)、②労働争議、小作争議の防止・取締り、③朝鮮人関係、④情報機能の整備、⑤港湾警備、⑥列車移動警察、⑦教養訓練(特高講習、特高資料の作成)の計7点である。
政府・内務省は、警察力の武装化特高警察の拡充・強化によって、敗戦による未曽有の社会的悪条件の下にある民心の動揺を未然に防止し、不穏な策動を徹底的に防止することを企図していた。

1945年10月5日、日本政府はこれらの計画に対するGHQの許可を求めたが、GHQによって拒否された。それに先んじてその前日、GHQ特別高等警察や政府による検閲、更に国家神道の廃止を指示、さらに内務省のもとでの中央集権的な警察機構の解体・細分化を求めた。また、警保局や地方局を中心に公職追放の対象を提示した。

このGHQの方針を受けて中堅・若手の内務官僚は省最後の式典に集まり「必ず将来、内務省を復活させます」と、内務省の先輩に誓って解散したという秘話が伝えられている。また、内務省廃止の日に開かれた別れの酒宴で、居残り組(総理庁官房自治課)の中心である鈴木俊一は、内務省の先輩達に対して「私があとに残って、必ず内務省を元通り復活させてみせます」と誓ったとされている。

内務官僚の中堅幹部は一旦は公職追放された者も、52年頃には解除となり公職に復帰した者も多い。
一般に、帝国憲法下の内務省と言えば「特高警察」で悪名高いが、それが全てではない。地方行財政に対する強大な監督権(特に地方財政監督権)を持ち、警察、土木、衛生は勿論のこと、文部・農林・商工・交通、そして国家神道にいたる行政関係のすべてに対し非常に強い権限を行使していた。国家総動員体制が容易に進められたのも、このような中央集権的行政機関による統制力の強さがあったと言っていいだろう。

それ故、GHQは当初こうした中央集権的行政機構を解体しようとしたが、戦争で疲弊した地方を立て直し、早急に民生の安定を図るためには、その道に通じた内務官僚の力を借りざるを得なかった。加えて、戦後革命情勢と朝鮮戦争の勃発によって治安の安定化が求められ、親米反共の日本社会を形成するために内務省・警備警察(特高警察)の力を利用する必要に迫られたという事情もある。

 こうして旧内務官僚たちは内務省復活の思いを秘めながら、後継組織となった現在の総務省警察庁国交省厚労省などに分散し、またある者は地方行政官として、またある者は政府系機関や財界のシンクタンクとして、戦後社会の中に親米反共の保守的価値観を定着させるという戦略的役割を果たしてきたのである。

一方、「国家行政組織法」と同法に基づく各省庁「設置法」は内閣府以外の各省庁の任務・所管業務を細かく定めている。1948年、憲法と並行して作られたこの法律は、必ずしもGHQの主導で作られたという訳ではないが、戦前の中央集権化された内務省型の行政機構を解体し、国家による統制を分散させる結果をもたらした。

近年、自民党政権は「縦割り行政」の弊害や省益重視の官僚機構をことさらに批判し「行政改革」と称して省庁横断型の行政を進めようとしている。
しかし、それは必然的に内務省型の中央集権的な国家統制を志向するものとならざるを得ないということを忘れてはならない。


そうした中で、内閣総理大臣官房調査室として作られた諜報機関は最も旧内務省の性格を強く残した組織だと言えよう。そして省庁の所管業務や利害を超えて政府中枢の政策を左右する諮問機関としてまた権力の実体として影響力を強めることになる。

二)内閣情報調査室の歴史

① GHQの占領と朝鮮戦争の勃発

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内閣情報調査室の歴史は、1950年の朝鮮戦争勃発から1952年のサンフランシスコ平和条約の発効という情勢を背景に、GHQが日本を反共防波堤として再軍備させようとしたことと吉田茂の日本版CIA構想に遡る。
・1950年 朝鮮戦争勃発。GHQが日本の再軍 備計画⇒警察
 予備隊
・1952年 GHQ参謀2部(G2)部長のチャールズ・ウィロ
 ビーのもとに軍事情報部歴史課の特務機関として「河辺機
 関」が作られる。この「河辺機関」にはG2が認めた旧日
 本軍の佐官級幹部が集められ、その多くを保安隊(警察予備隊が改変され、保安庁のもとに作られた自衛隊の前身組織)に入隊させた。

・この時、吉田内閣の軍事顧問であり、且つCIAの協力者(POLESTAR-5)でもあった辰巳栄
 一は、吉田をGHQウィロビーと引き合わせ、警察予f:id:pd4659m:20210122195036j:plain備隊の隊
 員召集にも尽力した。

・また、辰巳は「河辺機関」ともかかわり、その後「河辺機
 関」が「睦隣会」に名称を変え「官房調査室・別班」として
 活動を開始するまでその中心的役割を担った。これが現在の「世界政経調査会」である。

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吉田茂の日本版CIA構想

サンフランシスコ講和条約の発効を目前にし、対共産圏を睨んだ総理府の情報機関設立が計
 画された。それはソ連や中国など「共産圏」の動向はもとより、軍事力を奪われた日本が情
 報を武器として外交交渉を有利に進めるために、世界の情報を収集することが重要であると
 いう考えによるものであった。
 他方、GHQは占領期間中、参謀第2部(G2)のウィロビー部長が中心になって諜報活動を行
 い キャノン機関など工作機関ももっていた。しかし、これらの活動も占領終了とともに形
 式上は終了する。そこで、その代替として、アメリカが大戦中の諜報機関を改編して作った
 中央情報局(CIA)を参考に、日本版CIAを作るという構想が持ち上がった。

・この構想は、吉田にとってはGHQが撤退した後の国内の共産党をはじめとした左翼勢力の情
 報を収集・監視する総合情報収集機関を設置したいという考えとも合致していた。

・また、当時官房長官だった緒方竹虎朝日新聞副社長)は日本版CIAとして世界水準の情
 報機関へと拡大する構想を描いていた。彼自身もCIAと緊密な関係を持っており、CIAもこ
 の構想のための財政支援もしていた。

・吉田は、この構想を緒方竹虎内閣官房長官に委ね、この調査機関を土台として、組織の拡張
 または別組織の立ち上げを行うことで日本のインテリジェンス機能を強化しようと考えた。
 当時は、戦前に大陸にばらまいてあった諜報網がまだ生き残っていた。いうまでもなく、ア
 メリカが一番知りたいのはソ連中国共産党の情報だった。占領期間中は辰巳を始め旧軍関
 係者がウィロビーたちに協力し、情報を供与していた。この中国情報と交換でアメリカCIA
 から情報提供を受けるというところまで話は進んでいた。
 ところが、敗戦前からの遺産は、時間とともに色あせ、戦後のアメリカが必要としている情
 報としては新鮮味のないものとなっていた。もう一つ決定的なことに、CIA は秘密保護法を
 もたない日本は、情報漏洩の危険性が高く情報をバーターできないと考えていた。他方、外
 務省は内調が対外情報の分野に入り込んでくることに強い警戒感を持っていた。

・緒方は内調を「世界中の情報を全てキャッチできるセンターにする」という構想を持って
 いたがこれに対して読売新聞をはじめとする全国紙が「内調の新設は戦前(世論形成のプロ
 パガンダ
思想取り締まりを行い)マスコミを統制した情報局の復活だ」として反対運動を
 展開した。
これにより一気に世論の批判が噴出する。そしてこの構想は国会で潰される事に
 なる。

③内閣情報室の設置

・結局、「弱いウサギは、長くて大きな耳を持つ」という日本版CIA構想は頓挫する。吉田は
 国家地方警察本部、外務省、法務府特別審査局にそれぞれ情報機関設置のための案を作らせ
 国警の村井順が「内閣情報室設置運用要綱」を、外務省が「内閣情報局設置計画書」を、法
 務府特別審査局が「破壊活動の実態を国民に周知させる方法等について」をそれぞれ提出し
 た。こうして採用された村井案に基づいて内閣総理大臣官房調査室(のちの内閣調査室)が
 政令によって作られ、キャノン機関の推薦もあって、初代室長には警察官僚の村井順が就任
 した。

※ キャノン機関はG 2直属の情報機関であり、多数の日本人工作員を組織し、河辺機関の他にも柿の木坂機関、矢板機関、日高機関、伊藤機関等の工作員組織を傘下においていた。当時すでにアメリカとソ連との対立が顕在化し、また朝鮮半島での緊張も高まるなかで、主に朝鮮半島情報の収集やソ連スパイの摘発とともに、日本国内の共産主義勢力を弱体化させることを任務としていた。
当時、レッドパージ公職追放が進められる中で、共産党員やその同調勢力に対する弾圧の実践部隊

・国家警察本部の警備課長であった村井は、G2(参謀第二部、検閲や諜報)、CIC(対敵諜
 報部隊)CID(犯罪捜査局)への報告や連絡を忠実に実行したことがキャノンに評価された
 のだろう。

しかし、初代室長となった村井順は、海外出張時に外務省が仕組んだとみられるトラブルに巻き込まれ失脚する。この後、調査室が大規模な「中央情報機関」となる事はなかった。当時の世論がそれを許さなかったからである。

マスコミや世論の大きな批判と警戒の中で発足した内調は、幾度かの改変を経ながら今日に引き継がれてきた。そして現在においては、外事・公安警察公安調査庁防衛省情報本部等のインテリジェンス機構との連携を深めつつ、国家の意思決定において極めて大きな影響力を持つに至っている。
その一方で、独自の対外的情報網という点では他の先進諸国に比べて充実しているとは言えない。日本が独自の軍事戦略を持てないのはそれも大きく作用しているとは言えないだろうか。

④親米反共の国内体制―治安政策のための諜報組織

設立当初は、村井以下わずか4人(村井順、三枝三郎、岡正義、志垣民郎)ではじまった官房調査室f:id:pd4659m:20210122221431j:plain〔『内閣調査室秘録』〕の活動は、初めから国内治安を意識した反共工作、左翼的政党や戦後民主主義の推進者に転じた知識人・言論人を籠絡し、牙を抜き去ることだった。その背景には左の表に列挙したような「平和と民主主義」を求める民衆の闘いがあり、日米支配層はこれが共産主義思想と結びついて戦後革命に発展することを何よりも恐れていたのである。そして、今日に至っても内調の役割が思想統制と人民の監視にあることは全く変わっていない。むしろ、ますます旧内務省時代の特高的な動きを加速させていると見ていいだろう。

 


 三)内閣情報調査室の変遷

 このように、対外的な諜報機関としては制約された、しかし国内的には徹底した治安の観点からのインテリジェンス機構として出発したのが内閣官房調査室である。そして、これは何度かの組織改編を経て今日に至っているが、その基礎を作っているのは旧内務省特別高等警察特高であり、旧日本軍の諜報部隊出身者である。さらに、その形成過程が①に見たように、中国革命―朝鮮戦争に続く戦後革命への人民の闘いのうねり、とりわけ国労や教育労働者の闘いを軸とした労働運動の高揚に対する予防反革命としての役割を担っていた。同時に反共防波堤としての日本帝国主義がその城内平和を維持するための思想監視とプロパガンダのための組織として成長してきたのである。

そして、内閣情報調査室は今日、各省庁の情報機関、警察、公安調査庁自衛隊、さらに民間の情報組織、報道機関等、あらゆる組織の中に根を張り、それは戦前の情報局を凌ぐ組織となっていることを見逃すわけにはいかない。この組織は「平和」な時にはもっぱら世論を誘導し保守的価値観を拡散するプロパガンダを、階級対立が深まり政権が危機に陥ったときは、政権に批判的な(あるいは反米的な!)市民、及び行政職員・官僚たちの動向を監視し、これを籠絡し、潰しにかかる「特高警察」の顔として立ち現われるのである。
また、これは自民党政権下は言うに及ばず、政権の交代が行われようと変わることなく一貫して継承されてきたのである。

<冷戦時代の内調>

1952年4月 内閣総理大臣官房調査室(第三次吉田内閣)
 初代室長 村井 順(吉田総理秘書官、国家地方警察本部警備第一課長)⇒ 1953 年12
 月に更迭

1955年 国際部に「軍事班」が設けられ、元海軍中佐の久住忠男らを中心としてベトナム戦争の推移や沖縄に駐留するアメリカ軍の動向などを観察。

1957年8月1日 内閣法(法律)の一部改正、内閣総理大臣官房調査室が廃止され、内閣官房の組織として内閣調査室を設置。

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60年安保をきっかけに内調は論壇の流れをフォローするようになり、安全保障論の育成のために中村菊男、高坂正堯若泉敬、小谷秀二郎ら現実主義的な論客の結集を助け、論議を普及するなどした。現在でも内調は勉強会を数多く行っており、学識経験者や企業を招いて情勢分析を聞くなどしている。

1977年(昭和52年)1月1日には内閣調査室組織規則の施行により、内部体制が総務部門、国内部門、国際部門、経済部門、資料部門の5部門となる。 

1986年7月1日に内閣官房組織令の一部改正により、「内閣調査室」から現在の「内閣情報調査室」となる(5部門体制は継承)

<冷戦後の内調>

 1995年 阪神・淡路大震災が発生。この際、政府の立ち上がりが遅れた教訓から1996年5月11日に内閣情報調査室組織規則の一部改正し、内閣情報集約センターを新設。大災害の際には官邸が自衛隊機を飛ばすなど、積極的な情報収集を行い、また民間との協力体制の確立、マスコミへの情報発信等の情報収集・危機管理体制の改革が行われた。

1998年10月 情報関係機関の連絡調整を図り、国内外の重要政策に関する情報の総合的把握を目的として「内閣情報会議」が閣内に設けられた。これは、内閣官房長官が主宰する次官級の会議で年2回ほど開催される。そして、その下に設置されたのが「合同情報会議」である。内閣官房副長官が主宰する隔週の会議。省庁横断的な情報関係機関の実務者による会議である。事実上、戦前のような「情報局」が法的根拠を持たないまま作られているということである。

そして、この庶務を行なっているのが内閣情報調査室である。 

【資料】

■ 内閣情報調査室

内閣官房組織令第4条によって設置された内閣官房に属する組織。内閣情報調査室194名と内閣衛星情報センター221名からなり、総勢415名である。

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内調の下部組織の内閣衛星情報センターは、情報収集衛星や外国の商用衛星の画像を用いてイミント(画像諜報)を行っている。また、アメリカ合衆国中央情報局(CIA)・イギリス秘密情報部(SIS)などの外国政府情報機関との間では対等な関係を築いている。

さらに内閣情報調査室内閣官房副長官が主宰する合同情報会議(隔週)、内閣官房長官が主宰する内閣情報会議(年2回)の庶務を担っている。

 ■民間情報組織

内閣官房予算から情報委託費が支出されている民間の情報調査、プロパガンダを担っている組織は非常に多い。その中でも主要な組織としては以下の団体がある。

【財団法人 世界政経調査会】

連合国軍最高司令官総司令部GHQ)参謀第2部(G2)所属の対敵諜報部隊(CIC)の下請け機関として設立された、旧軍人による情報収集グループである特務機関「河辺機関」がその後、「睦隣会」に名称変更され、それを母体として、内閣調査室のシンクタンクとして設立された。 

 所在地:東京都港区赤坂2-10-8
 会長 2005年7月~ 杉田和博 (現内閣官房副長官)                       
    2013年2月~現在 植松信一(三井住友銀行顧問)

 <設立時の主要メンバー>
●河辺虎四郎(陸軍中将、陸士24期、参謀次長)
●下村  定(陸軍大将、陸士20期、陸軍大臣
●有末 精三(陸軍中将、陸士29期、参謀本部第2部長、対連合軍陸軍連絡委員長)
●辰巳 栄一(陸軍中将、陸士27期、第12方面軍参謀長、第3師団長)
●芳仲和太郎(陸軍中将、陸士27期、フランス大使館駐在員、トルコ大使館付武官、ハンガ
 リー大使館付武官、西部軍管区参謀長兼第第16方面軍参謀長、第86師団長)
●山本茂一郎(陸軍少将、陸士31期、第16軍参謀長兼ジャワ軍政監)
●西郷 従吾(陸軍大佐、陸士36期、オーストリア大使館付武官、大本営ドイツ班参謀、
 南方軍参謀緬甸方面軍参謀、第23軍参謀、第20軍高級参謀)
●萩  三郎(陸軍中将、陸士29期、北部軍管区参謀長兼第5方面軍参謀長、札幌復員局長)
●真田穣一郎(陸軍少将、陸士31期、大本営作戦部長、陸軍省軍務局長)
●佐々木勘之丞(陸軍少将、陸士28期、陸軍中野学校学生隊長)
●石戸 勇一(陸軍大佐、陸士30期、太原特務機関長)
●甲谷 悦雄(陸軍大佐、陸士35期、参謀本部ソ連課参謀、ソ連大使館付武官輔、大本営戦争
 指導課長、ドイツ大使館付武官輔佐官、公安調査庁参事官、KDK研究所長)

【国際情勢研究所】

一般財団法人世界政経調査会の研究部門。内外情勢の分析、判断やそのための調査・研究。研究会等を開催。2億円程度の収入の90%以上が内閣官房から情報調査委託費。

役員には元警察官僚が名を連ねている

所在地 東京都港区西新橋3-24-9 飯田ビル7階
会長 折田 正樹(東大政治学科 外務省入省 宇野、海部内閣の大臣秘書官を経て外交官)

【一般社団法人 内外情勢調査会

株式会社時事通信社の関連団体(会長は時事通信社社長)

国内外の情報の収集・調査・分析を行い、それに基づいた啓蒙をするのが主要な目的である。世論形成のプロパガンダ機関。
政財界・官庁などの首脳、自治体首長、海外の駐日大使等の著名な専門家による講演会を開催し「国民の知識向上と理解増進」を諮るということになっている。
理事には、内閣情報調査室への出向経験がある元警察官僚、元外務官僚、元大蔵官僚が名を連ねている。

 

付録)
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「戦後日本の国家保守主義――内務・自治官僚の軌跡」(中野晃一)

この本へのレビュアーを一部転載する。

中曽根康弘正力松太郎/小林與三次(よそじ)等、特高/内務省関係者が戦後どこに異動したかを淡々と追うことで、前近代的な日本の超国家主義がどう現代に繋がっているか、そして中曽根康弘からの新自由主義がどう超国家主義を自壊させ、形骸だけの道徳/暴力国家が誕生したのか、を浮かび上がらせようという意欲作。
・小林與三次は、メディアの官報化を目指す「日本広報協
 会」会長や読売新聞/日本TV社長へ
鈴木俊一は、考えない社会を目指す「日本善行会」会長
 へ
・林 忠雄は、国畜化を推進する「地方自治情報センター
 理事長へ

・石原信雄は、ブラック労働を推進する「パソナアドバイザリー・ボード代表へ
・柴田 護/花岡 圭三/小林 実は、自治の名の元に不透明な機関を支援する「日本宝くじ協会」理事長へ
・警視庁警備局長/内閣情報調査室長/内閣情報官/内閣危機管理監を歴任した公安畑出身の杉田和博は、1994年に東電
 顧問に天下りした後、2012年末第二次安倍内閣官房副長官

中曽根康弘以降の新自由主義推進は「国家に過度な負担をかけることなく前近代的な規範の下に国民を統合する」
 国家保守主義と親和性があったが、官僚が国家の権威を傘に着て自らの権益を確保することで国家保守主義の空洞
 化を招き、第二次安倍内閣の「心のノート」等の洗脳教育である「道徳」や、杉田和博のような公安官僚登用や軍
 事費増額、そして近代憲法の廃止のような暴力による保守的国民統合が図られるようになった。

中曽根臨調や小泉靖国参拝など、国家保守主義が自滅して暴走してきた様子を、多くの人が知ることは大事なことかと思います。地味な本ですが、大事な視点でした。(Utah)


戦前の日本では、内務省は内政・民政の中心となる行政機関であり、「国家の中の国家」と呼ばれるほど権勢を振るった。
戦後、1947年に内務省は廃止されたが、自治庁(現在の総務省)、警察庁国土交通省、および厚生労働省へと人脈は引き継がれていく。本書は、旧内務省自治省等の幹部クラスの人事(本省から天下り先まで)を丹念にデータベース化し、
それを分析したものである。この分析により、戦前も戦後も変わらない「官僚主権国家」の骨格を、レントゲン写真のように見事にあぶりだした労作である。
本書は、「国家の権威のもとに保守的な価値秩序へと国民の統合を図る政治思想とその制度的な基盤」を「国家保守主義」と名付けている(「おわりに」より)。この保守思想は、1970年代末から時代の変化に合わせて、新自由主義的転換(つまり弱肉強食の推奨)を図り、現在に至っている。かつての保守主義は、「国民統合」の欺瞞を続けるために、復古的歴史認識、復古的道徳教育、軍国主義など、空疎極まりない、理念なき「保守主義」と化した。この事実は、近隣諸国ばかりか、欧米諸国からも見透かされていることは、最近の報道から明らかであろう。

税金による雇われ人に過ぎない官僚が権力を振るうには、「虎の威」を借りることが不可欠である。官僚にとっての「虎の威」は、戦前は天皇であり、戦後は対米従属である。官僚から見れば、国民は「愚民」であり、政治家などは、「官僚の掌で踊るしかない無知な木偶の坊」でしかない。本書で分析されたように、旧内務省人脈だけに限っても、得体のしれない多数の天下り団体を設立し、その幹部に天下るのが、常態化されている。「官僚主権国家」は、官僚が国民にたかり続ける「シロアリ国家」そのものである。

本書の分析を参考にすれば、日頃は無知な政治家の陰に隠れている「官僚主権国家」が、その本性を剥き出しにするのは、その利権が脅かされた時であることが分かる。特別会計の闇を暴いたことが無関係とは考えられない、石井紘基議員の刺殺事件(2002年)、西松建設の違法献金事件で「自民党に捜査が及ばない」と発言した漆間巌内閣官房副長官警察庁出身)(2009年)などはその片鱗である。最近では、警察庁出身の内閣官房副長官が中心となってまとめた秘密保護法がある。この法律こそ、「官僚主権国家」が、官僚の掌で踊る政治家達を抱き込んで成立させた稀代の悪法である。本書は、「国家保守主義」がなりふり構わず秘密保護法に突き進んでいった背景を深く理解させてくれる。(つくしん坊)

防衛予算、膨れ上がる後年度負担の陰で急速に進む自衛隊の外征軍隊化

海外での実戦訓練に重心を移した「30防衛大綱」「31中期防」

 昨年12月、安倍政権は新しい「防衛大綱」と「中期防」を閣議決定した。

 日本の自衛隊は、これまでも中東侵略戦争を想定した日米合同訓練を重ね、国際貢献を名目に参戦し、今やジブチ自衛隊の軍事基地を構えるまでに既成事実を積み上げてきた。
その上で、新防衛大綱の決定は、安倍政権による集団的自衛権行使容認の閣議決定(14年7月)を転機にして、従来の専守防衛路線から日本の安保防衛政策を大きく転換させたことを国際的にも国内的にも明確にさせたものである。
それは以下に示す流れをみれば明らかであろう。

 安倍政権は2014年4月1日に、武器輸出三原則を破棄し、これに代わる新たな政府方針として『防衛装備移転三原則』を閣議決定、同年7月には集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。歴代政権が堅持し続けてきた防衛指針に関わる原則をいとも簡単に一片の閣議決定によって捨て去ったのである。

 以降、2015年9月17日―安全保障関連法(自衛隊法の改定も含まれている)の強行採決、同年11月3日―日米防衛協力指針(ガイドライン)の改定、これを受けて2016年11月には南スーダンに派兵される自衛隊に「駆け付け警護」(改正PKO協力法3条5号)「宿営地の共同防護」(改正PKO協力法25条の7)を命令。さらに2017年4月には米艦防護のための自衛隊派遣(改正自衛隊法95条の2 )を発令した。これらの内容は、あまり報道もされないまま常態化しており、米艦防護は2018年だけでも18件に上っている。
 また、2018年9月には、改正PKO協力法3条2号に基づいてシナイ半島への自衛隊派兵の検討が始められている。これは「国際連携平和安全活動」(略せば「国連平和安全活動」となるが内容は全く違う)と呼ばれるもの。従来のPKOが国連の要請という形をとっていたのに対して、これは多国籍軍としての参戦に道を開くものである。事実、こうした実践訓練は陸自に創設された「水陸機動団」=日本版海兵隊をも伴って頻繁に行われるようになっている。

 沖縄の辺野古基地建設が安倍政権の積極的意思で進められている背景には、将来この「陸上自衛隊水陸機動団」(日本版海兵隊)の共同訓練基地として活用しようという目論みがあるからに他ならない。
 その他の動きとしていくつか挙げておくと
●2018年9月27日 核搭載可能な米空軍B52と空自戦闘機が共同訓練。東シナ海で空自那覇基地のF15
 と編隊飛行訓練。九州沖で築城基地のF2と訓練
●2018年9月8日~10月23日 米比合同訓練「カマンダク」で「水陸機動団」(日本版海兵隊)が上
 陸訓練。海外の海岸での上陸訓練は戦後初めて
●2018年10月5日~19日 「水陸機動団」が米海兵隊種子島で共同訓練。自衛隊の演習所以外の日
 米合同訓練は日本初。

 こうして安倍政権は、日米同盟の強化=米軍の指揮の下でその一翼を担うという形をとりつつ日米共同作戦態勢の強化を推し進めるとともに、防衛省自衛隊における軍令系統の権限を強化し、自衛隊の外征軍隊化=侵略のための軍隊化へと部隊編成、攻撃型兵器体系の配備、海外基地の確保、激動するアジア全域での海自の共同訓練活動(さらには中東における陸自の共同訓練)という憲法9条を大きく突き破る既成事実を積み上げ、その延長上で本格的な明文改憲を成し遂げようとしているのだ。

 これらの一連の動向は、単に安倍政権の意思としてではなく、日本の支配階級(政府・財界)がこれまでの専守防衛に特化するという立場を転換し、戦後憲法という制約を取り払い、海外の戦場・紛争地域に積極的に自衛隊を派兵して「人道支援」「復興支援」を口実としつつ自国の利権を守るために軍事力を行使する方向に大きく踏み出そうする欲求の現れである。

 では、このような衝動を強めている背景はどこにあるのか。
それは、日本経済の動向、その構造的変化の中にヒントが隠されている。

日本の経常収支の推移を見ると、2000年代前半まで続いてきた黒字は、リーマンショックが発生した2008年には大きく縮小した。それまで経常黒字の大きな要因であった貿易収支の黒字が大きく減少したためである。

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この貿易収支は、東日本大震災が発生した2011年には、原子力発電所の停止などに伴う原油などの輸入の急増と価格の上昇等により貿易収支は赤字に転化し、それ以降2014年まで4年連続の赤字が続いた。 2015年には原油価格の下落により辛うじて黒字に転じたものの、勢いは弱く小幅のまま推移している。

 このような貿易収支に代わって、経常収支の黒字を支えているのは、第一次所得収支の大幅な黒字によるものである。

第一次所得収支の黒字は2000年頃までおおむね横ばいで推移していたが、それ以降、リーマンショック後の縮小を除けば緩やかな増加傾向で推移した。
 ところで、この第一次所得収支のうち、特に規模が大きいのは投資収益で、これは直接投資収益と証券投資収益および、その他投資収益に分けられる。

そして、特に近年は輸送用機械器具製造業などの製造業を中心とした日本企業の海外進出拡大を背景に直接投資収益が増加しており、第一次所得収支の約3割占めるまでになっている。

他方、日本の経済は、GDPが520兆円弱(しかし大企業の内部留保は440兆円)、国と自治体の借金が既に1100兆円を突破し、国家財政は国債比率が30~40%を占めるまでになっており、すでにプライマリーバランスは破綻している。
 財政再建をこれ以上先延ばしすることは日本経済の危機を促進することに他ならない。
 このように国内経済の収縮に加え、経常収支の黒字縮小化傾向が常態化している中で、逆に直接投資収益のウェイトが一層高まっているのである。

つまり、この直接投資収益を維持し拡大するためには、日本の海外企業の安定的な展開、利権の確保を政府として担保する事が強く求められているのである。これが専守防衛からの転換を促す大きな要因である。

 自衛隊が侵略の為の軍隊へと変貌するとき、その任務・装備・指揮系統・部隊運用面などにおいても、従来のそれらとは次元の異なる実戦能力の高度化と作戦遂行部隊の拡充が求められる。そして何よりも、自衛隊員そのものと、その「供給源」=募兵の条件となる労働者人民の精神的な動員=意識「改革」、すなわち愛国心と国家への忠誠心を高めるために、あらゆる機会をとらえて民衆を扇動するとともに、教育行政への介入が強められていく。
 戦前と同じように「ヒト、モノ、カネ」の全てが「軍事力」として収れんされる行政の在り方へとシフトされざるを得ない。それは、やがて全人民を国家総動員体制へと駆り立てるものにならざるを得ないだろう。

19年度防衛費 ー 高価な攻撃型兵器の購入で膨れ上がる後年度負担

2019年度予算案は3月2日未明の衆院本会議で、与党などの賛成多数で可決され、19年度防衛予算も成立した。その総額は5,2574兆円であり、5年連続で過去最高を更新した。

 防衛予算は防衛大綱で確定する基本戦略(といってもそれは激動する国際情勢の動向を多方面から分析したうえでの積極的な軍事戦略とはいえず、極めて恣意的でなし崩し的な性格をもつものではあるが…)の下で作成された中期防に基づいて編成されている。

*防衛大綱(防衛計画の大綱)は1976年三木内閣が策定した「76大綱」が始まりで、当初10年を見据えた安全保障政策の基本方針だった。
この時点では「仮想敵」は想定されておらず、「所与防衛力構想」は「基盤的防衛力構想」であった。
 しかし、安倍政権になって4回目(「25大綱」=2013年)の改定からは5年毎の見直しに変更され、ここから中国と北朝鮮を名指しで警戒対象に据えたのである。そして、2018年の「30大綱」では海外派兵を見越して、より現実的な戦闘を想定した「戦傷対処能力の向上を含む教育・研究を充実強化する」という方針が新たに付け加えられた。
*中期防(中期防衛力整備計画)は防衛大綱に基づいて整備される最初の5年間
 の装備計画

 

安倍政権になってからの防衛予算の特徴は高価な攻撃型の兵器・装備項目が増加し、右肩上がりで増額し続けていることである。

 ところで、この予算の内訳を見ると、購入装備品(各種兵器・装備品など)の返済額(後年度負担として計上されている)が予算全体の4割を占め、これに人件費・糧食費・隊内生活関連費などを加えた固定経費では予算全体の8割を占める。
新規装備品の購入、諸施設の維持・建設・運用・整備、各種兵器の修理・交換、隊員の訓練・教育などの関連予算(いわゆる自由枠予算)は残りの2割である。

 f:id:pd4659m:20190504153200j:plain つまり、予算そのものは非常に硬直化していて自由度がない。
 防衛予算の4割を占める後年度負担のせいで、自由枠予算が圧縮されており、自衛隊それ自体の維持と独自的な機動戦力強化のために必要な関連予算は6割にも満たないという構成になっているのだ。
 特に、安倍政権は米国政府の「対外有償軍事援助(FMS)」に基づく、高額兵器の購入を増加させてきた。購入元は、実質的にはロッキード・マーチンレイセオン、ダグラス・ボーイングなどの軍産複合体が中心である。
19年度は最新鋭戦闘機F35A(6機・916億円)、早期警戒機E2D(2機・544億円)、地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」(二基・2,352億円)などの購入契約を結ぶものとされている。

 このFMSの契約額は12年度予算(民主党の野田政権時)では1,381億円だったが、19年度予算では、12年度の5倍の7,013億円に膨らんでおり、これが後年度負担を大きく押し上げているのである。

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 防衛省にとって、兵器・装備品の購入元(発注先)は大きくいって自国の軍需企業と米軍需企業の2つである。 戦車・艦船・戦闘機・銃火器・弾丸類・情報通信装置・軍用諸施設や、兵器類の部品などのほとんどは自国の軍需企業(三菱重工IHI川崎重工三菱電機東芝富士通…)が購入元であるが、最先端・高性能の兵器・装備品とその配備・運用にいたるまでは、基本的に米軍需企業が購入元である。

 自衛隊の兵器体系は歴史的にアメリカ軍の「ミニチュア版、模倣」であり、国内の軍需企業がそれらを生産する場合は、米国の軍需企業が占有する各種軍事技術に関する特許権に基づくライセンス生産になることが多い(海自のイージス艦、空自の主力戦闘機ですらそうなのだ)。

 したがってFMS契約に基づく兵器・装備品の購入は、防衛省にとってみれば日本では生産できない高性能な兵器・装備品を調達できるという利点がある一方、それらの価格、納入時期などは米国防総省の都合で勝手に変更される(一般に契約時より高額になるし、納入時期も守られないことが多い)という不利な点がある。また、いずれもアメリカの軍産複合体が占有する特許権と軍事機密で「保護」されており、日本はその運用やメンテナンス、部品調達に関しても米軍当局の直接的管理下に置かれることになる。

 このためFMS契約では、購入した兵器・装備品に随伴してくるアメリカ軍関係技術者の人件費、コンサルタント費、滞在費、渡航費など全てをアメリカ側から要求されるままに日本政府が負担しなければならないのである。そして、こうした巨額の経費の全ては後年度負担として防衛予算に計上されるのである。

 2019年度の防衛予算案は18年度当初比1.3%増の5兆2574億円となり、5年連続で過去最高を更新した。新防衛大綱の目玉となった、海上自衛隊最大の「いずも」型護衛艦2隻を事実上の航空母艦に改修するのに必要な調査費として、7000万円が計上された。
 改修対象の護衛艦は「いずも」と「かが」の2隻。防衛省によると、短距離離陸・垂直着陸能力を持つ米最新鋭ステルス戦闘機F35Bの着艦時に発生する高熱に対応する甲板塗料の耐熱性試験や、発着時の騒音が艦内の居住空間に与える影響について調査を行うという。

同じく大綱に明記された陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」は1基1,237億円と見積もった。防衛省は7月に1基約1,340億円との見通しを公表しており批判が高まっていた。そのため巡航ミサイルの迎撃機能追加を見送り減額した。
 また搭載するシステムとレーダーは米ロッキード・マーチン社から直接購入するため、今回の売却額には含まれていない。これらの経費は20年度以降に先送りされた。
 19年度当初予算に計上されているのは、レーダーシステムを除いた1基当たりの1,237億円、それに取得関連経費を加えた総額1,757億円(契約ベース)ということである。

 

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 米政府からの有償軍事援助(FMS)による調達経費の総額は7、013億円。イージス・アショアのほか、F35A6機(681億円)や早期警戒機E2D9機(1,940億円)などが含まれる。19年度の新規契約に伴う装備品の後年度負担は、今年度より2割増の2兆5781億円が見込まれている。

 防衛装備品の支払いを次年度以降に繰り越して積み上がったローンの残高が、2019年度は前年から4000億円増え、5兆円を超す見通しで、借金の返済額だけで年間の防衛費約5兆3000億円の4割を占めることになる。

このようにFMSによる調達費が増え続け、それが後年度負担となって財政全体に重くのしかかっているのが今日の姿である。

 まさに兵器のローンは順次軍需企業に返済していくのであるが、それが高額になってくると防衛予算の硬直化が進み(社会通念でいえば借金で首がまわらなくなり)、自衛隊の日常的な維持・訓練・諸作戦活動、装備品や機材の修理やメンテナンスなどに必要な「自由枠予算」を圧迫して、自衛隊の通常のルーチン活動にも支障をきたすようになる。

安倍政権は、自衛隊の攻撃型軍隊化を急ぐあまり、自衛隊員が活動する環境や人命には目もくれようとない。ここに「自衛隊員が気の毒」とか言いながら、9条改憲を主張する本質が現れている。

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安倍政権は膨張し続ける後年度負担を誤魔化すために、本予算で不足する後年度負担分を補正予算につけ回すということをやっている。本来、補正予算は災害発生時や緊急事態発生時などに編成され、防衛省関連ではこれまで災害出動などの補填として行われたに過ぎなかった。安倍政権は兵器ローンの返済を補正予算に組み込むという暴挙を行っているのである。18年度予算ではP1哨戒機、C2輸送機などの後年度負担分総額3935億円が組み込まれた。そのため19年度防衛予算では、防衛省に課せられる後年度負担は実質的には5.7兆円超ということになる。この補正予算への兵器ローンのつけ回しというカラクリ的手法一防衛省による補正予算の第2の財源化-は、表向きは防衛予算の増加率を少なく見せるという形で、今後も踏襲、増加していくであろう。

 それとは別に、19年度防衛費では在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)も1,987億円と、前年度より10億円増えている。

積極的に「米軍事力の一部」として自衛隊の外征軍隊化を狙う安倍政権

安倍政権がFMSに基づく米軍産複合体からの高額・高性能な兵器・装備品を積極的に購入し続けることが示すものは何か。

それは共通の装備、共通のシステムを整えることによって日米共同作戦態勢における米軍の指揮権の維持・強化、さらに一歩進んで日米合同指揮所体制の強化、そこでの積極的コミットを狙っているということである。

もとより、今の自衛隊の装備(「いずも」型一隻にF35Bを10機ぐらい搭載しても、空中給油機や早期警戒機、早期警戒管制機、大型輸送機などが整っていなければ制空権も、継戦能力も十分とは言えない)は独力で海外展開=侵略戦争を行えるようには至っていない。
 あくまでも「米軍の一部」として参戦し、そこでの部隊運用や指揮の実践を通して侵略軍隊へと飛躍しようとしているということだ。

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無人警戒機グローバルホーク(GH)3機一総額629億円で、20年間の維持整備費は2449億円。このGHの導入に関しては、当初、防衛省整備計画局は「実質的に導入中止」を確認・決定していたのであるが、首相官邸国家安全保障会議が「日米同盟」関係の維持・強化という観点から防衛省整備計画局の確認・決定を反故にして導入することを決定したのであった。
 ※ なお、このGHは、既に1機を導入していたドイツは運用コストが高いという理由で12年度の時点で追加導入を断念したという代物である。

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●戦闘機に搭載可能な長距離巡航ミサイル(射程900km)、高速滑空弾、極超音速ミサイル(音速の5倍)の3種類を購入・配備。

 ※ 米国防省はこれらミサイルの販売を許容していなかったのであるが、しかし日本政府が集団的自衛権の行使容認を閣議決定したことを見て、更には水陸機動団(日本版海兵隊)の創設とその陸自西部方面隊への配備、「いずも」の攻撃型空母への改造計画という防衛省の一連の動きを見て、これを容認したといわれている。

 こうしたことを見ても、米帝国主義は、目下の同盟国である日本が専守防衛の立場を転換させ、海外の「敵国」(具体的には中国と北朝鮮なのであろう)に対して共同作戦行動を担い得るパートナーとして認定したものと考えられる。
まさに「同盟国やパートナー国に対しては、防衛のコミットメントを維持し、戦力の前方展開を継続するとともに、責任分担の増加を求めている」(「30大綱」)というアメリカの要請に積極的に応えたものが「30大綱」「31中期防」だと考えてよいだろう。

レーニン『なにをなすべきか?』学習ノート(第四回)

【四】経済主義者の手工業性と革命家の組織

第四章は、ロシア社会民主労働党の党組織はどうあるべきかについて述べている。

「およそ、どのような団体でも、その組織の性格は、この団体の活動の内容によっておのずから、また不可避的に決まるものである」

経済主義者たちの主張は政治活動の狭さのみならず、組織活動の狭さにも表れる。レーニンは経済主義と組織活動における「手工業性」の不可分の結びつきを明らかにすることによって、全国的に統合された民主集中的な党組織の建設を呼びかけている。

 

冒頭で革命家の組織の性格について二つの規定が与えられている。

①「政治的反対や抗議や憤激のありとあらゆるあらわれを結びつけて、一つの総反攻にする全国的で中央集権的な組織」

②「職業革命家からなりたち、全人民の真の政治的指導者たちに率いられる組織」

前者は政治的な任務との関係を、後者はその組織の内部的な性格、構成を示すものといえる。そして、『ラボーチェエ・デーロ』は「雇い主と政府とにたいする経済闘争」のためには、こうした組織などは全然必要ないと述べている、という形で経済主義者を批判している。

1)手工業性とはなにか?

 レーニンはここで、1890年代ロシアの革命的インテリゲンチャが、労働者と連絡をつけサークルを組織していった時代を描写している。青年達は全く無防備な形で、しかし精力的献身的に労働者大衆の中に入り込み組織化を展開した。彼らは労働者や社会の教養ある人々と一定の結びつきをつくり出し、宣伝や扇動に移り、他のサークルや革命家グループと連絡をとりあい、リーフレットや地方新聞を発行し、デモンストレーションに打って出ようとする。すると、たちまち「根こそぎの一斉検挙」がやってきて組織と指導者を奪われてしまうのである。  こうしたサークル的闘いは「根棒で武装した百姓の群れが近代軍隊に立ち向って出征するのにたとえないわけにはいかない。しかも驚嘆するほかないのは、戦闘員が…まったく訓練を欠いていたにもかかわらず、運動がひろがり、成長し、勝利を獲得していった、その生活力である」(P151)。これは、歴史的には避けられないことで、はじめのうちは正当でさえあるが「近代軍隊をうち倒すには、それなりの強固な革命組織の建設に着手しなくてはならない」。 

2)手工業性と経済主義

「手工業性」は、革命運動の成長につきまとう、早期に克服されるべき「病気」であった。ところが、経済主義者はその克服に反対し、これを理論的にも正当化しようとしたのである。

レーニンが述べている「手工業性」とは以下の4点にまとめることができる。

①訓練の不足

②全体としての革命的活動の範囲が狭隘であること

③そして、こうした狭隘な活動によっては、すぐれた革命家の組織などつくれるはずもないということを理解できないこと

④この狭隘さを正当化して、特別の理論にまつりあげようとしていること――この点でも自然発生性のまえに拝跪している。

→(当時のロシアにおける)危機の根本原因は大衆の自然発生的高揚にたいする指導者の立ちおくれである。しかし経済主義者は大衆運動の高揚をもって、指導者が革命的積極性を発揮する必要性を免除されたかのように勘違いしてしまうのである。彼らには労働者大衆の政治意識を高めることも、全面的政治暴露の意義も何一つ理解できないだけでなく、その必要性すら感じられないのである。

→こうした「手工業性」の克服のためには、計画性と統一性のある、理論的にも政治的にも組織的にも訓練された「確固さと継承性を保障できるような革命家の組織」が必要であり、それは政治警察との闘争を抜きには語ることができない。そのためには訓練された職業革命家の組織がどうしても必要になるのであるが、これに反対し、拒絶し、それを正当化するために特別の「理論」まで作り上げてしまうところに「経済主義」の特徴と結びつきが生まれるのである。

3)労働者の組織と革命家の組織

社会民主党の政治闘争は、経済闘争よりずっと広範で複雑である。したがって、これに対応する社会民主党の組織もまた、経済闘争のための労働者の組織とは別のものである。党は労働者階級の利益を代表はするが、理論においても、活動範囲においても、また組織それ自体においても独自性をもっている

②この、労働組合的組織と政治的組織のちがいは、もともと政治的自由の国においては、自明であり、明瞭なことである。

→「ところが、ロシアでは、一見したところ専制の圧制が社会民主主義的組織と労働者団体のあいだのあらゆる差異を消しさっているかのようである。なぜなら、あらゆる労働者団体、サークルは禁止されて」いたからだ。(P167)

経済闘争そのものが政治的性格をおび、社会民主党内の経済主義者が「政治闘争という概念を『雇い主と政府に対する経済闘争』という概念と一致するものと考え」ていたため、「彼が『革命家の組織』という概念を多かれ少なかれ『労働者の組織』という概念と一致するものと考え」るだろうことは当然であった。このような「意見の相違が明らかになるやいなや、もう総じてどのような原則上の問題についても『経済主義者』と意見の一致」をみることはできなかった。(P165)

 

【労働者の組織と革命家の組織との区別と関連

①経済闘争のための労働者の組織

一般的に言って、労働組合は労働者の直接的な経済的利益を守る階級的組織である。

・職業的組織であること

   ・できるだけ広範なメンバーから構成されていること

   ・できるだけ秘密でないものでなければならない。

②職業革命家の組織、あるいは革命家の組織

・ 第一に、また主として、革命的活動を職業とする人々をふくまなければならない。

「だから私は、社会民主主義的革命家を念頭において、革命家の組織と言っている」…レーニンが革命家の組織、あるいは職業革命家という場合、これは社会民主党の党員一般について言っているのではなく、その中心となり革命のために訓練された人々によって指導される中核組織と理解すべきなのだろう。

 権力の弾圧から組織をまもりつつ、広範な人民を党のもとに結集させるということを考えるならば、高度の秘密性が要求される任務をすべての党員に等しく与えることは不可能であり、危険なことである。これはレーニン党組織論の特異性でもあり、経済主義者が「陰謀組織」といって批判した根拠でもあろう。にもかかわらず、ボリシェヴィキが他方では、広範な労働者大衆と結びつき、多くの労働者党員・革命家を結集していたのは事実である。

 つけ加えれば、本質的に非合法である革命運動において職業的革命家が中心となり党を指導し、階級闘争の先頭にたつべきだということは、今日においても、またどの国においても何ら変わりはない。(「職業革命家」の意味については後に詳しく検討する)

・このような組織の成員に共通な標識(共産主義者マルクス主義者?)をまえにしては、労働者とインテリゲンチャのあいだのあらゆる差異はまったく消え去れねばならず、まして両者の個々の職業の差異については言うまでもない。

・この組織は、必然的に、あまり広範なものであってはならず、またできるだけ秘密なものでなければならない。

③党と労働者組織との関係

・ いろいろな国で、それぞれの歴史的、法律的その他の条件に合わせて変化するが、できるだけ緊密であり、複雑でないもの

労働組合の組織と社会民主党の組織とが一致するというようなことは自由な国では問題にならない

つまり,レーニンは,マルクスの中では漠然とていた「政治運動」を厳密に区分けし,そのことによって労働組合運動と社会主義運動との関係についての最大の難問を正しく提起したのである。

《→それを自由な国において「党と労働組合」の関係を漠然としたものに引き戻し、混同させようというグループさえ現れている、なんということだ!》

・革命的組織は労働者の組織にあらゆる援助をあたえ、社会民主主義的労働者は労働者の組織に協力して、その中で積極的に活動しなければならない。だが、社会民主主義者だけが「職業」組合の一員となることができるような条件を要求することは、決してわれわれの利益にならない。それは大衆にたいするわれわれの影響範囲をせばめることになるからだ。

・労働者の組織が広範であればあるほど、経済闘争のために役立つだけでなく、政治的扇動と革命的組織のために極めて重要な補助者としての役割を果たす。

 

専制下のロシアで労働者の組織をどう作るのか

成員が広範なことが必要なのに、また厳格な秘密活動も必要だというこの矛盾をどうやって調和させたらよいか? 職業組合をできるだけ秘密でないようにするにはどうしたらよいか?」

(前半部分は他の国においても言える普遍的な課題を含んでおり、後半は特殊ロシア的歴史的課題と言うことができる。)

そして、このロシア的特殊性において二つの道をあげているのだ。すなわち、

①職業組合を合法化する道

②秘密活動がほとんどゼロになってしまうぐらい「ルーズな」つかみどころのない組織にしてしまうこと

・職業組合を合法化する道……この決定権はツアーが握っている。そして、非社会主義的、非政治的な労働者団体の合法化はすでに始まっている。また、合法化運動はブルジョア民主主義者、挑発者らが旗を振り、労働者や自由主義インテリゲンチャにも追随者がでており、この分野を社会民主主義者が無視するわけにはいかない。

 では何をするのか。ここで、われわれが行うべきことは、この運動内の「毒麦」と闘い、「小麦」を刈り入れ、またその「刈り入れ人」たちを養成すること。

 「毒麦」とは、労働者をわなにかけるために権力が送り込んだ挑発者や、階級調停的・協調的思想を吹き込む輩を暴露すること。「小麦」とは広範な、政治的意識の低い労働者層の意識を引き上げ、政治問題に注意を向けさせること。それを労働者組織の中でおこない、労働者革命家を養成することである。

 「今日われわれのなすべきことは、室内の植木鉢のなかで小麦をそだてることではない。われわれは毒麦を抜きとり、それによって小麦の種子が発芽できるように土壌をきよめ」それができる「刈り入れ人」を養成しなければならない。(P171)

 

 「だから、合法化によってはわれわれは、なるべく秘密でない、できるだけ広範な労働組合組織をつくりだす問題を解決できないのである。…しかし、部分的な可能性でもひらいてくれるなら、われわれは大喜びするだろう」「…あとに残るのは秘密の労働組合的組織《→つまり②の「ルーズな労働組合的組織》だけである」(P172)

 

レーニンは労働者の組織と革命家の組織(つまり労働組合と党)を区別し、非合法という条件のもとで、まず革命家の組織から着手すべきこと、革命家の組織がしっかりとしたものとしてつくりあげられさえすれば、《むしろ》労働組合は「ルーズ」な形のほうがその機能を果たすであろうと述べている。

「もしわれわれが強固な革命家の組織をしっかりうちたてることからはじめるなら、運動全体に確固さを保障し、社会民主主義的な目的をも、本来の組合主義的な目的をも、両方とも実現することができるであろう。もしこれに反してわれわれが、大衆に最も『近づきやすい』と称する(そのじつ、憲兵にとってもっとも近づきやすく、そして革命家を警察にもっとも近づきやすくするところの)広範な労働者組織からはじめるなら、手工業性を脱却することもできないで、我々自身がちりちりばらばらになり、いつも壊滅状態になる……」。

 

→今日、自由主義諸国のほとんどの国で労働組合の権利が認められている。にもかかわらず、労働組合社会主義的綱領を掲げたのは、コミンテルンの指導下でつくられた赤色労働組合以外にはほとんどなかった。しかも、この政治組織と労働組合を一体化させようという誤った試みは当然のこととして失敗に終わった。そして今日、ほとんどの労働組合は例外なく「労働条件と労働者の社会的地位の向上」という、それ自体ブルジョア民主主義の枠内での活動を目的として掲げている。

レーニン労働組合の合法化が切り開く可能性について否定しなかったし、ブルジョア民主主義的権利をも積極的に利用するべきであると主張している。

しかし、同時に、労働組合の合法化にいささかの幻想も抱かなかった。確かに、ロシアの圧制という特殊歴史的条件のもとではあったが、それでは合法化された国々において社会主義運動が前進しただろうか。それどころか、経済主義と労働組合主義が革命運動の足かせとなり、妨害物にさえなってこなかっただろうか

レーニンは次のように述べ、早くから合法化されたイギリスの労働組合が「経済主義」「労働組合主義」に陥ったおかげで、マルクスの当初の期待にも反して、労働者階級を革命的政治闘争からそらしてしまったこと批判しつつ、革命のための政治闘争と経済主義的政治闘争を区別することの必要性を述べているのである。

「徹底的な学者である(そして『徹底的な』日和見主義者である)ウェッブ夫妻の著作〔『イギリス労働組合の理論と実践』〕を一読すれば、イギリスの労働組合がすでにとっくの昔から『経済闘争そのものに政治性をあたえる』任務を自覚して、それを実現しており、とつくの昔からストライキの自由のため、協同組合運動や労働組合運動にたいするありとあらゆる法律上の障害をとりのぞくため、婦人や児童の保護の法律を発布させるため、衛生法や工場法の制定によって労働条件を改善する、等々のためにたたかっていることがわかるであろう」

このことを考えるなら、ここで述べられている党と労働組合の関係が特殊非合法時代のロシアにおける戦術であり、労働組合が合法化されている現代のわれわれにとっては考察の対象ではない、と考えるのは誤りだろう。

初期のレーニンには労働組合論がなかった、労働組合を重視したのはずっと後からだったなどと、レーニン労働組合論の変遷を批判する論もあるが、労働者組織の中に党の影響力が広く深く浸透し、実質的に労働組合の意思を代表するようになれば、おのずと労働組合組織と党との緊密さが増すのは当然であり、それでも労働組合と革命党のあいだに一線を画し、労働組合を固定した概念に閉じ込めようとすることのほうが非現実的であり、反動的である。つまり「緊密な結びつき」は、労働者のなかでの革命党の影響力の程度に応じて変化するのであり、だからこそ、革命家の組織をうちたてることから始めなければならないのである。

 

4)組織活動の規模

経済主義者は「社会は革命的活動に適した人物をきわめて少数しかうみださない」「工場で十一時間半も働く労働者は扇動家としての役割しか果たしえない」と言って、せまい経済闘争の立場から、革命家は工場の労働者の中からしか生みだされないと考え、また労働者が職業革命家へと飛躍することを否定するから革命的人材を見つけることができないのだ。

「人がいない、しかも人はたくさんいる。…人がたくさんいるというのは、労働者階級ばかりではなく、ますます多種多様な社会層が、不満を持つ人々、抗議したいと願っている人々、絶対主義との闘争に応分の援助をあたえる用意のある人々を年ごとにますます数多く生みだしてくる」という意味であり、「人がいないというのは、指導者がいず、政治的首領がいず、また、どんなにわずかな勢力でもあらゆる勢力に働く場をあたえるような、広範であると同時に統一ある、整然たる活動を組織することのできる、才能ある組織者がいない」ということだ。(p189)

 

つまり、行動に適した革命的勢力の不足という問題は、人材がいないのではなく、彼らを活用する才能を持った指導者がいないということなのだとレーニンは指摘している。

そして、その結果「革命的組織の成長と発展は、…労働運動の成長に立ち遅れているだけではなく、さらに人民のすべての層のあいだの一般民主主義的運動の成長にも立ち遅れている」

そして、専門化と集中化の問題、および労働者革命家を育てることを提起している。

<専門化と集中化>について(p190-191)。

① 「政治的扇動家だけでなく、社会民主主義的組織者も『住民のすべての階級のなかにはいって』いかなければならない」(→単に扇動の対象にするだけでなく)

② 「組織活動の幾千のこまごまとした機能を、種々さまざまな階級に属する個々の人たちに分担させること(――専門化が足りないことは、われわれの技術的欠陥だ)。

  共同事業の個々の「作業」が細かくなればなるほど、この作業を果たす能力のある(そして、大多数の場合に職業革命家になるにはまったく適していない)人物をますます多く発見できるし」、警察がこれらの局部的な働き手を一網打尽にすることは不可能である。

③ 運動の機能を細分しながらも、運動の全体性、計画性を保障し、この運動そのものは細分させず、さらにこの機能を担う人々が「自分の仕事の必要性と意義とに対する信念―そういう信念がなければ彼らは決して仕事をしないだろう―」をいだくことが必要である。そのためにも「試練を経た革命家の強固な組織」によってしっかりと秘密が守られること、それが党の力に対する信念を高める。

④    運動に引き寄せられる「外部の」分子によって、運動が軌道からそれされる危険性を避けるためには確固たる理論的基礎にたって機関紙を駆使する組織が必要である。「一言で言えば専門化は必然的に集中化を前提し、また逆に専門化によって集中化が絶対の必要になる。」

→そして、このような細分化=専門化と集中化が組織できる党であるならば、こういう(職業革命家に対する)補助者をあらいざらい矢おもてに晒したり、むやみに非合法活動の中核に引き入れたりせず、逆に彼らを特に大切にし、また学生の場合には、短期の革命家としてよりも役人になって、補助者としてより多く党に貢献できる者も数多くいることを念頭において専門化を養成するだろう。

(運動は)すでに、サークル的活動では間にあわないほどに成長しているために、「サークル的活動は、こんにちの活動にとっては狭すぎるものとなり、法外な力の浪費をもたらしている。一つの党に融合することだけが、分業と力の節約との原則を系統的に実行する可能性をあたえるであろう。そして、犠牲者の数をへらし、専制政府の圧制とその必死の迫害とに抗して多少とも堅固な防砦をつくりだすためには、これを達成しなければならないのである。」(レーニン全集第4巻「緊要な問題」)

 

 <労働者革命家を育てること>

① 党活動の面で(*)インテリゲンチャ革命家と水準を同じくする労働者革命家の養成をたすけることが、われわれの第一の、もっとも緊急な義務である。だから、「経済主義者」が、労働者への政治的扇動を「中程度の労働者」にあわせると称して否定し、労働者が革命家に進む道を断ち切っていることはきわめて反動的なのである。

 *労働者革命家とインテリゲンチャは職業・知識その他の面において、おなじ水準であるとは限らないし、それを求める必要もない。だが党活動の面においてはいかなる階級、階層の出身であれ労働者革命家とまったく対等である。

→「経済主義者」は職場の中で、ときに資本との関係では戦闘的に闘いながら、労働者に向かっては政治的扇動をせず、予め自分を職業革命家から切断する点でも日和見主義なのである。

② さらに、労働者革命家も、自分の革命家としての仕事について完全な修業をつむためには、そこにとどまることなく、やはり職業革命家になることが必要である。

 また指導者は、すべての能力のすぐれた労働者革命家をたすけて、職業的な扇動家、組織者、宣伝家、配布者などにさせるという任務を自覚的に行わなければならない。

 じっさい、運動が高揚すればするほど、労働者大衆は、才能ある扇動家だけではなく、才能ある組織者や宣伝家、実践的能力をもった革命家が生み出されてくる。

 彼が、労働運動のなかで培った経験や手腕、広範な人間関係をも利用し、ひとつの職場からひとつの地方、さらに全国へと仕事の場を与え、そのために、いっそう広い見識と専門的訓練を積む機会を組織の力で保障すること。

 このような労働者革命家をどれだけつくれるかが、この事業の規模を決定づけるのである。

 →「経済主義者」は、労働者革命家となるべき有能な労働者を、狭い労働組合活動家の位置に押しとどめることで、ますます活動の規模を狭いものにしているのである。

 では、どのようにして労働者革命家をつくるのか。レーニンはドイツの例を出して次のように述べている。

 「有能な労働者と見れば、すぐさまその能力を十分に発揮し、十分にはたらかせることのできるような条件のもとに、彼をおこうとつとめる。彼は職業的扇動家とされる。その活動舞台をひろげて、ひとつの工場からその職業全体へ、一つの地方から国全体へとおよぼしてゆくよう励まされる。彼は自分の職業についての経験と手腕を獲得し、その視野と知識をひろげる。他の地方や他の党のすぐれた政治的指導者を身近に観察する」。自分でも同じ水準に到達しようとつとめ、敵の頑強な隊列にたいして闘争をおこなうことのできる職業的修練に自分を結び付けようとする。(p197)

 「われわれが、労働者にも『インテリゲンチャ』にも共通の、この職業革命家としての修業の道へ労働者を『駆りたてる』ことが少なすぎ、労働者大衆や『中程度の労働者』にはなにが『とりつきやすい』かなどという愚論によって労働者を引きもどしている場合がおおすぎる……」(こうしたことを含めて、いろいろな点で)「組織活動の規模が狭いことは、われわれの理論やわれわれの政治的任務がせばめられていることと不可分の関係があることは、疑いをいれない。」それは、自然発生性への拝跪であり、大衆から一歩でも離れてしまうことに対する恐怖があるからだ。(p197)

 

(以下第五回に続く)

レーニン『なにをなすべきか?』学習ノート  (第三回)

【三】組合主義的政治と社会民主主義的政治

『ラボーチェエ・デーロ』第10号の論文でマルトィノフは「……『イスクラ』は、……事実上、わが国の諸制度、主として政治上の制度をばくろする革命的反政府派の機関紙である。……他方われわれは、プロレタリア闘争と緊密な有機的結びつきをたもって、労働者の事業のため活動しているし、また将来も活動するであろう」といって両者の意見の違いを定式化した。

 

冒頭、レーニンはこの文章を引用し、この定式化こそ、「『ラボーチェエ・デーロ』との意見の相違を包括しているだけではけっしてなく、政治闘争の問題についてのわれわれと『経済主義者』とのあいだの意見の相違の全体をおしなべて包括している」「『経済主義者』は絶対的に『政治』を否定するのではなく、社会民主主義的な政治の見方から組合主義的な政治の見方へ、たえずまよいこんでいくにすぎない」(84~85P)と指摘している。

→この定式化はこの章で何度も引用されるので、あらかじめ、次の点を押さえておきたい。

 ここで「経済主義者」が言っている<革命的反政府派>とは、学生やゼムストヴォ議員などの「反政府諸層」を指導する「階級的見地をはずれ」た人々のことであり、それに比して自分たちは「労働者との結びつき」を保ち「労働者の事業のために活動して」いるのだから自分たちこそが、主流派(階級的)なのだと言いたいということだ。

 こうした経済主義が主流となっている現状に対して、社会民主主義者の政治的任務は何なのか、そしてプロレタリアートの階級性とは一体何なのか、レーニンはこの章でそれを提起しているのである。

 

1)政治的扇動、および経済主義者がそれをせばめたこと

当時のロシアでは、労働者の経済闘争が広範にひろまり、経済的暴露が「もっともおくれた労働者のあいだにさえ、『活字にしたい』という真の熱情が、略奪と抑圧のうえに築かれた現代の全社会制度との戦争の、この萌芽的な形態への高貴な熱情」を呼び起こしていた。

「一言でいえば、経済的(工場内の状態の)暴露は経済闘争の重要なテコであったし、いまでもそうである」(P86)

それは、「階級意識のめざめの出発点」と言えるものであった。当時のロシア社会民主主義者の圧倒的多数は、もっぱら工場内の状態を暴露するこの仕事にのみ没頭していた。しかし、この仕事は、それ自体ではまだ組合主義的な活動に過ぎない。

「実質上、この暴露は、その当の職業の労働者と彼らの雇主との関係をとらえただけで、それによってなしとげられたのは、労働力の売手が、この『商品』をより有利な条件で売ることを、また純商業取引の基盤のうえで買手とたたかうことを、まなびとったことだけであった」

「こういう暴露は、(革命家の組織がそれを一定のやり方で利用するときには)社会民主主義的活動の端初とも、構成部分ともなることのできるものであったが、しかしまた、『純職業的な』闘争と非社会民主主義的な労働運動とに導くものともなりえた」

「…社会民主主義派は、ひとりその当該の企業家集団にたいしてではなしに現代社会のすべての階級にたいして、組織された政治的暴力としての国家にたいして、労働者階級を代表するのである。これからして明らかなことは、社会民主主義者は、経済闘争にとどまることができないばかりか、経済的暴露の組織が彼らの主要な活動であるような状態を許すこともできないということである。われわれは、労働者階級の政治的教育に、その政治的意織を発達させることに、積極的にとりかからなければならない」(P88)

レーニンはこのように社会民主主義者の任務を明確に定義している。

 

【政治的扇動について】

ロシアの階級闘争に、アジテーションという手法が持ち込まれたのは、1894年であった。この年に、のちのブント創設に関わったア・クレメールという人が執筆し、マルトフが校訂した『煽動について』という小冊子が持ち込まれた。それ以前は、宣伝による社会主義思想の普及ということが社会主義者の中心的活動であった。

当時、ナロードニキがテロルによる専制の打倒を目指していたことに比して、社会主義者によるマルクス主義の宣伝はある種、穏健な活動とみられていたようである。

しかし、宣伝活動という性格(=社会主義理論を全面的、体系的に広めようとするからして、主に知識人を中心にしたサークル的なものとなり、労働者に接近して思想を広めようという試みは行われたが、ほとんどは無視され、まれに知的な金属労働者のあいだで教養として受け入れられる程度に止まっていたようである。

そうした状況を一変させたのが、この『煽動について』という小冊子の登場でした。

「自分たちの乞食のような生活や途方もなく苦しい労働や、無権利状態について、余すところなく語る新しい種類のリーフレット…」(P85) はこうして作られるようになり、ロシアの革命的インテリゲンチャナロードニキができなかった労働者との結合を初めて実現したのです。 

 彼らは工場内の暴露に熱中し、労働者もこれに応えて通信をよせてきました。

「一言で言えば、経済的暴露(工場内の状態の暴露)は経済闘争の重要なテコであったし、いまでもそうである。そして、労働者の自己防衛を必然的に生みだす資本主義が存在している限り、それは引き続いてこの意義を保つであろう」(P86)

ここで、なされた転換の重要な点は、労働者自身が日々搾取と収奪に苦しむその現場の実態を暴露し、労働者の憤激を組織することが社会主義者の手によって開始されたことである。

経済闘争の分野において画期的成功をもたらし、インテリゲンチャも労働者革命家もきわめてすぐれた手腕を磨き上げたこのアジテーション扇動という手法を政治闘争の分野に全面的に適用しようというのがレーニンの主張であった。

労働者階級が革命をとおして自らを支配階級へと高めるためには、労働者階級の政治的積極性を育てなければならない。これが、一貫したレーニンの考えです。

では、この政治的教育はいったいどういうものでなければならないか?

 レーニンは「労働者階級は専制にたいして敵対的な関係にあるという思想を宣伝するだけ」でも、また「労働者にたいする政治的抑圧を説明するだけ」でも足りない。さらに、「この抑圧の一つ一つの具体的な現れをとらえて扇動することが必要なのだ」「この抑圧は、種々さまざまな社会階級にのしかかっており、職業的といわず、一般市民的といわず、個人的といわず、家庭的といわず、宗教的といわず、学問的、等々といわず、種々さまざまな生活と活動の分野に現れているのだから、専制全面的な政治的暴露を組織する」ことなしに、社会民主主義者は労働者の政治的意識を発達させるという自分の任務を果たしえないと、暴露・扇動による組織化を経済闘争のみならず、政治闘争にも全面的に適用すべきであると述べている。(P89)

 

これに対して、『ラボーチェエ・デーロ』は「いま社会民主主義者の当面する任務は、どうやって経済闘争そのものにできるだけ政治性をあたえるか、ということである」「経済闘争は、大衆を積極的な政治闘争に、引きいれるために、もっとも広範に適用しうる手段である」等々と一貫して政治的扇動は経済的扇動のあとに従わなければならないという日和見主義的な段階論をとり、あらかじめ政治的扇動の規模をせばめるのである。

 レーニンはこう反論する。「経済闘争が-般に、大衆を政治闘争に引きいれるために『もともと広範に適用しうる手段』であるというのは、正しいであろうか? まったくまちがっている。警察の圧制や専制の乱暴のありとあらゆる現れも、このような『引きいれ』のために『広範に適用しうる』手段である点ですこしもおとるものでなく、けっして経済闘争と関連のある現れだけがそういう手段なのではない」(P90)

「労働者が…日常生活で無権利や専横や暴行に苦しめられる場合の総数のなかでは、まさに職業的闘争で警察の圧制をこうむる場合(の方)がほんの一小部分を占めるにすぎないことは、疑いがない」(P91)

「経済闘争はできるだけ広範に行われなければならないし、それはつねに政治的扇動に利用されなければならない、しかし、経済闘争をもって、大衆を積極的な政治闘争に引きいれるためにもっとも広範に適用しうる手段とみる『必要はまったくない』」(P92)

 

経済闘争とは労働力販売の有利な条件を獲得するため、労働条件と労働者の生活状態を改善するために、労働者が雇い主に対して行う集団的=組織的闘争であり、必然的に職業的闘争である。したがって「経済闘争そのものに政治性をあたえる」ということは、この同じ職業的要求、同じ職業別の労働条件改善の実現を、「立法上、行政上の諸施策」によってかちとるべくつとめることである。これはまさしくすべての労働組合が現にやっており、つねにやってきたことである。結局、彼らはもっぱら経済的な改良だけを(それどころか、もっぱら工場内の状態の改良だけを)問題にする。時として政府から譲歩が得られるとしても、それがもっぱら経済的分野に限られた諸施策であることを知っている。

「経済主義者」はつねに、社会民主主義的政治を組合主義的政治に低めようとする指向性を持っているのである。

 

「革命的社会民主主義派が『経済的』扇動を利用するのは、政府に各種の施策を実施せよという要求を提出するためだけでなく、また(そして第一に)この政府が専制政府であることをやめよ、という要求を提出するためである。そればかりではない。革命的社会民主主義派は、この要求を、たんに経済闘争を基礎として提出するだけではなく、およそあらゆる社会=政治生活の現れを基盤として提出することをも、自分の義務と考えている」

「革命的社会民主主義派は、改良のための闘争を、全体にたいする部分として、自由と社会主義とのための闘争に従属させる」(P96)

 

2)マルトィノフがプレハーノフを深めた話

この節は、次に政治的扇動について本格的に検討する前に、経済主義者が「宣伝と扇動」の差異をどのように理解し、その活動がどのような性格をもっているのかについて前提的に確認している部分である。

→まず、プレハーノフの定式(それまでの国際労働運動のすべての指導者もこの立場だった)

「宣伝家はひとりまたは数人の人間に多くの思想をあたえるが、扇動家は、ただ一つの、または数個の思想をあたえるにすぎない。そのかわりに、扇動家はそれらを多数の人々にあたえる」

→ マルトィノフの定式

「宣伝という言葉を、個々の人間にとって理解しやすい形態でなされるか広範な大衆にとって理解しやすい形態でなされるかにかかわりなく、現制度全体または部分的現れを革命的に解明するという意味に解したい。また、扇動という言葉を、厳密な意味では(……)大衆にある具体的行動を呼びかけるという意味、社会生活へのプロレタリアートの直接の革命的闘争をうながすことと解したい」

 

マルトィノフは宣伝とは社会的事象や制度全体、または一部分の表れを革命的に語ることであり、扇動とは大衆に直接行動を呼びかけることだと言っている。しかし、「一定の具体的行動を呼びかけること」は宣伝においても扇動においてもなされることである。

マルトィノフが、わざわざプレハーノフを「深めた」根拠は、ただ一点『イスクラ』が、「一定の目に見える成果を約束する」「立法上および行政上の諸施策の具体的要求を政府に提出する任務をかげに」押しやり、「現行諸制度の全面的な政治的暴露を組織する」ことしかやっていない、と言って社会民主党の任務を否定せんがためなのだ。

より深遠なマルトィノフの新しい定式化によってプレハーノフは「深められた」とレーニンは揶揄し、改めて宣伝と扇動について説明している。

(実は今日においても、この宣伝と扇動という言葉の意味があいまいにされ、ともすればマルトィノフ的な理解をしている現実がある。これはレーニン組織論の理解にとっても、大衆の信頼をかちとる上でも致命的ともいえる問題なのだ)

 

レーニンによる定式化

「宣伝家は、『多くの思想』 ― しかもそれらすべての思想全体をいっぺんにわがものとできる人は(比較的にいって)少数でしかないような 多くの思想をあたえなければならない

「扇動家は、同じ問題を論じるにしても、自分の聴き手全部にもっともよく知られた、もっともいちじるしい実例…だれでも知っている事実を利用して、ただ一つの思想、富の増加と貧困の増大との矛盾がばかげたものである(等々)の思想を『大衆に』あたえることに全力をつくし、大衆のなかにこのようなはなはだしい不公平に対する不満と債激(=人間的怒り、これこそ人間解放の原動力であり自然発生的なエネルギーである)をかきたてることにつとめが、他方、この矛盾の完全な説明は、宣伝家にまかせるであろう」(P103)

 

3) 政治的暴露と「革命的積極性をそだてること」

 マルトィノフは「労働者大衆の積極性をたかめる」ことは、経済闘争のなかで『もっとも広範に適用されるべき』ものであると宣言し、経済主義者の全部がそのまえにはいつくばっている。

「実際には、『労働者大衆の穣極性をたかめる』ことは、われわれが『経済を基盤とする政治的扇動』にとどまらないばあいに、はじめてなしとげられることである」

そして、こうした「政治的扇動の必要な拡大がなされるための基本的条件の一つは、全面的な政治的暴露を組織することである。このような暴寿による以外には、大衆の政治的意識と革命的横極性とを培養することはできない。だから、この種の活動は、全国際社会民主主義派のもっとも重要な機能の一つをなすものである」(P106)

このようにレーニンは、ドイツの党の強さの根拠は、ほかならぬ政治的暴露カンパニアを弱めなかったことにあると述べ、次のように述べている。

「もし労働者が、専横と抑圧、暴力と濫用行為のありとあらゆる事例――この事例がどの階級に関係するものであれ―― に反応する習慣を、しかも、ほかのどの見地からでもなくまさに社会民主主義的な見地から反応する習慣を得ていないなら、労働者階級の意織は真に政治的な意識ではありえない」

「もし労働者が、具体的な、しかもぜひとも焦眉の(切実な)政治的事実や事件にもとづいて、他のそれぞれの社会階級の知的・精神的・政治的生活のいっさいの現れを観察することを学びとらないなら――また住民のすべての階級、層、集団の活動と生活のすべての側面の唯物論的分析と唯物論的評価を、実地に応用することを学びとらないなら、労働者大衆の意識は真に階級的な意識ではありえない」(P106~107)

つまり労働者階級が、社会に起こっているすべてのことを正しく認識する能力とマルクス主義理論を実地に適用する能力を養成するためには全面的政治暴露が必要だと言っている。

したがって「労働者階級の注意や観察力や意織をもっぱら、でないまでも主として、この階級自身にむけさせるような人は、社会民主主義者ではない

 

【「労働過程」論と人間の意識=認識の形成についての考察】

→ここでレーニンが提起している扇動の意味を、労働者の認識はどのように形成されるのかという意識形成論として検討することは、どのような煽動が求められているのかを考えるうえでも極めて重要と思われる。

  

レーニンは、先に引用したように「労働者階級は専制にたいして敵対的な関係にあるという思想を宣伝するだけ」でも、また「労働者にたいする政治的抑圧を説明するだけ」でも足りない。さらに、「この抑圧の一つ一つの具体的な現れをとらえて」扇動するときにのみ事の真実をつかむことができる、これが労働者、労働者階級の認識のしかただと言っている。

では、なぜ労働者は「説明をするだけでは足りない」のか。反対に具体的事柄の暴露とこれに基づく扇動ならなぜ理解できるのか。問題の核心はここにある。レーニンは次のように言う。

「労働者階級の自己認識は、現代社会のすべての階級の相互関係についての、完全に明瞭な理解――単に理論的な理解だけでなく、さらに…理論的な理解よりも、むしろ、というほうが正しくさえある…政治生活の経験に基づいて作り出された理解――と、不可分に結びついているからである」(P107)

 レーニンはそうしたプロセスに従えば労働者階級は(労働者だけの問題に限らず、あらゆる階級や階層の)現代社会で起こっているすべての政治的問題とその相互関係について「明瞭な理解」ができる能力をもった階級であることを認めるとともに、ここから、さらにすべての社会問題を唯物論的に分析したり、評価できるような訓練が必要だと言っている(ここが「経済主義者」と違うところ)。

「われわれがそういう暴露を組織するなら、どんなに遅れた労働者でも、学生や異宗派、百姓や著作家を罵倒し、これに暴行を加えているのは、労働者自身をその生活の一歩ごとにあのようにひどく抑圧し、押し潰している、まさにその同じ暗黒の勢力であることを理解するか、でなければ感じるだろう。だが、それを感じた以上、労働者は自分でもこれに反応したいという願望、しかも押さえ切れない願望をいだくであろう」(P109)

つまり、労働者は社会のあらゆる問題を、自分たちの具体的な経験に即して理解するときに世界をも理解できる階級だと言っているのである。インテリゲンチャが「明瞭な理解」をする場合には、宣伝や学習は極めて有効な手段にちがいない。しかし、労働者の認識にとっては、それ以上に扇動が特別に重要な意味をもっているということなのである。

それはなぜなのか?。レーニンの組織戦術にとって、これはこれで重要な問題を提起している。

それを解明するためにも、人間の認識(意識)はどのように形成されるのかを押さえておくことが重要である。

資本論第一篇第5章では商品の二面的性格である使用価値と価値のうち、使用価値という側面について、また第7章では剰余価値を導くものとして「労働過程」について述べている。

① 人間は自己の欲求を満たし生命を維持するために、自然素材に働きかけ使用価値を生産する。労働とは合目的的な人間労働と労働対象、それと労働手段という三つの契機をもってする「労働過程」である。この「人間と自然との物質代謝」はどのような社会においても変わらない自然的必然である

 

② 資本論においては価値法則を導く視点から労働過程を論じているのであるが、それにもかかわらず、以下のような重要な示唆を与えていることに留意しなければならない。

「労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し,規制し,管理する一過程である。……人間は,この運動によって自分の外部の自然に働きかけて、それを変化させることにより、同時に自分自身の自然を変化させる

「彼は自然的なものの形態変化を生じさせるだけではない。同時に彼は自然的なもののうちに、彼の目的――彼が知っており、彼の行動の仕方を法則として規定し、彼が自分の意思をそれに従属させなければならない彼の目的――を実現する。この従属は……労働の全期間にわたって労働する諸器官の緊張のほかに注意力として現れる合目的的な意思が必要とされる」

 

③「クモは織布者の作業に似た作業を行うし、ミツバチはその臘の小屋の建築によって多くの人間建築師を赤面させる。しかしもっとも拙劣な建築師でももっとも優れたミツバチより卓越している点は、建築師は小屋を臘で建築する以前に自分の頭の中でそれを建築していることである。労働過程の終わりには、そのはじめに労働者の表象のなかにすでに現存していた、したがって観念的にすでに現存していた結果がでてくる」(資本論第一部)。 

  <人間は物質的活動、その経験の中で既に知っている方法と法則に基づいて、予め目的とする生産物の完成形態を観念的に脳裏に描き、そこから逆規定して、労働の各段階に適合する諸器官――彼の肉体にそなわる自然力,腕と脚の機能やそれを制御する神経系統に緊張と刺激を与える。同時に、自然素材の形態や性質、生産方法や方式、手順といった経験とその反省、感覚を頭脳に取り込み対象化する。また、それまで知り得た知識と比較し、修正を加え、豊富化する。つまりこれが労働過程に対応した意識の生産ということである>

 

④ 『資本論』では、「単純で、抽象的な契機」としての「労働過程」、いうなれば物質的性格に論点が絞られており、労働者の内面的、観念的な意識の形成や自己と他者との間、つまり協働によって形成される意識の問題についての論述はない。論点が散漫になるのを避け、価値法則に絞るねらいがあったのかもしれない。

   とはいえ、人間が人間として定立して以後の労働過程が、現実には全く誰の協力もなしに孤立的に行われてきたと考えることはできない。したがって端緒的な労働過程といえども、他の労働者との社会関係が考察されなければならない。意識の発現であり他者との交通形態でもある言語とともに、そうした労働過程を通じた他人との協働における意識の生産、すなわち類的存在としての自分以外の人間を認識し、そうすることで自分自身を対象化する、まさに自然素材に対する対象化、内在化と同じような意識の形成が人間対人間の関係においても行われてきたと考えられる。

 

⑤ 資本が生産手段を占有し、労働力を市場で商品として買い、生産過程では、労働過程が作り出した使用価値を投入し消費する。これが資本による商品生産の決定的な前提条件である。ところが労働力商品は、一般の生産物商品とは異なり、特殊な性格をもつ。労働力商品の使用価値をなす労働が、価値を形成するというだけではない。  第一に、生産物の価値のように、その再生産に要する労働時間によって規定されるのではない。労働力の価値を決定するのは必要生活手段の価値であり、その質と量は、歴史的・文化的条件に依存する。第二に、労働力は生産過程で支出されてはじめて価値および剰余価値を生むが、そのために労働過程は資本によって管理される。第三に、労働力の再生産には資本は介入しえない。そして第四に、このように、生産手段と労働過程が資本によって管理されつつも、労働者が労働過程の中で作られる意識――物質的素材と協働の中で形成される社会的・人間的関係を対象化し、その経験の蓄積を通して普遍性、法則性を認識、再認識するという内面的プロセス、労働者自身の脳の中に刻み込まれた知識や意識は労働者自身の属性であり、資本によっても決して支配されることはない

   労働者が「労働過程」における自然素材および、この過程でとり結ぶ社会関係の対象化、内在化=意識の形成、その経験の中から本質的、法則的なものを掴みとる能力は人間としての彼の属性であり誰も奪い去ることはできない。 

(にもかかわらず、ブルジョアジーは労働者階級が取り結ぶ社会関係を切断し、彼の人間性そのものを破壊する。資本主義のもとではこの矛盾を解決し得ない)

   ところで、人間は自分がある目的のために活動(労働)する場合、予め頭脳の中で観念的なイメージを描き、それが全面的、具体的、合目的的であればある程、自分の行動の結果に対して確信を深めるのである。

その意味で扇動そのものは労働者階級だから有効ということでも、レーニンの専売特許でもない。ブルジョアジーブルジョア的利益を満たすことができると確信させる扇動があれば、どれほど無慈悲で非人間的な手段であろうとためらうことがないのはわれわれが知っている通りである。

    レーニンは、労働者階級にとって全面的で、全社会的な政治的関係の生き生きとした暴露が必要なこと(にもかかわらず、これまでやられてこなかった)を強調しているのである。それがあれば労働者階級は自然発生的な経済闘争だけにとらわれることなく、自らの進むべき道をイメージする能力をどの階級にもまして身につけているからである。

  

4)経済主義とテロリズムには何か共通点があるか

 ここでは何が問題になっていたのか。

当時のロシアの革命運動が「経済主義」に占領されてしまったがゆえに、党が「革命的活動を労働運動に結び付けて渾然一体化する能力」を形成し得ない、あるいはその可能性を絶たれてしまった。その結果としてテロリズムが発生したということである。

そして、これについてレーニンは経済主義とテロリズムは、どちらも「自然発生性の前に拝跪する」という点で共通の根をもっていると指摘している。

「『経済主義者』は『純労働運動』の自然発生性の前に拝跪するし、テロリストは革命的活動を労働運動に結び付けて渾然一体化する能力をもたないインテリゲンチャの最も熱烈な憤激の自然発生性の前に拝跪する」(P115)。

(どのような状況が自然発生性への拝跪をうみだすのか)

経済主義  →①労働運動の停滞期。

       ②労働運動の高揚への革命党の立ち遅れ

テロリズム →①労働運動の高揚、「経済主義者」との結合。②政治的憤       

        激の高まり  

両者の共通点は、革命運動において「革命的活動と労働運動とを結びつける能力」をもった党がつくり出せないという問題である。

「問題はこうなのだ。労働者大衆はロシアの生活の醜悪事によって大いに興奮しているのだが、…人民の興奮の水滴と潮流をことごとく寄せ集め、集中する能力が、われわれにないのである。そういう水滴と潮流は、われわれの想像たり考えているよりもはるかに大量に…したたりおちている。それらはまさに単一の巨大な流れに結合されなければならない」(これは全く実現可能な任務であるのに)「テロルの呼びかけも、経済闘争そのものに政治性をあたえよという呼びかけも、ロシアの革命家の最も緊急な義務――全面的な政治的扇動の遂行を組織すること――を回避する別々の形式」なのである。(P119)

 

→逆の言い方をすれば「全面的な政治的扇動の組織化」がいかにハードルの高いものであるのか、ということであり、その意識性からの逃避、すなわち日和見主義ということなのである。

 

【われわれはテロル一般を否定する訳ではいない】

 「われわれはけっして原則上テロルを拒否しなかったし、また拒否することはできない。…

  テロルは戦闘の一定の瞬間には…また一定の諸事情のもとでは、まったく有用な…軍事行動の一つ」である。ただし、それは「闘争の全体系と密接に結びつき、それに適合させられた野戦軍の作戦の一つ」として提出されなければ、「時宜に適さない、目的にかなわないものであって、もっとも活動的な闘士たちを彼らのほんとうの、運動全体の利益にとってもっとも重要な任務からそらせる」ものである。(→「なにからはじめるべきか」)

  

5)民主主義のための先進闘士としての労働者階級

「もっとも広範な政治的扇動をおこなうことと、したがってまた全面的な政治的暴露を組織することが、いやしくも社会民主主義的な活動にとって絶対に必要な、最も緊急に必要な任務」

である理由

①「労働者階級が政治的知識と政治的教育を必要としている」という理由だけではあまりに狭く、あらゆる社会民主党の一般民主主義的任務を無視することになる。

 

②労働者に政治的知識をもたらすためには、社会民主主義者は、住民のすべての階級の中にはいってゆかなければならない。

→「階級的・政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない。

この知識を汲みとってくることができる唯一の分野は、すべての階級および層と国家および政府との関係の分野、すべての階級の相互関係の分野である」 (P120)

 

③「社会民主主義者の理想像は、労働組合の書記ではなくて、どこで行われたものであろうと、またどういう層または階級にかかわるものであろうと、ありとあらゆる専横と圧制の現れに反応することができ、これらすべての現れを、警察の暴力と資本主義的搾取とについてのひとつの絵図にまとめ上げることができ、一つひとつの瑣事を利用して、自分の社会主義的信念と自分の民主主義的要求を万人の前で叙述し、プロレタリアートの解放闘争の歴史的意義を万人に説明する事のできる人民の護民官でなければならない」(P122)

 

→「プロレタリアートの政治的意識を全面的に発達させる必要を、ただ口先だけで主張しているだけでないなら、住民のすべての階級のなかに入っていかなければならない」

では「住民のすべての階級のなかに入っていく」とは

・どのようにやるのか? 

①「理論家としても、宣伝家としても、組織者としてもそうしなければならない」

 レーニンは、社会民主主義者の理論活動は、それぞれの階級の社会的・政治的地位のあらゆる特殊性の研究を目標としなければならない。この点で労働者の(工場)生活の特殊性についての研究に比べて、他の諸階級・諸階層の研究は立ち遅れていることを指摘し、党の理論活動のバランスの悪さを反省し、この領域での『訓練不足』の克服が必要だ、と述べている。

②「全人民にむかって一般民主主義的任務を説き、これを強調する義務があること――しかも自分の社会主義的信念を一瞬もつつみかくすことなく――を、実際に忘れるもの」「あらゆる一般民主主義的問題を提起し、激化し、解決する点でだれよりも先んじなければならない自分の義務を実践において忘れるものは社会民主主義者ではない

・人手はあるのか? ……いたるところに運動に参加したか、参加を希望しながらも、社会民主党に心をひかれながらも、余儀なく何もせずに日々をおくっている人がいる。

「われわれにこういう勢力の全部を働かせ、全員に適当な仕事を与える能力がない」ことが政治上、組織上の欠陥だ。(P131)

 そして、「労働者に真の、全面的な、生きた政治的知識を供給するためには、いたるところに、あらゆる社会層のなかに、わが国の国家機構の内面的ばねを知る便宜のあらゆる部署に『仲間』が、社会民主主義者がいること」は宣伝と扇動の部面だけでなく、それ以上に組織の部面でも必要だ。

・基盤はあるのか? ……社会民主主義者が、「もっとも焦眉の一般民主主義的な必要の表明者」であったならば、住民階級のなかで無権利や専横に不満をいだいており「これを容易に受け入れることのできる人々やグループ」が一つも存在しないはずがない。

・階級的見地から逸脱することにはならないのか?……「これらの全人民的暴露を組織する者がわれわれ社会民主主義者である点に、つまり、扇動によって提起されるいっさいの問題が、一貫した社会民主主義的精神にたって解明される点に、すなわち、この全面的な政治的扇動をおこなう者が、全人民の名による政府に対する攻撃をも、プロレタリアートの政治的独自性を守りながらおこなわれるプロレタリアートの革命的教育をも、労働者階級の経済闘争の指導をも、つぎつぎにプロレタリアートの新しい層をたちあがらせてわれわれの陣地に引き入れるような、労働者階級とその搾取者との自然発生的な衝突の利用をも、不可分の一体に結び付ける党である点に、わが運動の階級性が現れる。」(P135)

  

→「プロレタリアートが最も緊要に必要としている事柄(政治的扇動と政治的暴露とによる全面的な政治教育)と、一般民主主義的運動が必要としている事柄との結びつき、いやそれ以上だ、この一致を理解しないことこそ『経済主義』の最大の特徴の一つ」である。(P136)

 

6)もう一度「中傷者」、もういちど「瞞着者」 (略) 

レーニン「なにをなすべきか?」学習ノート (第二回)

 第二章 大衆の自然発生性と社会民主主義者の意識性

 レーニンの問題意識の多くは「大衆の自然発生性」と「社会民主主義者(共産主義者)の意識性」をどのようにして結合するのかという点にあった。
 レーニンは当時のロシアにおける運動の強みが大衆の(主として工業プロレタリアートの)覚醒にあり、弱みが革命的指導者の意識性と創意性の不足にあることを冒頭で明らかにし、この章のテーマを「革命的指導者の意識性と相違性」ということに絞って問題を提起しているのである。

 

 → 『ラボーチェエ・デーロ』は「自然発生的要素と意識的・『計画的』要素の相対的意義についての評価の相違」あるいは「自然発生的要素の意義の軽視」と批判しているが、レーニンによれば「自然発生的要素」とは、本質上、意識性の萌芽形態であり、労働者階級が自らを圧迫している資本・雇い人に抵抗して自然発生的に結合する能力、すなわち組織的能力を意味しており、それと社会民主主義者の「意識性」つまり革命理論が結びつく以外にはブルジョア社会の転覆はできないのである。どちらを重視するかとか、どちらが上に立つかというような問題のたて方そのものがナンセンスなのだ。

 諸党派、諸潮流の党派性が労働運動と党との関係における「理論上・政治上の意見の相違の全核心」(P48)として表れている事をみれば、この問題の重要性は明らかである
 「だからこそ、意識性と自然発生性との関係という問題はきわめて大きな一般的関心をひ
 くのであって、この問題について非常にくわしく論じなければならない」と強調している。

 1)自然発生的高揚の始まり

 1890年代、労働者のストライキがロシア全土に広がった。1860年代~70年代のストライキに比して90年代のストライキ運動は、明確な要求を提出したり、時期を考慮したりとはるかに多くの意識性のひらめきを示していた。

 「…一揆が抑圧された人々の単なる蜂起でしかなかったのにたいして、組織的なストライキはすでに階級闘争の芽生えをあらわしていた。だが、あくまでも芽生えにすぎない。それ自体としてみれば、これらのストライキは、組合主義的闘争であって、まだ社会民主主義的闘争ではなかった。それらは、労働者と雇主との敵対のめざめを表示すものではあったが、しかし労働者は、自分たちの利害が今日の政治的・社会的体制全体と和解し得ないように対立しているという意識、すなわち社会民主主義的意識を持っていなかったし、また持っているはずもなかった。こういう意味で、90年代のストライキは『一揆』に比べれば非常な進歩であったにもかかわらず、やはり純然たる自然発生的な運動の範囲をでなかった」(P45)                             

  → 労働者階級以外の他の階級も自然発生的に決起し、闘争同盟のような組織を作ることは歴史的経験から明らかであるが、みずから恒常的に組織をつくるのはブルジョアジーへの隷属を余儀なくされている労働者階級が共同労働の経験をとおしてつくりあげる独特の能である。そして、この能力はブルジョアジーとの闘いとして形成され発達し、みずからの権利と労働条件を守るために団結することで、ますますその力を高めていくのである。

 ところで、社会民主主義的(共産主義的)意識というのは、労働者階級的利害が「今日の政治・社会体制全体と和解しえないように対立していると言う意識」であり、「この意識は外部からしかもたらしえないものだった。

 労働者階級が、まったく自分の力だけでは組合主義的意識、すなわち、組合に団結し、雇主と闘争をおこない、政府から労働者に必要なあれこれの法律の発布をかちとるなどのことが必要だという確信しかつくりあげられないことは、すべての国の歴史の立証するところである」(P49)


  → 労働者は個別資本あるいは資本家の団体、またはその政府に対して労働条件の改善や権利の向上、さらには労働者保護のための制度の確立等々を要求し、産業別統一闘争やゼネストなどを打ち抜くことによって資本の譲歩をかちとることはできるかもしれない。しかし、どのような戦闘的な労働組合、激しい闘いも資本に雇われ続ける社会関係、生産体制を前提にするものであり、事実としても雇用と雇用の継続を要求するのであって、賃労働と資本の関係を解消するために闘うわけではない


 <資本を打ち倒し賃労働を廃絶し、資本家の政府に代わって労働者階級みずからを支配階級へと組織するという>革命闘争への意識は労働組合の経済闘争からは独自の理論をもって形成される以外ないのである。被支配階級としての労働者階級が、みずからを支配階級へと成長・飛躍させ、ブルジョア支配を打ち倒していくという意識、つまり「社会民主主義的(共産主義的)意識は外部から持ち込むほかはなかった」(P50)

 「社会主義の学説は、有産階級の教養ある代表者であるインテリゲンチャによって仕上げられ、哲学・歴史学・経済学上の諸理論のうちから成長してきたものである。近代の科学的社会主義創始者であるマルクスエンゲルス自身も、その社会的地位からすればブルジョアインテリゲンチャに属していた」(P50)


 ここでレーニンは、1890年代中ごろのロシアにおいてはどうであったかを検討している。
 このころのロシアの社会民主主義者たちは経済的扇動に従事しながらも、そういう経済的扇動を自分たちの唯一の任務と考えなかったばかりか、反対に最初から一般にロシア社会民主党の最も広範な歴史的諸任務、とりわけ専制の打倒を提起することが重要と考えていた。
 このように「1895~98年に活動していた社会民主主義者の一部(おそらくはその大多数さえも)が、「自然発生的」運動がはじまったばかりのその当時でも、もっとも広範な綱領と戦闘的戦術とを提出することが可能であると、まったく正当にも考えていたということを確認することが極めて重要である。

 ロシアにおいても、「社会民主主義の理論的学説は労働運動の自然発生的成長とはまったく独立に生まれてきた。それは革命的社会主義インテリゲンチャのあいだでの思想の発展の自然の、不可避的な結果として生まれてきたのである」。そして、90年代のなかごろにはそれが「労働解放」団の…綱領になって…、ロシアの革命的青年の大多数を味方にしていた。まさに、当時の社会民主主義者たちは、(「経済主義者」がいうように「条件がなかった」どころか)ストライキ闘争を専制にたいする革命運動にむすびつけ、抑圧のもとにさらされている人々を社会民主党のもとに獲得するために新聞の発行も試みられていた。


 しかし、残念ながらこうした企画は権力の弾圧によって実現できなかった。それは当時の社会民主主義者に革命的経験と訓練が不足してからであり、(革命の事業では)この経験から学び、実践的教訓を引き出すためには、あれこれの欠陥や意義を完全に理解する(意識する)ことが必要である。
 「経済主義者」たちは、欠陥を美徳にまつりあげ(→ 革命党の訓練不足という欠陥を直視せず、専制の打倒という任務方針が誤りであり、経済的扇動に重心を置くべきだという)
 自分たちの自然発生性への屈従と拝跪を理論的に基礎づけようとさえしている。

 2)自然発生性への拝跪 『ラボーチャヤ・ムィスリ』(注)

  1897年の初めに「労働者階級解放闘争同盟」の「老人組」と「青年組」が「労働基金組合規約」をめぐって鋭く意見を対立させ、激しい論戦が行われた。これがのちのロシア社会民主党の二つの潮流の対立へと発展していく。
 ここでレーニンが取り上げた『ラボーチャヤ・ムィスリ』の社説は「労働運動がこのような根強さを得たのは、労働者が自分の運命を指導者たちの手からもぎとって、ついに自分の手にそれをとりあげつつあるたまもの」だとか「政治はつねに従順に経済のあとに従う」と主張している。

 事実は社会民主主義者、「闘争同盟」の組織者が憲兵の弾圧によって「労働者の手からもぎとられた」のであり、「経済主義」の主張は「前進するよう、革命的組織を固めるよう、政治活動を拡大するようによびかけようとはしないで、後退するよう、組合主義的闘争だけをやるよう」よびかけるものだったが、これが当時の青年大衆に大きな影響をおよぼしていた。

  (注)『ラボーチャヤ・ムィスリ』=1897年から1902年に出された「経済主義者」の機関誌。              レーニンは国際日和見主義のロシアにおける変種と批判していた。

 レーニンはこうした状況に対しで社会民主党内に浸透しつつある経済主義(『ラボーチェエ・デーロ』)を検討・批判する視点として3つの事情についてふれ、次の節で詳しく展開している。
 第1の事情として、「意識性が自然発生性によって圧服されたのは、これまた自然発生的(外在的要因による力関係の変化の中でという意味?)におこなわれた」ことをあげ、「この圧服は二つの対立した見解が公然と闘って一方が勝った結果ではなく『老人組』の革命家が憲兵によって『もぎ取られ』、『青年組』がますます数多く舞台に登場してくることによっておこなわれた」ことを明らかにしている。(P59)


 第2の事情として、すでに「経済主義」の最初の文筆上の極めて特徴的な現象として、彼ら(注)が自分たちの立場を擁護するのに、ブルジョア的な「純組合主義者」の論拠にたよらざるをえないということがある。
  およそ労働運動の自然発生性のまえに拝跪すること、およそ「意識的要素」の役割、社会民主党の役割を軽視することは、とりもなおさず―その軽視する人がそれを望むと望まないとにはまったくかかわりなく―労働者にたいするブルジョアイデオロギーの影響を強めることを意味する。(P50)

 (注)一言でいえば「経済主義」だがレーニンは、①「純労働運動」の味方たち、②プロレタリア闘争との最も「有機的」な結びつきの礼賛者たち、③非労働者的インテリゲンチャの敵対者たちをあげている。


 第3の事情として「経済主義」という名称が新潮流の本質を十分正確に伝えるものでないことがある。『ラボーチャヤ・ムィスリ』は政治闘争を全く否定しているわけではなく、政治はつねに従順に経済のあとに従うと考えているだけである。政治闘争の否定というよりも、むしろこの闘争の自然発生性の前に、あるいは無意識性にたいして拝跪するのである。

 「組合主義は、往々考えられているように、あらゆる『政治』を排除するものではけっしてない。労組合は、つねにある種の(だが社会民主主義的ではない)政治的扇動や闘争をやってきた。」
  『ラボーチャヤ・ムィスリ』は労働運動そのもののなかから自然発生的にするが、社会主義の一般的任務と当時のロシアの諸条件とに応じた(今日で言えば、それぞれの国内的条件に応じた)特有の意味での社会民主主義的政治を自主的=意識的に作り上げることをまったくやらなかったのである。


 → レーニンは前節において「社会民主主義的意識は外部からもちこむほかはなかった」と述べているが、前述の3つの事情のうちの第2の事情の中で、特にこの問題をカウツキーのオーストラリア社会民主党の新綱領草案批判を引用して展開している。(言葉の当否には議論のあるところだが)これがいわゆる「外部注入論」である。

 引用されているカウツキーの論述の主要な点を4点にまとめると次のようになる。
 ①学説としての社会主義プロレタリアート階級闘争と同じく、今日の経済関係のうちに根ざしており、またそれと同じく、資本主義の生み出す大衆の貧困と悲惨にたいする闘争のうちから成立してくる。(注)
 ②社会主義階級闘争は、並行して生まれるものであって、一方が他方から生まれるものではなく、またそれぞれ違った前提条件のもとで生まれるのである。今日の経済科学はたとえば今日の技術と同じく、その担い手はプロレタリアートではなく、ブルジョアインテリゲンチャである。近代社会主義もやはりこの層の個々の成員の頭脳の中から生まれた。
 ③まず、はじめに知能のすぐれたプロレタリアに伝えられたのであって、ついでこれらのプロレタリアが事情の許すかぎりでプロレタリアート階級闘争のなかにそれをもちこむのである。
 ④だから、社会主義的意識はプロレタリアート階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない。したがって、プロレタリアートのなかに自分たちの地位と自分たちの任務とについての意識を持ち込む(=自覚を促す)ことが社会民主党の任務である。
  
 この引用の結論として、レーニンは次のようにまとめている。
 労働者大衆自身が彼らの運動の過程それ自体のあいだに独自のイデオロギーをつくりだすことが考えられない以上(注)問題はこうでしかありえない。
 ①ブルジョアイデオロギーか、社会主義イデオロギー、と。そこには中間はない。(な
   ぜなら、人類はどんな「第三の」イデオロギーもつくりださなかったし、…階級外の、あるいは超階級的なイデオロギーなど決してありえないからである)
 ②だから、およそ社会主義イデオロギーを軽視すること、およそそれから遠ざかることはブルジョアイデオロギーを強化すること意味する。
 ③労働運動の自然発生的な発展は、まさに運動をブルジョアイデオロギーに従属(屈服)させる方向にすすむ。なぜなら、自然発生的な労働運動とは組合主義であり、〔純組合主義〕であるが、組合主義とは、まさしくブルジョアジーによる労働者の思想的奴隷化を意味するからである。だから、われわれの任務、すなわち社会民主党の任務とは、自然発生性と闘争すること、ブルジョアジーの庇護のもとに入ろうとする組合主義のこの自然発生
   性的な志向から労働運動をそらして、革命的社会民主党の庇護のもとにひきいれることで
ある。(P63)

 (注)ところで、労働者階級が社会主義イデオロギーをつくりあげる仕事にまったく参加しないだろうか、そうではない。ただし、その場合にはプロレタリアとしてではなく、社会主義の理論家として社会科学の学習、理論的研究に参加する。そして彼らは労働者の中でその意識水準を高め、社会主義の思想を広めると同時に、自ら獲得した理論を実践的に検証するために極力骨をおるのである。

 また、レーニンは「自然発生的運動、最少抵抗線を進む運動がなぜブルジョアイデオロギーの支配に向かってすすむのか?」として、それはブルジョアイデオロギー社会主義イデオロギーより、その起源においてずっと古く、いっそう全面的に仕上げられていて、はかりしれないほど多くの普及手段(→ 特に今日の帝国主義国におけるその社会的=政治的経済的物質力はロシア革命当時とは比べものにならないほどである)をもっているためである」として、だからこそこれとの闘いが重要であることを訴えている。

 (社会主義者が反動的な労働組合や組織の中でも、そこに労働者が存在する限りはうまずたゆまず活動しなければならないという原理は、そうしなければ労働者階級はいっそう深くブルジョアイデオロギーのもとに隷属させられるということ、またこのことに無頓着であるということは、みずからの陣地を敵に明け渡すにひとしく、およそ革命を語ることそのものが空論でしかない)

 【いわゆる「外部注入論」の考え方】
 往々にしてレーニンが労働者の自然発生性はダメなんだ、と言っているかのように誤解され、さらには「無知な労働者に知識のあるインテリ活動家が理論を吹き込む」と言った反共イデオロギーの宣伝にさえ使われている。しかし、これはレーニン組織論の核心をなす部分であり、正確に理解することが是非とも必要である。

 ① レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中でも、「資本主義によって訓練されたプロレタリアート」と規定し、また『論集十二年間』の序文においても「客観的な経済的理由から最大の組織能力をもつプロレタリアート」と述べているように、労働者階級の自然発生的能力を客観的、歴史的なものとして積極的に評価しているのである。これはマルクスの『共産党宣言』でも明らかにされている核心的内容でもある。
 革命は、労働者階級のこの組織能力(労働者階級が自然発生的に結合し、団結していく革命的能力)と結びつくことなしには成し遂げることができない。
 しかし、プロレタリアートは資本と賃労働が本質的、非和解的に対立しているという感覚は自らの歴史的経験をとおして獲得できる(※注)が、自分自身の歴史的、経済的存立基盤である資本主義の体制そのものを転覆し、プロレタリアートの権力と置き換えなければならないという共産主義的意識(イデオロギー)は自然発生的な闘争のなかからは身につけることはできない。レーニンが強調しているのは、この関係をはっきりさせることなのである。

   ※注)「ある人には脅し道具としか見えない工場こそ、まさにプロレタリアートを結合し
     訓練し、彼らに組織を教え、彼らをその他すべての勤労・被搾取人民層の先頭に立たせた
     資本主義的協業の最高形態である。資本主義によって訓練されたプロレタリアートのイデ
     オロギーとしてのマルクス主義こそ、浮動的なインテリゲンチャに、工場が備えている搾
     取者の側面(餓死の恐怖に基づく規律)と、その組織者としての側面(技術的にも高度に
     発達した生産の諸条件によって結合された共同労働に基づく規律)との相違を教えたし、
     いまも教えている。ブルジョアインテリゲンチャには服しにくい規律と組織をプロレタ
     リアートは、ほかならぬ工場というこの『学校』のおかげで、特にやすやすとわがものに
     する」(『一歩前進、二歩後退』)

 ②「労働者階級は自然発生的に社会主義に引きつけられる」(労働運動の階級的、自然成長的発展の延長上に革命を描こうとする「経済主義者」の論拠でもある)という見方について。

 この言葉が正しいのは、「社会主義理論は、最も深く、また最も正しく労働者階級の困苦の原因を示しているので、…労働者はこの理論をきわめて容易にわがものにする、という意味である」(P67)
 ただし、現実の過程は「労働者階級は自然発生的に社会主義にひきつけられるが、それにもかかわらず」、(労働者が自然発生の前に降伏し、意識性をもたなければブルジョア社会の中で)「最も多く押し付けられてくるものは、最も普及しているブルジョアイデオロギーである」
    
 ③学説としての社会主義理論はブルジョアインテリゲンチャによって成立したものであるが、その出発点は資本主義が生み出す経済関係、その貧困と悲惨に対する労働者階級の闘い、この怒りに根拠をおいているということである。この点を否定ないし曖昧にしてプロレタリアートを解放の主体として位置づけない場合には、労働運動はたんなる救済運動、空想的社会主義でしかなくなる。
  
 ④「外部から持ち込む」という意味についてレーニンは次章の第5節で「階級的・政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない」と誤解の生じようのない言い方で明確に述べている。

 資本主義の国家そのものを打倒するという立場にたつためには、革命のための理論が必要であり、それは労働者の運動の中から自然発生的には作られない、経済闘争の外部からしかもたらし得ない。そして、もうひとつ労働者階級の政治意識の成長を阻んでいるのは彼らの全生活を覆うブルジョアイデオロギーの洪水なのである。
 したがって、「持ち込む」の意味は、労働者をブルジョアイデオロギーの影響から遠ざけ、「自然発生的な経済闘争」に対して「意識的な政治闘争」に目を向けさせること。
 そのためには労働者階級の闘いの中だけではなく、あらゆる階級、階層の政治的現れに精通し、それを暴露できる特定の組織をつくることが必要だ、ということを提起しているのである。

 ⑤「社会主義理論がプロレタリアート階級闘争と別個に成立した」ということを強調するあまり、学説としての社会主義理論を階級闘争から切り離し、労働者階級の闘いとは無縁な純粋理論として成立したかのように描き出すこと、これを階級闘争の場に持ち込むことが必要なのだ、と理解する誤りである。スターリン主義は、労働運動の自然発生的要素を蔑視し、労働者の主体性を無視し、党の路線を労働組合に「外部から持ち込み」押し付け   る、いわゆる「引き回し」を行ってきたのである。
  
 3)「自己解放団」と『ラボーチェエ・デーロ』

 ・『ラボーチャヤ・ムィスリ』(「労働者の思想」)

                  創刊号1897年10月
 ・『労働者自己解放団の檄』        1899年3月
 ・『ラボーチェエ・デーロ』創刊号     1899年4月

   『ラボーチャヤ・ムィスリ』は初めから経済主義潮流としての姿をだれよりもあざやかに示していたが、少し遅れて『労働者自己解放団の檄』も同様の結論をひきだし、経済主義の特徴を鮮明にした。ついで活動を開始した『ラボーチェエ・デーロ』は、はじめから「経済主義者」を「擁護した」だけでなく、自らもたえず「経済主義」の基本的誤謬に迷い込んでいった。この誤りの根源は、彼らの綱領のなかにある「大衆運動が『任務を規定する』」という命題に対する理解、これへの態度をめぐる対立に問題の核心があった。

 「これは二とおりの意味に理解することができる。すなわち、この運動の自然発生性の前に拝跪するという意味、つまり、社会民主党の役割を、あるがままの労働運動への単なる奉仕に帰着させるという意味(これが、『ラボーチャヤ・ムィスリ』、『自己解放団」その他の『経済主義者』の理解である)」そして、もう一つは「この大衆運動が発生する以前の時期にはそれで足りていた任務にくらべて、はるかに複雑な、あたらしい理論上、政治上、組織上の諸任務を大衆運動がわれわれに提起するという意味」にも理解することができた。
 そして、この第一の理解に傾いていた『ラボーチェエ・デーロ』は、「大衆的労働運動にたいして専制の打倒を第一の任務として提起することはできないと考えて、この任務を(大衆運動の名において)最も身近な政治的要求のための闘争という任務に低めた」(P72~73)

 →『ラボーチェエ・デーロ』第7号(ペ・クリチェフスキーの論文)の引用
 「政治闘争における『段階論』」(P74)
 「政治的要求は、その性格上、全ロシアに共通であるが、しかし、はじめは」「当該の労働者層(原文のまま!)が経済闘争から引きだした経験に合致するものでなければならない。この経験にもとづいてのみ(!)、政治的扇動に着手することができるし、また着手しなければならない」「マルクスエンゲルスの学説によれば、個々の階級の経済的利益が歴史上決定的な役割を演じるのであり、したがって、とくに自己の経済的利益のためのプロレタリアートの闘争が、プロレタリアートの階級的発展と解放闘争とによって、第一義的な意義をもたなければならない…」

 これに対して、レーニンは次のように批判している。
経済的利益が決定的な役割を演ずるからといって、したがって経済闘争(労働組合闘争)が第一義的な意義を持つという結論には、けっしてならない。なぜなら、諸階級のもっとも本質的で、『決定的な』利益は、一般に根本的な政治的改革によってはじめて満足させることができるし、とくにプロレタリアートの基本的な経済的利益は、ブルジョアジーの独裁をプロレタリアートの独裁でおき代える政治革命によって、はじめて満足させることができるからである」(74P)

 →『ラボーチェ・デーロ』第10号の主張
 「行いうる闘争こそのぞましく、そして現瞬間に行われている闘争こそ、行いうる闘争である」「計画としての戦術はマルクス主義の基本精神とあいいれない」「戦術とは『党とともに成長する党任務の過程』」

 レーニンは、こうした主張こそが、自然発生性に拝跪する、日和見主義潮流の綱領そのものであると指弾し、「マルクス主義にたいする中傷であり、かつてナロードニキがわれわれとのたたかいにあたってえがいてみせた、まさにあの戯画に、マルクス主義を変えてしまうものである」と批判する。

 そして、「国際社会民主主義者の全歴史は、あるときは甲の、あるときは乙の政治的指導者によって提出された計画で満たされており、ある人々の政治上・組織上の見解の先見と正しさを実証し、他の人々の短見と政治的誤謬をあからさまにしている」(P76)

 「歴史がその最後の判定をくだしてから多くの年月がたったあとで、昔をかえりみ、党とともに成長する党任務の成長という格言によって自分の深遠さを示すのは、もちろんむずかしいことではない。しかし、ロシアの『批判家』や『経済主義者』が社会民主主義を組合主義に低めており、またテロリストが、古い誤りを繰り返す…混乱の時期にこのような深遠な迷論でことをすませるのは、自分自身に『貧困証明書』を発行するというもの」「多くの社会民主主義者が、ほかならぬ創意と精力に不足し、『政治的宣伝、扇動、組織の規模』に不足し、革命的活動をいっそう広範に組織するための『計画』に不足している時期に『計画としての戦術ということはマルクス主義の基本精神にあいいれない』などとかたるのは、理論的にマルクス主義を卑俗化するだけでなく、さらに実践的に党をうしろへ引きもどす」(P77)ものだと断罪している。

 また、「マルクス主義が意識的な革命的活動に正しくも巨大な意義を与えていることに心を奪われて、実践上では。発展の客観的あるいは自然発生的要素の意義の軽視におちいっている」という『イスクラ』への批判にこたえて次のように反論している。
 「もし主観的計画の立案者(=経済主義者)が客観的発展を『軽視する』とすれば、それはどういう点に現れるだろうか?この客観的発展があれこれの階級や階層や集団、あれこれの民族や民族群などを、あるいはつくりだし、あるいは強め、あるいは滅ぼし、あるいは弱めそれによってあれやこれやの国際的な政治的勢力編成や、革命的政党の立場等々を条件づけていることを…見おとす点に現れる」(つまり意義の軽視とか重視とかいう問題ではなく)指導者は具体的な「客観的発展を正しく理解する意識性」が必要なのだと言っている。

 最後に結論として、ロシア社会民主党内の「新しい潮流」の基本的誤りは、自然発生性の前に拝跪する点に、すなわち「大衆が自然発生的であればこそ、われわれ社会民主主義は多くの意識性をもつ必要があることを理解しない点にあることを確信するにいたった」「大衆の自然発生的な高揚が大きければ大きいほど、運動がひろまればひろまるほど、社会民主主義派の理論活動においても、政治活動においても、組織活動においても、多くの意識性をもつ必要が、くらべものにならないほどいっそう急速に増大する」(82P)

 そして、1890年代のロシアの革命運動は「理論」でも活動でも大衆運動の自然発生的高揚に立ち遅れてしまい、運動全体を指導する能力のある、中断のない、継承性のある組織をつくりだすことができなかった。この巨大な任務を成し遂げるためには、①対政治警察との闘いにおいて、②理論、政治、組織活動において訓練を欠いていた。と総括している。
 また、革命党の指導者の意識性、役割とは「いろいろな問題にあらかじめ理論的に解答をあたえ、そのあとで(実際の経験を通して)この解答の正しいことを組織にも、党にも大衆にも納得させる」ということであり、そうして「大衆運動を『自分の綱領』のところまで引き上げる」ことこそが社会民主主義党の役割なのだ、と言っているのである。
  経済主義に迷いこむ根源的理由は、大衆追随主義にあるということ。裏返せば意識的活動の困難さ、壁の厚さの前に圧倒され、自然発生性の前に拝跪し、その範囲での闘いこそが党の一義的任務であると信じ込むのである。大衆運動の発展が、共産主義者、革命党に突きつけている革命的役割、任務をあらかじめ推理し研究し、それに応えぬくことこそが革命党たらしめる、ということ。それ以外のことで大衆運動が問題を解決する、ということはない。
                                                                                                 (第3回に続く)

レーニン「なにをなすべきか?」学習ノート (第一回)

    目次  
 序 レーニン組織論の形成過程(末尾年表参照)
  1)「なにから始めるべきか」でレーニンが提起した三つの問題
  2)「われわれの組織上の任務について一同志にあたえる手紙」
  3)『なにをなすべきか?』の意義
   ・プロレタリアートの組織性 ・「生きた人々」の意味
 第一章  教条主義と「批判の自由」   
  1)自然発生的高揚の始まり   2)「批判の自由」の新しい擁護者たち
  3)ロシアにおける批判   4)理論闘争の意義についてのエンゲルスの  所論
 第二章 大衆の自然発生性と社会民主主義者の意識性
  1)然発生的高揚の始まり  2)自然発生性への拝跪 『ラボーチャヤ・ムィスリ』
   ・いわゆる「外部注入論」について
  3)「自己解放団」と『ラボーチェエ・デーロ』
 第三章 組合主義的政治と社会民主主義的政治
  1)政治的扇動、および経済主義者がそれをせばめたこと
   ・「政治的扇動」の意味はなにか
  2)マルトィノフがプレハーノフを深めた話
  3)政治的暴露と「革命的積極性をそだてること」
   ・「労働過程」論と人間の意識=認識の形成についての考察
  4) 済主義とテロリズムには何か共通点があるか
  5)民主主義のための先進闘士としての労働者階級
  6)もう一度「中傷者」、もういちど「瞞着者」(略)
 第四章 経済主義者の手工業性と革命家の組織
  1)手工業性とはなにか?   2)手工業性と経済主義
  3)労働者の組織と革命家の組織
   ・労働者の組織と革命家の組織との区別と関連 
   ・専制下のロシアにおける労働者組織の建設
  4)組織活動の規模
   ・専門化と分散化、集中化と分業論に関する考察
  5)「陰謀」組織と「民主主義」  6)地方的活動と全国的活動
   ・全国的政治新聞の必要性 ・全国的政治新聞の性格とそのための組織条件
 第五章 全国的政治新聞の「計画」
  1)だれが論文「なにから始めるべきか?」に感情を害したか? (略)
  2)新聞は集団的組織者になることができるか
  3)われわれにはどのような型の組織が必要か

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

【序】「なにをなすべきか?」の背景と意義
 
1)「なにから始めるべきか」でレーニンが提起した三つの問題

 1800年代末のロシアでは、地方の社会主義者がそれぞればらばらにサークル的な活動を始めており、そのもとでプロレタリアートの自然発生的・組合主義的な闘いが急速に高揚を見せ始めていた。そして、地方の社会主義者のサークルはそうした労働者階級に対する経済主義的宣伝・扇動、狭い枠の中での組織化ということに全精力を費やしていた。レーニンの「なにをなすべきか?」はそうしたサークル的、手工業運動の在り方に対し、単一の全国党組織への統合の必要性、経済主義的宣伝を専制政府打倒のための政治宣伝・扇動に置き換える必要があること、その為の集団的組織者としての役割を担うのが「全国的政治新聞」でなければならないと提起したのである。
   
 レーニンが序文で述べているように、当初は「なにからはじめるべきか」で提起した内容の具体化として
  ①政治的扇動の性格と主要な内容の問題
  ②われわれの組織上の諸任務の問題
  ③さまざまな方面から同時に全国的な戦闘組織を建設してゆく計画の問題というように組織建設上の極めて実践的な問題を提起する計画だった。

 だが、レーニンのこの計画に対する『経済主義者」との見解の相違は予想以上に根深かった。経済主義者との論争に決着をつけない限り、全国的な革命党の統一的建設を一歩も前に進めることはできないと考えたレーニンは、①と②について「意見が相違しているすべてについて」解説しながら「系統的に話し合う」試みをおこなった、と述べている(注)。

 しかし、意見の相違は想像以上に大きく、深刻なものだった。経済主義者との対話が成功しないことを知ったレーニンが、当初の非論争的な方法で行うつもりだった経済主義者に対する批判を論争的な方法に置き換え、論駁し尽くすものとして著したのが「なにをなすべきか?」である。

 本著作では、この①に対応する課題が第3章、②に対応する課題が第4章、③に対する課題が第5章として書かれており、また経済主義者の特質が理論闘争の軽視にあることを指摘し、この点にこそ科学としてのマルクス主義を否定し、卑俗化する根拠があることを明確にする為に第2章が当てられている。


 (注)『経済主義者の擁護者たちとの対話』(1901.5)
「この傾向はつぎのことを特徴としている。すなわち、原則的な点では、マルクス主義を卑俗化し、日和見主義の最新の一変種である今日の「批判」にたいして無力であること。
政治的な点では、政治的扇動と政治闘争をせばめ、あるいはこれを些末な事柄にとりかえようとつとめ、社会民主主義派は一般民主主義運動の指導権を自分の手に握ることなしには専制を転覆できないということを理解しないこと。戦術的な点では確固さをまったく欠いていること…。組織的な点では、運動の大衆的性格は、準備闘争であろうと、どのような思いがけない爆発であろうと、また最後に最終の決定的攻撃であろうと、そのどれをも指導する能力のある、強固な、中央集権化された、革命家の組織をつくりだすというわれわれの義務を…理解しないこ


2)「われわれの組織上の任務について一同志にあたえる手紙」


  「なにをなすべきか?」の中でもそれぞれの課題について基本的な回答はあたえられているが、より実践的な組織建設上の問題意識やレーニンの構想は「われわれの組織上の任務について一同志に与える手紙」(1902.9)によって知ることが出来る。
 そこに貫かれているのは、徹底した党組織の防衛=秘密性を保持しながら中央集権化された組織をどう作るかということである。

  「運動の直接の実践的指導者となりうるのは、特別な中央グループ(これを中央委員会とでも名づけよう)だけであって・・・いっさいの全党的な仕事を指揮するものである。厳重な秘密活動を行い、運動の継承性を保つ必要があるため、わが党には二つの指導的中心、中央機関紙と中央委員会があってもよいし、なければならない。

 前者は思想的に指導し、後者は直接に実践的に指導しなければならない。この両グループのあいだの行動の統一と必要な意見の一致は、単一の党綱領によって保障されるだけでなく、両グループの構成に(互いに協調をたもつ人々がはいる必要がある)によっても、また、両者の定期的、恒常的な協議の制度によっても、保障されなければならない」と述べた上で、党員の意見を述べる権利については「すべての希望者の手紙がかならず編集局に伝達されること」「・・また活動の全参加者、ありとあらゆるサークルがその決議、要望、要請を委員会へも、また中央機関紙や中央委員会へでも通報する権利を持つようにすること」とし、「もちろん、できるだけ多数のありとあらゆる活動家の個人的協議を組織するように、このうえともに努力することは必要であるが、ここでの眼目は秘密活動である」と明確に述べている。

 さらに、「秘密活動の全技術は、いっさいのものを利用し、『すべてのものにそれぞれ仕事をあたえ』それと同時に、全運動の指導権を保持すること、いうまでもなく権力によってではなく権威の力によって、精力によって、より多くの熟練、より多くの多面性、より多くの才能の力によって保持されなければならない」また「ときには組織者として全然役にたたない人間が、かけがえのない扇動家であったり、厳重な秘密活動の堅忍性にたいして無能な人間が卓越した宣伝家であったりする等々のことを忘れずに」十分な分業を実施すること、言うなれば党員の実務的能力・専門的能力を十分に引き出すことの出来る任務配置の問題、指導の中央集権化と党員あるいは党に同調しているサークルの党に対する責任を出来るだけ分散化すること、などが述べられている。


 → 党員の専門的能力に応じた分業の実施とは、すなわち党への責任の分散であると同時に、個々に与えられた任務への使命感、責任感を最大限にひき出し得る形態でもある。適切な分業と専門化は、結果として党の任務全体への責任が貫徹されるということである。こうした形態をとり得るのは中央集権化した指導部と、そこでの適切な任務配置による以外にない。
 また、こうした中央集権的な実践指導と任務配置の専門化・分散化によってこそ厳格な秘密活動を維持することができるのであるが、そのためには党中央は運動のあらゆる事情や各組織が抱えている問題に熟知していることが前提となる。

 レーニンは一切の眼目を秘密活動としたうえで、定期的な組織的協議=討議に加え、可能な限り多くの活動家間での闊達な協議=討論を組織するよう求めていた。
 さらに、全ての希望者の手紙がかならず編集局や中央に伝達されること、つまりすべての党員の率直な意見、要望、要請を無条件に党中央に集中させることによって、秘密組織であるという制約のもとで、直接民主制にかわる党内民主主義を実現しようとしたのである。
    
 中央集権の組織が上意下達の官僚主義的で硬直したものに変質してしまうのは、この中央~ 細胞(党員)の対等な関係が歪められ、断たれてしまう結果だ。党員相互の討論を分派活動として禁じたり排斥する、あるいは地方組織の権限が強められ、下部の意見が却下または歪められる。いずれにしてもスターリン主義によって解体されてきたレーニン主義組織論が、あたかもそれ自身の中にスターリン主義発生の根拠があるかのように吹聴され、これに屈服して他の組織形態を模索するなど、いま現在も革命諸党派の組織論上の混迷と模索が続いている現状を打開しなければならない。

 スターリン主義を克服せんとした筈の反スタ党派が停滞、衰退、破綻を突きつけられる中、レーニン主義組織論の原点に立ち返って、その理解のしかたそのものを再検証することが必要であるように思われる。


 3)『なにをなすべきか?』の意義


 レーニンは、論集「12年間」(1907.11)の序文の中で『なにをなすべきか?』の意義について次のように述べている。

①この小冊子は、もはや論壇の諸潮流の中の右翼にたいする批判ではなく、社会民主党内の右翼にたいする批判にあてられている。(社会民主党内に生み出された「経済主義」との)意見の不一致の原因とイスクラ派の戦術、および組織活動の性格とを系統的に叙述している。

②1901年と1902年のイスクラ派の戦術、イスクラ派の組織政策の総括である。まさに「総括」であって、それ以上でもなければ以下でもない。
 →1901年から02年当時の世界共産主義運動の流れ、ロシアの歴史的、政治的条件の中でイスクラ派がとった戦術とその総括であるということ(従って、それぞれの国の歴史的、政治的条件を考慮せずにそのまま当てはめるのではなく、普遍性と特殊性をしっかり読み取ること)

③『イスクラ』は、職業革命家の組織をつくりだすためにたたかった。・・当時優勢だった経済主義うち負かし、1903年には最終的にこの組織を創立した。

④わが党のこの最大の団結、堅固さおよび安定性を一体だれが実現し、これに生命をあたえたか? なによりも『イスクラ』の参加のもとにつくられた職業革命家の組織がそれをなしとげたのである。

⑤『なにをなすべきか?』は「真に革命的な、自然発生的に闘争にたちあがる階級」と結びついてはじめて、この闘争のなかでまもられる組織が意味をもつことを、くりかえし強調しているのである。だがプロレタリアートが、階級へ結合する最大の能力を客観的にもっているとしても、この能力は、生きた人々によってしか実現されないし、特定の組織形態でしか実現されない。そしてイスクラ組織のほかには他のどんな組織も……このような社会民主労働党を創立することはできなかった…。


 プロレタリアートの組織性】
 「プロレタリアートの組織性」とは資本主義的生産がもつ歴史的、経済的条件に規定され主体的には自らの労働力を資本に売る以外には生産手段を持たず、したがってより高く労働力を売るために自然発生的に団結する能力をもった階級であること、客観的には資本主義的生産そのものが、その担い手である労働者に組織的である(協業と分業)ことを求め、そのために訓練するということである。

 そのことは、他方では不断にブルジョアイデオロギーに晒され、自らの利益のためではなく資本の利益のためにのみ組織的であるように(そうすることが労働者自身にとっての利益でもあるかのような幻想すら与えて)、またそうしなければ生きられないように強制されるということである。
  
 【「生きた人々」の意味】
 レーニンは労働者階級の自然発生性を軽視していたわけではない。逆に「真に革命的な、自然発生的に闘争にたちあがる階級」と結びつかなければ革命的組織は意味を持たないと言っている。そのうえで、プロレタリアートが階級に結合する能力を客観的に持っているとしても、そのままでは革命に突き進むことはできないと指摘している。

 では、そのあとの「生きた人々」とはどういう意味なのか。労働者階級は賃金奴隷として一日の一定時間、その労働力の行使を資本の処分に委ねる。労働から解放され家に帰って食事をし、家族と過ごし、体調を整え休養をとる、あるいは街に出て買い物をしたり趣味のために時間を費やす等々がつかの間の人間性をとりもどす時間だといってもよいだろう。

ところで、その私的生活そのものさえ国家によって収奪され、監視され政治的抑圧や迫害に満たされていないだろうか。労働者階級が革命に突き進むためには資本との関係で自然発生的に団結して闘うのみならず、こうした人間生活のすべての面における政治的表れを資本とその政治権力=国家を打倒すための政治闘争に集約していくことが必要なのだ。まさに「生きた人々」をとらえることのできる組織がなければ革命はできないということなのである。


 第一章  教条主義と「批判の自由」


 1)「批判の自由」とはなにか?

 「今日の国際的な社会民主主義派のなかに二つの傾向ができあがっている…」「批判の自由」の名のもとに、①『古い、教条主義的』(だとの汚名を着せられている)マルクス主義の潮流と ②この『批判的』態度をとっている『新しい』傾向

 → 「イギリスのフェビアン派も、フランスの入閣論者(=ミルラン、急進社会党から転向し後に、第12代大統領になった人物)も、ドイツのベルンシュタイン主義者もすべてこうした連中は一家族をなして」いる。

 → ベルンシュタインらの主張とは、①社会主義を科学的に基礎付け、その必然性・不可避性を唯物史観の見地から立証することを否定すること。②したがって、社会主義自由主義は原則的に対立するものであることを否定し、社会革命の党を社会改良の党へと変質させようとするものである。③階級闘争の理論は、多数の意思にしたがって統治される厳密な民主主義社会とは相容れないと主張し、かつ「終局目標」の概念すなわちプロレタリア独裁の思想を排撃することである。


 これは「革命的社会民主主義からブルジョア社会改良主義にむかって決定的に転換せよ、という要求」であり、それは「マルクス主義のすべての基本的思想のブルジョア的批判への転換」をともなっておこなわれた。
   
 つまり、国際社会民主主義内の新しい潮流とは「…日和見主義の新しい変種以外のなにものでも」ないし、また「『批判の自由』とは、社会民主主義派内の日和見主義的傾向の自由であり、社会民主主義を民主主義的改良党に変える自由であり、社会民主主義の中にブルジョア思想とブルジョア的要素とを植えつける自由である」


 「自由とは偉大なことばではある。しかし産業の自由という旗印のもとで最も強盗的な戦争がおこなわれてきたし、労働の自由という旗印のもとで労働者は略奪されてきた。『批判の自由』ということばの今日の使い方にも、これと同じ内面的虚偽がひそんでいる」

 「自分の手で科学を前進させたと真に確信している人なら、古い見解とならんで新しい見解を要求するのではなく古い見解を新しい見解と置き換えることを要求するはずである」(P19)


 → 日和見主義の特徴は、彼らがマルクス主義の理論を真っ向から否定、あるいは論駁をせず、部分的にこっそりとすり替えて、なにか新しい革命的な見解を見出したかのように吹聴し、社会科学として確立されたマルクス主義の体系的理論を歪曲・破壊することにある。
   
 2)「批判の自由」の新しい擁護者たち


 「批判の自由」を『ラボーチェエ・デーロ』が政治的要求として提出した。
 これは「国際社会民主主義派内の日和見主義的傾向全体の弁護を引き受けるということ」であり「ロシア社会民主主義派内の日和見主義の自由を要求しているということである」

 ・『ラボーチェエ・デーロ』の主張
 「今日の社会主義運動のなかには階級利害の衝突というようなものはない。この運動全体が、…ベルンシュタイン主義者までも含めて…すべて、プロレタリアートの階級利害の基盤に、政治的および経済的解放をめざすプロレタリアート階級闘争の基盤に立っている」
 ・レーニンは、国際社会民主主義内の日和見主義的潮流がフランス、ドイツでどのように現れたかを明らかにし、つぎにロシアにおける社会民主主義派内の日和見主義、その代弁者である『ラボーチェエ・デーロ』が、自分たちの見解として真っ向から押し出さないやり方、自分の論拠を明らかにしないやり方で日和見主義を擁護していることを暴露している。

 →ドイツの「猿まね」、ロシアにおける『ラボーチェエ・デーロ』の「かくれんぼう遊び」とは、このように隠然と日和見主義を持ち込み、あるいは自分の見解をかくして日和見主義を擁護することをさしている。
 ・世界の共産主義運動の中で「それぞれの条件や歴史性に照応し形態を変えて登場してくる日和見主義」は、常にマルクス主義を語りつつ、それを正面から理論的に否定するのではなく、部分的にすりかえ「新理論」のように見せかけるという点で共通している。


 3)ロシアにおける批判


  ロシアの事情と特徴
 → 革命的マルクス主義と「『合法マルクス主義』の蜜月」
 「たとえ信頼できない人々とでも、一時的同盟を結ぶことをおそれるのは、自分で自分を信頼しない人々だけがやれることである。それにこのような同盟をむすばずにやっていける政党は、ただの一つもないであろう」

 レーニンは「合法マルクス主義」が権力に許容されたインテリゲンチャの運動ではあるが、非合法下のロシアにおいて、マルクス主義理論を普及するのに一定の役割を果たしたことを評価しつつ、このような「同盟をむすぶための不可欠の条件」は、それ(マルクス主義の理論)によって「働者階級とブルジョアジーの利益とが敵対的なものであることを労働者階級に明らかにする完全な可能性をもっている」ことだと述べている。

  → ところが典型的には『クレード』の主張として顕在化した、ロシアにおける社会民主主義運動は、合法的批判(「合法マルクス主義者」が権力に許容されたベルンシュタイン主義に転向し、階級対立は緩和していると説く潮流)と非合法的経済主義との潮流が結びつき蜜月を形成している。

 「社会革命やプロレタリアートの独裁などの思想を不条理な考えであると宣言し、労働運動と階級闘争を狭い組合主義と小さい斬進的改良のための『現実主義的』闘争とに帰着させること」によって、この(同盟を結ぶための条件)可能性は否定された「これは、ブルジョア民主主義者が社会主義の自主権を、したがってまたその生存権を否定した」に等しいのだと批判している。
   
(補1)ロシア資本主義がツアー専制によるボナパルティズム的支配のもとに成立してきたという特殊歴史性に規定され、はじめのうちは専制の打倒という点でブルジョアインテリゲンチャとの同盟関係を形成できたが、資本の成長とともに次第にプロレタリアートブルジョアジーとの対立が顕在化してきたと言うことであり、歴史の必然なのかもしれない。それはレーニンの組織論、革命論の形成過程とも密接に関係していると思われる。


(補2)革命党の任務は労働者階級を宣伝・扇動を通して教育し、ブルジョアジーによるイデオロギーのくびきから切り離し、階級意識を高めていくことであり、その可能性と条件がある限り、政府に反対し抵抗するあらゆる勢力と同盟を結ぶことは可能だし、しなければならない。レーニンは一貫してこうした立場を主張しているのである。
       
 「ボルシェビズムの歴史全体を通じて、十月革命の前にも後にも、迂回政策や協調政策、ブルジョア政党をはじめとする他の政党との妥協の例がいっぱいある……」と述べて、多くの例を引きながら、「しかも同時に、ブルジョア自由主義に対し、また労働運動内部のブルジョア自由主義の影響の最も小さな現れに対しても、きわめて容赦ない、思想的な、政治的な闘争を行う術を知っており、それを中止しなかった」       (『共産主義における「左翼」小児病』)


 レーニンボルシェビキ専制と闘うあらゆる勢力との同盟=統一戦線を重視したし、そのために闘いの方向性がそらされるという危険性が常にはらんでいることも自覚していた。だからこそ党が自分自身を見失わないための理論闘争が重要であることを強調し、党内での理論上の曖昧さ、不一致を克服するために闘ったのである。
 逆説的に言えば、理論闘争を軽視するものは広範な勢力との統一戦線を恐れ、偏狭な独善的組織へと自分を追い込んでいく以外ない。
 
 4)理論闘争の意義についてのエンゲルスの所論

 『ラボーチェエ・デーロ』の「教条主義、空論主義」「思想の硬直化」等々の批判は「理論的思考の発展にたいする無頓着と無力を隠すもの」「悪名高い批判の自由なるものが、ある理論を別な理論と置きかえることではなく、いっさいの、まとまりのある、考え抜かれた理論からの自由を意味し、折衷主義と無原則性を意味する」(→すなわち原則の否定)。
 レーニンは、こうした理論的思考への無頓着や無原則性があらわれる原因が、①マルクス主義の広範な普及にともなって理論水準がある程度低下したこと  ②運動が実践的意義を持ち、また実践的成功をおさめるようになって理論的素養の乏しい人々、それどころか全然そういう素養のない人々までが大ぜい運動に参加してきたという点を指摘しつつ、『ラボーチェエ・デーロ』の主張は「マルクスの名において理論の意義を弱めよう」とするものだと断罪し、その例として「『現実の運動の一歩一歩は1ダースの綱領よりも重要である』というマルクスの金言を勝ち誇ったようにもちだして」いることを例にあげ、この的外れで無頓着な引用(※注)に見られるものこそは理論の軽視に他ならないと喝破している。
  

 ※注→このマルクスの言葉というのは、ゴータ綱領がアイゼナッハ派に譲歩し折衷主義的になってしまったことを総括して、マルクス・エンゲルスが「綱領よりも重い教訓を得た」という意味で言ったもので「もし、是非とも提携しなければならないのなら運動の実際的目的を満たすために協定をむすぶがよい。けれども、原則の取引を許してはならない。理論上の『譲歩』をしてはならない」といっているのであり、原則を曖昧にしたまま運動の拡がりのみ目的にすることを戒めているのだ。


 次に、レーニンエンゲルスの『ドイツ農民戦争』の序文を引用し、理論活動は労働運動の勝利のために必要であるとともに、それは労働運動の指導者にとっての義務でもあることを確認している。
 
 「エンゲルスは、社会民主党の大きな闘争の形態として、二つのもの(政治闘争と経済闘争)をみとめるのではなく、――わが国ではこうするのがふつうであるが――理論闘争をこの二つと同列において三つの形態をみとめている」
 労働者階級が潜在的に革命的能力を持っているにもかかわらず、それを自覚し得ないのはなぜなのか。イギリスやフランス、スペインその他の労働者階級がすばらしい戦闘性、組織性を発揮しながらも後退を余儀なくされ、異質なものになってしまったのはなぜか。それを理論活動に秀でたドイツの革命党建設と対比しながら考察し、革命党、とりわけその指導者の義務として理論的研究が重要なのだということを述べている。レーニンマルクス・エンゲルスの問題意識を実践的に継承・発展させるものとして前衛党組織論を確立し、そうすることによってはじめてロシア革命の基礎がつくられたのである。
   
 (ドイツの労働者がヨーロッパの他の国々の労働者と比べて理論的感覚をもっていたこと、イギリスの労働組合やフランスの経済闘争の先例に学ぶことができるという利点を生かすことで)「労働運動が生まれていらい、ここにはじめて闘争は、その三つの側面――理論的側面、政治的側面、実際的・経済的側面(資本家に対する反抗)にわたって、調和と関連をもちつつ、計画的に行われている」ここにドイツの運動の強さと不敗の力がある。そうであれば、なおさら「指導者の義務は、あらゆる理論的問題についてますます自分の理解をふかめ、古い世界観につきものの伝来の空文句の影響をますます脱却し、そして社会主義が科学となったからには、また科学としてとりあつかわなければならないこと、すなわち研究しなければならないことをたえず心にとめておくことで
  あろう」<エンゲルスの『ドイツ農民戦争』序文> P45)

  
 第一章でレーニンが提起していることは、
  ①指導者が理論活動の義務(研究)を果たし
  ②そこで獲得された理解を党派闘争と労働者階級の理論的感覚を形成するために適用しなければならない、ということ。
  → 革命的理論なしには革命的運動もありえない」
                                <第二回に続く>


  【レーニンと組織論形成過程】

1895年 10月 「闘争同盟」メンバー一斉検挙
1895年 末~96年夏 レーニンは獄中で『社会民主党綱領草案と解説』を執筆
1898年   ロシア社会民主労働党第一回大会)
1899年   ドイツ社会民主党のベルンシュタインが公然とプロ独に反対する改良運動を提案。ロシアの「経済主義者」グループが『青年組のクレード(信条)』を発表
1899年 8~9月 レーニン「クレード」に対し『ロシア社会民主主義者の抗議』 『われわれの綱領』『われわれの当面の任務』を執筆し反論
1900年 1月 シベリア流刑を終え、1899.7月に出国したレーニンジュネーブでプレハーノフらと合流
  12月 イスクラ」創刊号発刊。経済主義者との闘争開始
1901年 5月 『なにから始めるべきか』(「イスクラ」第4号) 『経済主義者の擁護者たちとの対話』
1902年 2月 『なにをなすべきか?』執筆
  9月 『われわれの組織上の任務について一同志にあたえる手紙』 (→1904.01にジュネーブで小冊子として再刊)
1903年 8月 (ロシア社会民主党第二回大会)
1904年 1月 『一歩前進、二歩後退』(第二回大会の総括と分析)
1905年   血の日曜日」~1905年革命 /(ロシア社会民主党第三回大会)中央機関を中央委員会に一本化(編集局との並立を廃止)、中央委員の選出に選挙制を適用
1906年   (ロシア社会民主党第四回大会)/中央委員会が編集局を任命するという組織原則を打ち出す。各級レベルでの選挙実施を原則化するよう提案

憲法前文は平和主義・国民主権という理念の変更を認めてはいない

憲法改正論議を阻害してきた9条改憲

 憲法第96条は、あくまでも憲法の「改正」を規定したものであり、憲法の理念を覆すような自民党の「改憲」は憲法が認めていない。憲法前文の成立過程はそれを証明している。

立憲民主党の登場によって現実的には「改憲」そのものに絶対反対という勢力(いわゆる護憲派)は少数派になりつつある。

ただ、これまで「護憲派」と言われてきた人々は憲法の改正(修正)に絶対に反対だったのだろうか。現在は方針を転換したかに見える日本共産党だが、天皇制に反対していた当時、象徴天皇制を規定した憲法を望ましいと思っていただろうか。社会党社民党自衛隊違憲論と容認派の間で揺れ動いたとき、憲法の矛盾に整合性を求めようとしなかったのだろうか。

あるいは、国家公務員法という法律が、憲法の規定する公務員の規定、つまり国民による選定と罷免の権利(憲法第15条)を満たすものではないが、この矛盾をどうするのか。

また、NHK出身の極右の参議院議員和田正宗氏が改憲を言う時によく持ち出す憲法第11条と第97条の重複も、その指摘自身は間違ってはいない。

憲法第11条)
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。 
憲法97条)
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

「この憲法が(日本)国民に保障する基本的人権は」「侵すことのできない永久の権利として」「現在及び将来の国民に」与えられる、という部分は全く同じである。

 97条は、基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ」て勝ち取られたものだという事を強調したかったに違いない。それがGHQの意思だったとしても不思議ではない。しかし、憲法の理念は前文に表現されているのだから、今日的に見た場合、敢えて97条が必要なのかというのは論議を必要とするだろう。

このように、憲法自体の見直しが必要なことは、論理的にも語学的にも絶体的に否定すべき事でないことは自明のことだ。

では、何故「護憲派」と言われてきた人々が、「改憲」に是が非でも反対を貫こうとしたのか。

それは改憲を主張してきた自民党の主要な狙いが、9条の改憲=軍隊と交戦権の容認にあることが明らかだったからだ。
護憲派の人々が、憲法96条に改正手続きが規定されていることを知らなかった訳でも、また憲法は未来永劫一切の改正も許されないものだと考えていた訳でもないだろう。

戦後一貫した保守支配体制の中で、うっかり改憲論議に加われば9条改憲に道を開くかもしれないという護憲派の危機意識が憲法全体を見直す改正=修憲のための論議をタブー化してきたのである。

 ところが、最近では自民党日本会議に所属する議員の中に、戦争放棄を規定した第9条の改憲のみならず、ブルジョア革命=市民革命以来続いている近代国家の在り方そのものを否定し、基本的人権国民主権は「自主憲法」を作るうえでの障害だと言い出す者まで現われる始末である。

また「緊急事態法」も、人民は国家の意思に従うのが当たり前という人権意識を下敷きにして出されてくるのは明らかである。

そこで、ここでは憲法前文の成立過程の検証を通して、憲法の理念を変えるような「改憲」はこの憲法が認めていないという事を明らかにしたい。

憲法制定に至る総司令部と日本政府の攻防

 はじめに憲法成立過程の流れを資料に沿って整理しておきたい。
(以下の図表は衆議院憲法審査会事務局 資料。詳細はリンク先参照)   http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi090.pdf/$File/shukenshi090.pdf 

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【1】松本四原則  1945年12月8日

 松本烝治国務大臣衆議院予算委員会において、憲法問題調査委員会の調査の動向及びその主要論点を述べたもので、政府側が憲法改正問題について具体的に述べた最初のものである。

  • 天皇統治権を総攬するという原則には変更を加えない
  • 議会の権限を拡大し、その結果として大権事項を制限する。
  • 国務大臣の責任を国務の全般にわたるものたらしめ、国務
    大臣は議会に対して責任を負うものとする。
  • 人民の自由・権利の保護を強化し、その侵害に対する救済を完全なものとする。

【2】 松本案 (「甲」案) 1946年1月

  松本国務大臣憲法問題調査委員会の議論を参考にして起草した憲法改正私案を骨子として、宮沢俊義委員(東大教授)が要綱化(後に甲案と呼ばれる)、さらに松本国務大臣が更に加筆して総司令部に提出するための「憲法改正要綱」【3】を作成した。

尚、この案とは別に、憲法問題調査委員会の小委員会は、総会に現れた各種の意見を広く取り入れた改正案を起草し、これが後に乙案と呼ばれた。

甲・乙両案とも明治憲法に部分的に改正を加えるものであったが、取り上げた改正点は乙案のほうが多く、また乙案には条文によっては数個の代案があった。

ところが、この松本案(いわゆる甲案)は正式発表前の 1946 年 2 月 1 日、毎日新聞にスクープされ、それによって松本案の概要を知った総司令部はその保守的な内容に驚き、マッカーサーは 2 月 3 日、ホイットニー民政局長に対し三つの原則【4】示し、独自の憲法草案作成を命じた。

日本政府側も甲案にさらに加筆した憲法改正要綱」を2月8日に提出したが、GHQは既に原案作成作業を始めており、これは拒否されたのである。

  〈甲案の主な項目〉

  • 明治憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラスを「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」と改める。
  • 軍の制度は存置するが、統帥権の独立は認めず、統帥も国務大臣の輔弼の対象とする。
  • 衆議院の解散は同一事由に基づいて重ねて行うことはできないこととする。
  • 緊急勅令等については帝国議会常置委員の諮詢を必要とする。
  • 宣戦、講和及び一定の条約については帝国議会の協賛を必要とする。
  • 日本臣民は、すべて法律によらずして自由及び権利を侵されないものとする。
  • 貴族院参議院に改め、参議院は選挙または勅任された議員で組織する。
  • 法律案について衆議院の優越性を認め、衆議院で引き続き三回その総員三分の二以上の多数で可決して参議院に移した法律案は、参議院の議決の有無を問わず、帝国議会の協賛を経たものとする。
  • 参議院は予算の増額修正ができないこととする。
  • 衆議院で国務各大臣に対する不信任を議決したときは、解散のあった場合を除くのほかその職にとどまることができないものとする。
  • 憲法改正について議員の発議権を認める。

 

【3】 憲法改正要綱 1946年2月8日 GHQが拒否 

<主な内容>

  1.  改正の根本精神 ポツダム宣言第10項(民主主義、宗教及び思想の自由、基本的人権の尊重)の目的を達しうるもの
  2.  天皇
    (1)天皇の大権を制限し、重要事項はすべて帝国議会の協賛を要するとし、国務は国務大臣の輔弼をもってのみ行いうる。
    (2)国務大臣帝国議会に責任を負う。
  3.  国民の権利及び自由
    (1)あらゆる権利、自由は法律によらなければ制限されない旨の一般規定を設ける。
    (2)行政裁判所を廃止し、行政事件の訴訟も通常の裁判所の管轄に属せしめる。
    (3)独立命令の規定、信教の自由の規定を改正し、非常大権の規定を廃止する。
    (4)華族制度、軍人の特例等、国民間の不平等を認めるがごとき規定を改正・廃止する。
  4.  帝国議会
    貴族院参議院と改め、皇室、華族を排除し、衆議院に対し第二次的な権限を有するにすぎないものとする。
  5.  枢密院
    枢密院は存置するが、帝国議会の権限の強化及び帝国議会常置委員の設置に伴って、従来の枢密院の国務に対する権限は排除され、政治上無責任のものとする。
  6.  軍
    (1)「陸海軍」を「軍」と改める。
    (2) 軍の統帥は内閣の輔弼をもってのみ行われる。(3) 軍の編制及び常備兵額は法律をもって定める。
  7.  その他
    (1) 皇室経費について、議会の協賛を要せざる経費を内廷の経費に限
    (2) 憲法改正の発議権を帝国議会の議員にも認める。(3) 従来、憲法及び皇室典範の変更は摂政を置く間禁止されていたのを解除する。

【4】 マッカーサー三原則  1946年2月3日 

  • 天皇は、国家の元首の地位にある。皇位の継承は、世襲である。天皇の義務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところにより、人民の基本的意思に対し責任を負う
  • 国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段とし戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない
  • 日本の封建制度は、廃止される。皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上に及ばない。華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むものではない。予算の型は、英国制度にならうこと。

【5】 総司令部案   1946年2月13日 

総司令部は、日本側が提出した憲法改正要綱を全面的に拒否し、マッカーサー三原則に沿った総司令部案を日本側に交付し、これに基づく改正案の作成を求めた。

〈主な内容〉

 総司令部案には前文がついていたが、これについては後半で検討する。

  1. 国民主権天皇について
    主権をはっきり国民に置く。天皇は「象徴」として、その役割は社交的な君主とする。
  2.  戦争放棄について
    マッカーサー三原則における
    「自己の安全を保持するための手段としての戦争」をも放棄する旨の規定が削除された。
  3.  国民の権利及び義務について
    (1)
    現行憲法基本的人権がほぼ網羅されていた。
    (2)社会権について詳細な規定を設ける考えもあったが、一般的な規定が置かれた。
  4. 国会について
    (1) 貴族院は廃止し、
    一院制とする
    (2)
    憲法解釈上の問題に関しては最高裁判所に絶対的な審査権を与える
  5.  内閣について
    内閣総理大臣国務大臣の任免権が与えられるが、内閣は全体として議会に責任を負い、不信任決議がなされた時は、辞職するか、議会を解散する。
  6. 裁判所について
    (1)
    議会に三分の二の議決で憲法上の問題の判決を再審査する権限を認める
    (2) 執行府からの独立を保持するため、最高裁判所に完全な規則制定権を与える。
  7.  財政について
    (1) 歳出は収納しうる歳入を超過してはならない

    (2) 予測しない臨時支出をまかなう予備金を認める
    (3) 宗教的活動、公の支配に属さない教育及び慈善事業に対する補助金を禁止する。
  8.  地方自治について
    首長、地方議員の直接選挙制は認めるが、日本は小さすぎるので、
    州権というようなものは どんな形のものも認められないとされた。
  9. 憲法改正手続について
    反動勢力による改悪を阻止するため、
    10年間改正を認めないとすることが検討されたが、できる限り日本人は自己の政治制度を発展させる権利を与えられるべきものとされ、そのような規定は見送られた。

 

日本側は、突如として全く新しい草案を手渡され、それに沿った憲法改正を強く進言されて大いに驚いた。そして、その内容について検討した結果、松本案が日本の実情に適するとして総司令部に再考を求めたが、一蹴されたので、総司令部案に基づいて日本案を作成することに決定した。

【参考】いわゆる「押しつけ憲法論」について
上述のとおり、総司令部案が提示され、この草案を指針として日本国憲法が作成されたことについて、現行憲法は「押しつけられた」非自主的な憲法であるとの見解がある。
しかし、マッカーサーの3原則が必ずしもそのまま草案化されている訳でない事は比較して見ればはっきりする。むしろ、マッカーサー3原則が「占領統治」という立場を意識したものであるのに対し、出来上がった総司令部案にはより民主的なものを求めようとした意思さえ感じられる。

なお、「総司令部が草案作成を急いだ最大の理由は、2 月 26 日に活動を開始することが予定されていた極東委員会(連合国 11 ヵ国4の代表者から成る日本占領統治の最高機関)の一部に天皇制廃止論が強かったので、それに批判的な総司令部の意向を盛り込んだ改正案を既成事実化しておくことが必要かつ望ましい、と考えたからだと言われている。

もっとも、草案の起草は 1 週間という短期間に行われたが、総司令部では、昭和 20 年の段階から憲法改正の研究と準備がある程度進められており、アメリカ政府との間で意見の交換も行われていた」との指摘(芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法(第 6 版)』(岩波書店、2015 年)25 頁)もある。

【6】 三月二日案   1946年3月4日 

 総司令部案に基づき日本側が起草し、3月4日に総司令部に提出したもの

【参考】3 月2 日案の主な特色(総司令部案との主な相違)

  1. 前文を削除(注)
  2. 天皇の地位に関する「人民ノ主権的意思(sovereign will)」を「日本国民至高ノ総意」と改めた(主権が天皇から国民に移るという革命的な変革を条文上明記することを回避する趣旨)
  3. 天皇の国事行為について、内閣の「補弼及協賛(advice and consent)」を「補弼」に変更
  4. 2月13 日会談で松本国務大臣が「一番驚いた」(何と社会主義的な!)条文である「土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有権ハ人民ノ集団的代表トシテノ国家ニ帰属ス」を削除
  5. 院制を二院制に変更
  6. 国会召集不能の場合における応急措置に関する「閣令」規定の追加
    芦部信喜憲法学Ⅰ』(有斐閣、1992 年)167-168 頁)

(注) 総司令部案には前文があったが、三月二日案ではこの前文はすべて削除された。総司令部案の前文は国民が憲法を制定するとしているが、明治憲法によれば憲法改正天皇の発議、裁可によって成立することとなっているためである。この「国民主権」をめぐる抵抗は天皇の位置をどう扱うかとも密接に結びついている。

上記「3 月 2 日案」をめぐる総司令部との交渉での主な争点とその結果は以下のようであった。

  1. 前文を省略 ⇒総司令部案がほぼ完全に復活
  2. 「至高ノ総意」 ⇒了承
  3. 「補弼」 ⇒「輔弼賛同」に修正
  4. 「土地ノ国家帰属」を削除⇒了承
  5. 一院制を二院制に変更 ⇒了承(ただし、参議院の組織に関する提案は拒否)
  6. 国会召集不能の場合における応急措置に関する「閣令」規定の追加 ⇒削除

 この作業の大部分は、佐藤達夫法制局第一部長(当時)が一人で当たったとされる。
 草案要綱は、その後、総司令部との交渉を経て、幾つかの点に修正が加えられ、これと並行して要綱を口語体の条文として成文化する作業が進められ、4 月 17 日、枢密院への諮詢と同時に「憲法改正草案」(内閣草案)として公表された。

密院で可決された内閣草案は、明治憲法 73 条の定める手続に従い、1946年6 月 20日、新しく構成された第 90 回帝国議会衆議院に、「帝国憲法改正案」として勅書をもって提出された。
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衆議院は、帝国憲法改正小委員会を作り、7月25日から8月20日までの間に13回にわたって秘密を開き、各会派から提出された修正案の調整を行った。

「帝国憲法改正案」には佐藤達夫法制局次長による書込みが随所に見られる。
こうして原案に若干の修正を加えたのち、8 月24 日圧倒的多数をもってこれを可決し、貴族院に送付された。 http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/123/123_002l.html

 

 

衆議院における主要な修正点】
国民主権の表現の明確化(総司令部からの要求により修正したもの)
②9条の文言の修正―戦力の不保持を定めた第9条第2項に「前項の目的を達するため」という文言を挿入(この修正によって、この規定は自衛のための軍隊の設置が必ずしも否認するものでないという解釈に道を開いた)
③国民たる要件を法律で定める規定と納税の義務の規定を新設
生存権の規定、勤労の義務の規定、国家賠償の規定、刑事補償の規定を設けたこと、等。

宮澤俊義著・芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』(日本評論社、1981 年)

 衆議院特別委員会が本会議に提出した修正議決の報告書には、貴族院での修正箇所も一部手書きで記されている。英語のciviliansに対応する用語が、「武官の職歴を有しない者」が「文民」に落ち着いた経過などもこの資料からもうかがえる。


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憲法9条よりも攻防を極めた前文=国民主権の理念

日本政府が考えていた、いわゆる松本案をベースにした「憲法改正要綱」には、改正の根本精神として「ポツダム宣言第10項(民主主義、宗教及び思想の自由、基本的人権の尊重)の目的を達しうるもの」が考えられていたが、「憲法前文」は無かった。

そもそも、日本政府は明治憲法大日本帝国憲法に手を加える形での改憲を考えていたのであるが、大日本帝国憲法に前文はなく、明治天皇が神に誓う告文(つげぶみ)が詠まれた後、勅語が発せられたである。

朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣榮(きんえい=喜びと光栄)トシ、朕ガ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ、現在及ビ将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス

意訳(私は国家の隆昌と臣民の喜び幸せとを以て、一番の喜びと光栄とし、私が歴代の先
祖から受け継いだ大権によって、現在及び将来の臣民に対してこの不磨の大典を宣布する。(このあとに、惟ウニ我ガ祖、我ガ宗ハ我ガ臣民祖先ノ協力輔翼ニヨリ我ガ帝国ヲ肇造シ、以テ無窮ニ垂レタリ・・・と続く)

 

 <総司令部案 >   1946年2月13日

 政府ノ行為ニ依リ再ヒ戦争ノ恐威ニ訪レラレサルヘク決意シ、茲ニ人民ノ意思ノ主権ヲ宣言シ、国政ハ其ノ権能ハ人民ヨリ承ケ其ノ権力ハ人民ノ代表者ニ依リ行使セラレ而シテ其ノ利益ハ人民ニ依リ享有セラルトノ普遍的原則ノ上ニ立ツ此ノ憲法ヲ制定確立ス、而シテ

我等ハ此ノ憲法ト抵触スル一切ノ憲法、命令、法律及詔勅ヲ排斥及廃止ス(we reject and revoke all constitutions, ordinances, laws and rescripts in conflict herewith.)

 

憲法改正草案要綱」  1946年3月6日

日本国民ハ、国会ニ於ケル正当ニ選挙セラレタル代表者ヲ通ジテ行動シ、我等自身及子孫ノ為ニ諸国民トノ平和的協力ノ成果及此ノ国全土ニ及ブ自由ノ福祉ヲ確保シ、且政府ノ行為ニ依リ再ビ戦争ノ惨禍ノ発生スルガ如キコトナカラシメンコトヲ決意ス。乃チ茲ニ国民至高意思ヲ宣言シ、国政ヲ以テ其ノ権威ハ之ヲ国民ニ承ケ、其ノ権力ハ国民ノ代表者之ヲ行使シ、其ノ利益ハ国民之ヲ享有スベキ崇高ナル信託ナリトスル基本的原理ニ則リ此ノ憲法ヲ制定確立シ、之ト牴触スル一切ノ法令及詔勅ヲ廃止ス。

 

憲法改正草案 前文> 1946年4月2日GHQ承認 4月17日、発表

わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する

 

<帝国憲法改正案 前文>(帝国議会に提出) 1946年6月20日

日本国民は、国会における正当に選挙された代表者を通じて、我ら自身と子孫のために、諸国民との間に平和的協力を成立させ、日本国全土にわたって自由の福祉を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が発生しないやうにすることを決意し、ここに国民の総意が至高なものであることを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の崇高な信託によるものであり、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行ひ、その利益は国民がこれを受けるものであつて、これは人類普遍の原理であり、この憲法は、この原理に基くものである。我らは、この憲法に反する一切の法令と詔勅を廃止する。

 

<「衆議院小委員会修正」>

1946年7月25日から8月20日まで13回に亘り非公開で行われた衆議院帝国憲法改正小委員会では、各会派から提出された修正案をもとに討議され、条文の調整が行われた。同時に「憲法前文」はこの憲法の理念、性格を規定する重要な位置を持つもので、実に総司令部との間でも最も争点になっていたものだったのである。

政府は、4月2日に総司令部から草案の承認を受けていたにも拘らず、3月6日の「憲法改正草案要綱」の前文を口語体に変えたものを「憲法前文」として提出している。

これは、国民主権 ②この憲法に反する憲法を認めないという2点をどうしても前文に入れたくないという意図があったか、あるいはその意味を理解していなかったという事なのかもしれない。

しかし、小委員会での論議は政府のこの意図を打ち砕き、今日の「帝国憲法改正修正案」として衆議院に提出されたのである。

http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/124_1/124_1_001l.html 

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衆議院修正可決「帝国憲法改正案」> 1946年8月21日提出

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する

 

⇒ 帝国議会衆院小委員会で当初案がほぼ現行憲法の形になるまでの文言の書き換えや細部の修正が行われた。その意味では、GHQから押し付けられた憲法に唯々諾々と従ったのではなく、各会派の真剣な議論の結果だったと見るべきなのである。

 これまでの検証を通して憲法前文」にはGHQとの間で、その理念をめぐる対立があり、条文そのものにも増して重要な争点だったことがうかがえる。それは、一つは「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存する」という平和主義の確立と国民主権をめぐる考え方、もう一つは、「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という理念を排除した改憲をあらかじめ禁じる、という事が焦点だったのである。 

 今日、憲法学者の中には「憲法前文」は条文のように拘束力を持たないという意見もあり、改憲に反対する勢力の中でも「前文の重要さ」が殆んど注目されていない。

私たちは憲法制定過程ではこの前文が極めて重視されていた事の意味をしっかり考えるべきではないだろうか。