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レーニン「共産主義における『左翼』小児病」学習ノート⑦最終

第9章 イギリスの共産主義「左派」

前章までのレーニンは、ドイツの左翼主義に焦点を当ててきた。しかしこの章では、特別にイギリスの「左派」に絞った検討が行われており、そこには大きな意味があった。
当時のイギリスには、まだ共産党は作られておらず、「イギリス社会党」「社会主義労働党」「南ウェールズ社会主義協会」「労働者社会主義連盟」という四つの団体が単一の共産党創設をめざして協議を続けていた。

レーニンが、イギリスにおける共産党の創設に大きな期待を寄せていたことは想像に難くない。最も資本主義の発達したイギリスにおいて、革命のための客観的条件が成熟しつつあることは明らかであった。イギリスのプロレタリアートと抑圧され収奪されてきたすべての大衆を革命へと導くことができるか否か、それはイギリスにおける力強い弾力性のある共産党の登場にかかっていた。それはまた全ヨーロッパの、さらに世界革命にとって決定的なカギを握るものと思われた。
 本書で、ドイツの「左翼主義」を反面教師として引用し、子どもに言い聞かせるようにていねいな批判を展開し、それを冊子にしてコミンテルン第二回大会に参加する全ての代議員に配布して訴えたのも、イギリスの「左派」を獲得するということが極めて重要な戦略目標としてあったのではないかと考えれば、本書の意義はより鮮明になる。

 この章でレーニンは、共産党創設のための協議会に参加していた「労働者社会主義連盟」の機関誌「ワーカーズ・レッドノート」の編集者であるシルヴィヤ・パンクハーストの論文、またこれと同じ号に掲載され、パンクハーストの論文にも引用されている「スコットランド労働者評議会」名のギャラチャーの論文を紹介し、これを詳細に検討している。
ただ、ここではこのレーニンの論考を後づけることは省略し、『共産主義における「左翼」小児病』が書かれた背景、レーニンがイギリスの革命運動をどのように見ていたのかということについて考えてみたい。
 一九二〇年四月に書かれた本書の原稿には「マルクス主義的戦略と戦術についての平易な講話の試み」という副題がつけられていた。「左翼主義」批判というかたちをとりながら、実はマルクス主義的戦略・戦術論の積極的提示の試みであり、それはロシアよりも資本主義の発達した西ヨーロッパ、とくにイギリスを念頭においた先進帝国主義国の革命戦略であり、共産党組織論でもあったと考えることはできないだろうか。

 本書が書かれたほとんど同時期に、「妥協について」(一九二〇年三~四月執筆)という未完の論文が書かれている。これは、イギリスの社会民主主義連盟の創立時からのメンバーであり、一九一〇年以来、下院議員として労働者議員団の左派を指導していたG・ランズベリーが、「ボルシェビキは、たとえばエストニアとの講和条約で森林利権を与えることに同意した点で、資本家と妥協している。そうだとすれば、イギリスの労働運動の穏健な指導者が資本家と妥協していることも、それにおとらず正当である」という、イギリス労働運動の日和見主義的指導者たちの見解をレーニンに紹介し、この見解が大きな影響力をもっているので緊急に検討を要する、とレーニンの考えを求めた。

レーニンは、このランズベリーの提起した問題にたいする考え方を「妥協について」で論じはじめ、マルクス・エンゲルスを引きながら「・・ときにはもっとも革命的な階級の、もっとも革命的な党にさえ情勢が不可避的に押しつけるすべての妥協を通じて、労働者階級とその組織された前衛、共産党の革命的な戦術と組織、革命的意識、決意と訓練を保持し、強化し、きたえ、発展させる能力をもつこと、これが肝心の点である。マルクスの学説の諸原則に精通している人間にとっては、このような見解はこの学説全体から不可避的に出てくるものである。だが、イギリスでは、幾多の歴史的原因によって、マルクス主義はチャーティズム(それは、多くの点でマルクス主義を準備したものであり、マルクス主義への『最後から一つまえの言葉』である)の時代いらい労働組合や協同組合の日和見主義的、半ばブルジョア的な指導者によって後景へおしやられてきたので、私はだれでも知っている日常生活、政治生活および経済生活の諸現象の分野からとった典型的な実例によって、右に述べた見解の正しさを説明してみよう」(全集31巻『妥協について』)と述べ、例によって〈強盗から身を守るための妥協は許される妥協か、許されない妥協か〉というたとえ話を出して論じはじめたところで、この論文は終わっている。

第三インタナショナル第二回大会のための準備を進めていたレーニンは、ランズベリーの提起した問題をさらに一般化し、イギリスだけではなく他国の事例(とくにドイツ)をもとりあげ、構想を新たに『共産主義における『左翼』小児病』として書きあげたのであった。

そうした意味で、本書はその成立から見ても、西ヨーロッパ、なかでもイギリスの革命運動における戦略・戦術論という性格をもっている。また、それは同時に、労働運動内部の二つの主要な敵として規定してきた日和見主義と「左翼主義」とに対する批判のなかでも、本書ではとくに「左翼主義」の批判にその力点が置かれたといえよう。

これに関しては、レーニンは次のように述べている。
現在では、「プロレタリア前衛は思想的にはわれわれのほうにかちとられた」だが、前衛だけでは革命に勝利をおさめることはできない。広範な大衆の支持が必要である。したがって、前衛の当面の任務は、前衛にたいする支持あるいは好意的中立という新しい立場に広範な大衆が移行するのを指導するための戦術を知ることである。
第一の歴史的任務(プロレタリアートの自覚した前衛を、ソヴェト権力と労働者階級の独裁の味方に引きいれること)は、日和見主義と社会排外主義に思想上および政治上で完全に勝たなければ、果たしえなかったが、いま当面のものとなっている第二の任務、革命で前衛の勝利を保障することのできる新しい立場に大衆を導いていくすべを知るという任務は、左翼的な空理空論が一掃され、その誤りが完全に克服されなければ、これを果たすことはできない」(第10章 二、三の結論)

そして、この「新しい立場に大衆を導いていくすべ」とは、大衆の実践的行動が問題となる段階において、① 敵階級が混乱し、十分に弱体化し、② 中間分子(小ブルジョアジー、政治的には小ブルジョア的民主主義派)の正体が十分に暴露され、③ 革命にたいする労働者大衆の支持がたかまりはじめていること、という三つの状況をつくりだすことであり、これらの条件があることが「革命の機が熟した」(決戦期、すなわち革命情勢)と判断する指標であった(同)

では、どのようにしてこのような状況をつくりだし、かつそれを利用するかということが、共産主義者の戦術の問題となる。そのさいレーニンはとくに合法闘争の重要性を強調する。
レーニンは、日和見主義批判においては、合法闘争を非合法闘争と結合する必要性を強調したが、「左翼主義」批判においては、逆に、非合法闘争を合法闘争と結合する必要性を強調し、「非合法の闘争形態をあらゆる合法的な闘争形態と結合することのできない革命家は、きわめてくだらない革命家である」「革命的でないときに革命家となること、革命的でなく、むしろ・・反動的な機関のなかで、革命的でない情勢のもとで、また革命的な活動方法の必要をすぐには理解することのできない大衆のあいだで、革命の利益をまもりうること(宣伝、煽動、組織によって)、このほうがはるかに困難であり、はるかに尊い」――まさに、ここに西ヨーロッパとアメリカの今日の共産主義の主要な任務がある。

レーニンは非合法闘争を合法闘争と結合する重要な組織として労働組合と議会に焦点を当てるのである。そして、前述した「第二の任務」を進める観点から、西ヨーロッパの共産主義者の現実の活動は極めて不十分であり、それは、あらゆる妥協を否定する「左翼主義」がその活動を非常に阻害しているのだ、と指弾する。
では、ランズベリーの提起した問題にレーニンはどのように答えたのだろうか。
イギリス労働運動の日和見主義的指導者たちは、妥協が必要なものだというのなら、資本家階級との妥協も正当化しうるのではないか、と主張する。だが、レーニンにとってはこの問題は明確である。 すなわち、妥協一般の否定が「児戯に類したこと」であるとすれば、妥協一般の肯定は「経験をつんだ『実利一方』の社会主義者や議会策謀家」が用いる詭弁である。共産主義者にとって必要なのは、「そこに日和見主義と裏切行為が現れているような、許すことのできない妥協の具体的な場合をえりわけ、これらの具体的な妥協にたいして、あらゆる批判の力を……むける」ことだ、というのである。

 レーニンは、左右両翼の妥協論にたいする以上のような批判を基礎に、とくに西ヨーロッパの共産主義者にとって重要なことは、「プロレタリア的自覚、革命精神、闘争能力と勝利をかちとる能力の一般水準を引下げず、たかめるために、この戦術を適用するすべを知ること」である、と結論する。
 本書では、こうした展開のうえに、特別にイギリスの「左翼主義」批判の章を加えている。

当時、レーニンは、イギリスの政治情勢について、「イギリスでは、プロレタリア革命成功のためのこの二つの条件(① 大多数の労働者が変革を要求し、② 支配階級の統治が危機状態にある)があきらかに成熟しつつある」〔「第三インタナショナル創立一周年記念祝賀会での演説」(全集第三〇巻所収)〕と分析していた。そして、「左翼共産主義者は、これらの条件のいずれに対しても、思慮のたりない、注意のたりない、自覚のたりない、慎重さのたりない態度が見受けられる」と批判している。
 前述の「革命の機が熟す」ための三つの指標から考えれば、「②中間分子の正体が十分に暴露され、大衆が経験を通じて、それを納得する」という状態ができておらず、その努力も戦術も練られていないということを指していると考えられる。
そこでレーニンは、イギリスの共産主義者の任務を次のように提起するのである。
労働党(ヘンダソン)による自由党・保守党政権(チャーチルロイド・ジョージ)の打倒を援助すること。()労働者階級の大多数が、労働党政権が役にたたず、彼らの小ブルジョア的・裏切的な本性、彼らの破産が避けられないことを、その経験によって確信するのをたすけること。()大多数の労働者のこの失望を基礎に労働党政権打倒の時機を近づけることが必要である。

そして、より具体的には次のような内容の戦術を提起している。
イギリスの共産主義者は、第三インタナーショナルの原則と議会への義務的な参加を基礎として、①イギリス社会党社会主義労働党、南ウェールズ社会主義協会、労働者社会主義連盟などの諸派を統合して一つの共産党に統一すべきである。②このようにしてできあがった共産党は、労働党にたいして、自由党・保守党政権に反対する共闘の選挙協定を申し入れるべきである。ただしブロックに応じる条件は、(労働党にたいする批判をも含む)扇動、宣伝、政治活動の自由を留保すること。この条件を欠いた協定には応じられない(裏切りを意味するから)。     
もし、労働党独立労働党が、この条件で協定を受け容れるならば、それによって共産党は、労働党政権の樹立を助けるばかりでなく、大衆が共産主義的宣伝をいっそうはやく理解するのを助けることもできる。また、この条件が拒絶されるならば、労働党日和見主義的幹部が全労働者の統合よりも資本家との親近関係を望んでいることを大衆に示すことになるので、いずれにしても共産党にとって有利になる。

こうして協定が結ばれれば、選挙にさいしては、労働党員に不利にならないような選挙区にだけ共産党の候補者を立て、共産主義を宣伝し、その他の全選挙区では、自由党と保守党とに反対して労働党に投票するよう選挙運動を進めなくてはならない。

このように「戦術のうえでは最大限に弾力性を発揮しなければならない」というレーニンの主張は、この選挙戦術に遺憾なく発揮されているのである。

だが、これに対し、イギリスの「左翼主義者」は、共産党労働党支持はおろか、共産党の議会活動すら、革命の裏切りであると主張する。このような「左翼主義」的見解を批判して、レーニンは、上記のような観点から、「イギリスの共産主義者は、議会活動に参加しなければならず、議会の内部から労働者階級を助けて、へンダソンやスノーデンの政府の成果を実地に見せなければならず、ヘンダソンやスノーデンを助けて、ロイド・ジョージチャーチルの連合に勝たせなければならない。それ以外の行動をとることは、革命の大業を困難にすることを意味している。なぜなら、労働者階級の大多数の見解に変化がなければ革命は不可能であり、このような変化は、大衆の政治的経験によって作りだされるのであって、決して宣伝だけで作りだされるものではないからである」と結論したのである。

議会参加の問題と並んで、イギリス共産党結成のための協議で障害となっていたもうひとつの問題、つまり「労働党」に加盟するかどうかという問題について、レーニンは「イギリス『労働党』が格別に独自なものをもっているだけに……特に複雑である」として結論を持ち越しているが、その上で次のように述べてこの章を結んでいる。
「第一に、この問題について『共産党は、その主義を純粋にまもり、その改良主義からの独立をけがされないようにまもらなければならぬ。党の任務は――立ちどまらず、道からそれずに進むことであり、共産主義革命に向かって真っすぐな道を進むことである』といったたぐいの原則から〔だけで〕革命的プロレタリアートの戦術を引きだそうと思っているものは、かならず誤りをおかすだろうということだけは、疑う余地がない」それは「いかなる妥協もいかなる中間駅も『否定』すると宣言したフランスのブランキ派コンミューン戦士の誤りを繰りかえす」ことにほかならない。
「第二に、疑いもなく、いつもそうであるが、この場合にも、任務は、共産主義の一般的な原則を、諸階級と諸政党間の関係がもつ独自なもの、共産主義への客観的発展がもつ独自なものに適用するすべを知ることにある。この独自なものは個々の国によってそれぞれに固有のものであって、それを研究し、見つけ出し、推定できなければならない。
だが、これについては、ただイギリスの共産主義とだけ結びつけて述べるべきではなく、すべての資本主義国における共産主義の発展にかんする一般的な結論と結びつけて述べるべきである」(P104)

共産主義の一般的な原則を、階級関係と客観的な情勢の分析に適用する」、その術を知ること。実はとてつもなく難しいことを言っているのである。そのためにはマルクス主義を一面的ではなく、全面的に自らのものとしなければならないということだ。しかし、少なくとも党の指導者やカードルにはそういうことが要求されるということなのではないか。

追 加

この『共産主義における「左翼」小児病』の本文については、十章構成であるが、それを書き上げたあとに「追加」の一章がつけ加えられた。
四つの節で構成され、執筆後にあたらしくおきたドイツのこと――「左翼主義」共産主義者である共産主義労働者党のこと、また共産党は独立社会民主党と妥協すべきかどうかということ――と(第1~2節)、さらにイタリアの例(第3節)などをあげて、ここまで指摘してきた主張をくり返し示し述べている。ここでは、その中から示唆にとんだレーニンの叙述の要旨だけを上げておくことにする。
ドイツでは「左翼」共産主義者の方が一般的な共産主義者に比べて、大衆のなかで煽動することが得意だという。それはボルシェヴィキの歴史のなかでも同様であったとレーニンは言う。
「たとえば、一九〇七~一九〇八年に『左翼』ボルシェヴィキは時と場合によってはわれわれよりもじょうずに大衆を煽動した。これは一部分ではつぎのような事情、つまり革命のときや革命のなまなましい思い出が残っているときには、彼らのように否定『一本槍の』戦術が大衆にうけやすいという事情による」
続けて「しかし、だからといってこのことは、右の戦術が正しいという根拠にはならない。いずれにしても、共産党が実際に、革命的な階級、プロレタリアートの前衛となり先頭部隊になろうとのぞむなら、またプロレタリア的な大衆だけではなく、非プロレタリア的な、勤労被搾取者大衆をひろく指導する方法をまなびたいなら、都市の工場『街』にとっても、農村にとっても、もっとも近づきやすい、もっともわかりやすい、またきわめてはっきりした、いきいきとしたやりかたで、宣伝、組織、煽動ができなければならない」と述べている。

ここで、レーニンが言わんとしているのは、一時(高揚している時)の大衆の雰囲気をとらえて宣伝や扇動をする場合には、その時は人の心にとどきやすいかもしれない。しかしそれでは真に「大衆」の心をとらえ組織することにはならない。沈滞の時、大衆が眠り込んでいる時にこそ、またそのような大衆に向かって宣伝、扇動、組織ができる党にならなければならないと指摘しているのである。

第四節は「ただしい前提からひきだされたまちがった結論」となっている。
この節ではイタリアの例として「同志ボルディガとその『左翼』の同僚たちは、トウラティ一派の諸君にたいするただしい批判から、議会への参加は一般に害があるというまちがった結論をひきだしている。……彼らは、ブルジョア議会にたいする真に革命的な共産主義的な利用、あきらかにプロレタリア革命の準備に役立つような議会利用の国際的な手本をまったく知らない」と述べたあと、さらに具体例をあげて問題提起がおこなわれている。
「たとえば、ジャーナリストの活動をとってみよう。新聞、パンフレット、ビラは、宣伝、煽動、組織というブルジョアジーの要請を満たすために〕必要な活動をやっている。多少とも文明的な国なら、ジャーナリズムの機関なしに一つとして大衆運動をやることはできない。ところで、いくら『指導者』について泣き言を述べようと、指導者の影響から大衆の純潔をまもると誓ってみても、ブルジョア・インテリゲンツィヤ出身のものをつかってこの仕事をやらないわけにはゆかない」
〔ロシアでは〕ブルジョアジーが倒され、プロレタリアートが政治権力をとってから二年半もたっているのに、われわれは大衆的な(農民的な、手工業的な)、ブルジョア民主主義的・所有者的諸関係のこのような雰囲気と環境につつまれている」〔まして〕「資本主義のもとで、この仕事がブルジョア民主主義的な、『所有者的な』雰囲気と環境のなかでおこなわれるのをふせぐわけにはゆかない」

「愛すべきボイコット主義者よ、反議会主義者の諸君よ、君たちは、自分が『すばらしく革命的だ』と思っているのかもしれない。ところが実際には、君たちは労働運動内のブルジョア的な影響にたいする闘争がちょっとした困難に出会ったからといって、恐れをなしたのだ。ところが君たちが勝利をおさめると、つまりブルジョアジーを倒し、プロレタリアートが政治権力をにぎるようになると、この同じ困難ももっと大きな、はかり知れないほど大きな規模のものになるのである。君たちは今日、目の前にあるちょっとした困難に子どもみたいにびっくりしているが、明日、明後日になると、はるかに大規模になる同じ困難にうちかつ方法をいやおうなしに学び、習得しなければならなくなることが、わからないのである。
ソヴェト権力ができると、君たちのプロレタリア党にもわれわれのプロレタリア党にも、ますます多くのブルジョア・インテリゲンツィア出身者はいりこむだろう。彼らは、ソヴェトにも、裁判所にも、行政機関にもはいりこむだろう。なぜなら、資本主義がつくりだした人材以外のもので共産主義をつくりあげることはできないからであり、ブルジョア・インテリゲンツィアを追いだし、彼らを根こそぎにすることはできないからであって、彼らに打ち勝ち、彼らをつくりかえ、彼らを同化し、彼らを教育しなおさなければならないのである。これはちょうど、プロレタリア自身を長い闘争のなかで、プロレタリアートの独裁を基盤として、教育しなおさなければならないのと同じである」(P138)

「この同じ任務がソヴェト権力のもとで、ソヴェトの内部に、ソヴェト行政機関内部に、ソヴェトの「弁護士団」〔一九一八年にソヴェトに設けられた弁護団〕のなかに復活してくるのである・・・。ソヴェトの技術者、ソヴェトの教師、ソヴェトの工場で働く特権的な、すなわちもっとも熟練した、最も地位の高い労働者のあいだでは、ブルジョア的議会主義に固有のありとあらゆる否定的な特徴がたえず復活してくるのが見られるのであって、プロレタリア的な組織性と規律をもった、長い、ねばり強い闘争を、うまずたゆまず繰り返していってはじめて、この害毒に――だんだんと――うちかつことができるのである」(P139)

しかし、このようなブルジョア的習慣、小ブルジョア的偏見、習性の力を変えていくことが「困難」だからといって、それをやらなければ、プロレタリアートが権力を握った後になって、その「絶えず復活してくるブルジョア的慣習の力」にうち勝たねばならないという任務がプロレタリア権力に重くのしかかるだけなのだ。
それは、ロシアでも困難であった。「西ヨーロッパやアメリカでは、ブルジョアジーがはるかに強く、ブルジョア民主主義的な伝統などがずっと強いのだから、これらの国では、くらべものにならぬくらい困難だろう」
しかし「これらの『困難』は、プロレタリア革命にさいしても、またプロレタリアートが権力を握ったのちにも、プロレタリアートが勝利をおさめるために、どの道ぜひとも解決しなければならない、まったく同じ種類の任務」なのであり、革命以前に直面する「困難」は、「プロレタリアートの独裁権力のもとで、何百万という農民や小経営者、何十万という事務職員や役人やブルジョアインテリゲンチャを教育しなおし、彼らをすべてプロレタリア国家とプロレタリアの指導にしたがわせ、彼らのブルジョア的な慣習と伝統にうちかたねばならぬという巨大な任務にくらべると」、じつに子どもだましの困難なのだ、というわけである。

「若い時の苦労は買ってでもやれ。そうしないと後でもっと苦労することになるのを君たちは解っていないのだ」とレーニンは説いているわけだ。

「もし現在『左翼』や反議会主義者の同志たちが、こんなとるに足らない困難をさえ克服することをまなばないなら、まちがいなく言えることは、彼らがプロレタリアートの独裁を実現できず、ブルジョア・インテリゲンッィアとブルジョア機関を広い範囲で自分たちに従属させ、改造することもできず、あるいはそれらを大急ぎでまなびつくさなければならないことになり、あまり急いだため、プロレタリアートの事業に大損害をあたえ、普通以上にまちがいをしでかし、平均以上に弱点と無能力を暴露するに違いない、等々といったことである」(P140) 

ブルジョアジーが倒されるまでは、さらに小経営と小商品生産がまったく消えさるまでは、ブルジョア的な環境、所有者的な習慣、小市民的な伝統が、労働運動の内外から、それも、ある一つの活動分野、議会活動の分野だけではなくて、かならず社会活動のありとあらゆる分野、あらゆる文化、政治の舞台で、例外なしにプロレタリアの活動を台なしにするであろう。だから、ある一つの活動分野の「不愉快な」任務、または困難の一つを避け、しめだそうと試みることは最大の誤りであって、あとでかならずその償いをしなければならない。仕事と活動のあらゆる分野に例外なく習熟し、どんな場合にも、あらゆる困難、あらゆるブルジョア的な慣習、伝統、習性にうち勝つすべをまなばなければならぬ」(P141)

【学習のまとめ】
⑴ レーニンの立場はつねに一貫していた。
 第一に、前衛党はとことんマルクス主義的でなければならない。そのため
 の理論闘争、日和見主義者や排外主義者との党内闘争や党派闘争をあいま
 いにしてはならない。という立場である。
 そして、第二にはプロレタリア大衆、また非プロレタリア的な大衆、さら
 にはブルジョアインテリゲンチャ、小ブルジョア的な中間層等々を味方
 につけ、少なくとも革命の足かせにならないように獲得するために全力を
 あげること。そのためには、必要なら回り道をし、妥協が必要なことも学
 ばなければならないということだ。
⑵ プロレタリア独裁は、「できあいの国家機構をそのまま使うことはでき
 ない」が、その権力を現実に担うのは、ブルジョア的な慣習や伝統、習性
 に慣らされてきた人民の力による以外にない。よもや、数千か数万か、よ
 しんば数十万の革命党員がいたと仮定しても、それですべての国家機構が
 担えるなどという空想をしているものはいないだろう。
 本書の中で、レーニンがくどいと思われるほど、勤労大衆、まさにあらゆ
 る分野の大衆の獲得について必死に呼びかけた意味をわれわれは、もう一
 度はっきりととらえ返す必要がある。すべてのプロレタリア大衆、および
 非プロレタリア的大衆をも味方に引き入れることを真剣に考えず、その活
 動に精力を注げない党は、前衛党とは言えないし、革命を真剣に考えてい
 るともいいがたい。
⑶ かつて、創成期にあった革共同の本多延嘉氏は、党建設の課題を「党の
 ための闘い」と「党としての闘い」の弁証法的統一として規定した。当時
 はこれは、党の途上性を克服するための一個二重の闘いとして理解してい
 た。しかし、本書を読んで改めて感じたことは、プロレタリア革命を目指
 す共産主義の党にとって「党のための闘い」(第10章で述べられた第一の
 歴史的な任務)と「党としての闘い」(同、第二の任務)は、党の途上性
 という問題とは別に、前衛党としての本質的な性格によるものではないか
 ということだった。一方では厳格なイデオロギー純化と不抜の戦闘性を
 もった組織、他方では運動的により広い層、大衆と結びつくために柔軟か
 つ弾力的で、最大の精力を注ぐことのできる先進的な階級の党。一見矛盾
 した関係の弁証法的統一という中に、プロレタリア独裁をつうじて全階級
 の消滅――全人間の人間的解放を実現していくという、革命的前衛党とし
 ての特殊歴史的な役割を貫くカギがあるのではないだろうか。
⑷ われわれは、革命ロシアの孤立、スターリン主義の発生とその崩壊を検
 証するさいに、レーニンが本書で指摘し、警鐘をならしてきた問題に、国
 際共産主義運動がどのように応えたのかという視点を加える必要があると
 思う。(了)