正道有理のジャンクBOX

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政治と宗教の蜜月

岸信介から続く復古主義の系譜

安倍晋三が銃撃され死亡して以降、旧統一教会の問題が焦点化し、それに追い打ちをかけるように裏金問題が浮上し、長い間政権内に君臨してきた安倍派は総瓦解状態に陥っている。岸信介の系譜によって、戦後70年以上に亘って続いてきた復古主義の一角が決壊し始めたのなら歓迎すべきことである。

戦犯・岸信介は、サンフランシスコ講和条約の発効にともなって公職追放解除となるやいなや、その1952年4月に「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」をスローガンに掲げ、日本再建連盟を設立して会長に就任した。これと前後して、1951年には「建国記念の日」制定運動も始めている。

これまで、日本会議について論じた多くの出版物が出されており、この中では日本会議の前身が元号法制化運動と「日本を守る会」の結成とされてきた。ただ、運動の源流としては、この「建国記念の日」制定運動と考えるべきではないだろうか。

そもそも初めから、建国の日を日本神話に登場し、初代天皇とされる神武天皇の即位日、即ち戦前の紀元節と同じ2月11日に制定することを狙った運動だったのである。

そして、「建国記念の日」を定めるということは、元号法制化の布石であることもまた明白であった。これが後の日本会議へと連なるのであるが、その原点は岸信介にあったことに注目したい。

岸信介は、1956年 石橋首相が病に倒れたため、首相臨時代理となり、翌1957年2月25日、石橋内閣の全閣僚を引継ぎ、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。

統一教会日本会議 キーマンは岸信介

1957年2月13日には、自由民主党衆議院議員らによる議員立法として「建国記念の日」制定に関する法案を提出するが、社会党共産党など野党の反対によって廃案になる。その後、1966年までの9年間、9回の法案提出が行われたが、そのたびに廃案に追い込まれた。

では、この間、岸信介保守系団体は手をこまねいていたのだろうか? そうではない。「建国記念の日」制定に至る活動で、神社本庁紀元節奉祝国民大会運営委員会を設立(1955年)するなど、主要な役割を果たした。さらに日本郷友連盟日本遺族会生長の家なども加わり、「建国記念の日」制定を求める世論形成を行っていたのである。

建国記念の日」を成立させた力?

他方、岸信介は周知のように1960年に入り統一教会と接点を持つようになる。そして、岸退陣後の1964年7月15日、池田政権の末期に統一教会は宗教法人として認可をうけるのである。

それから2年後の1966年6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案が成立する。

このように見てくると、日本会議の母体としてあった神社本庁生長の家等々の運動だけでは「建国記念の日」を制定させるには至らず、ここに旧統一教会が加わることによって、これが成就されたと見ることはできないだろうか。
ここに、日本会議とともに旧統一教会自民党との濃密な関係が築かれたのではないだろうか。

この後、1968年4月1日 岸信介文鮮明笹川良一児玉誉士夫らと協力して、日本に国際勝共連合を設立する。同年10月、元号法制化の運動も始まっている。

岸信介は、1969年春には「自主憲法制定国民会議」(現・新しい憲法をつくる国民会議)を立ち上げ、初代会長に就任する。

また、1970年には日本青年協議会が結成されるが、この頃にも日本会議と旧統一教会を接近させることが起こっている。

自民党――日本会議――旧統一教会のトライアングル

森友学園問題が浮上した当時、日本会議に関する出版物や研究論文が数多く出版された。しかし、この中で日本会議と旧統一教会との関係に触れたものは極めて少ない。
逆に、旧統一教会の問題が浮上した時、日本会議の問題がまったく論じられないのは何故なのだろう。
確かに、旧統一教会は韓国発祥の宗教であり、日本会議とは歴史認識も違っている。両方とも異教を受け入れる点では類似しているが、それぞれの目標は微妙に違っている。にもかかわらず、反共(反左翼、反リベラリズム)という点では共通している。また、政治権力と接近することによって、自分たちのそれぞれの目標や利益を得られるという点では創価学会を含めて、宗教団体はみな一緒だ。

つまり、性格の違う二つの反共勢力を結び付け、悍ましいトライアングルを形成してきたものは、宗教団体の持つ集票力に依拠し続けてきた自民党だということである。