正道有理のジャンクBOX

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レーニン「共産主義における『左翼』小児病」学習ノート④

第4章 ボルシェヴィズムは、労働運動内のどんな敵とたたかって成長し、強くなり、きたえられたか?

前章では、ボルシェビキロシア革命の全歴史を通じて、それぞれのおかれた条件に応じて柔軟で弾力性のある戦術を使い分けてきたことを見てきた。それは、マルクス主義理論に対する揺るぎない確信と、これを全面的に発展させ実践的に継承しようとしたレーニンボルシェビキの全力を尽くしたたたかいの成果なのである。 

ところで、この章題で「労働運動内の」というときの労働運動とは何を指しているのかということを考えてみたい。

レーニンの組織論においては「労働運動」とはその歴史性、社会性に規定されて自然成長的に生み出されるプロレタリアートの運動であり、これに(プロレタリアートの)「外部」から持ち込まれる社会主義的意識が結びつくことを通して、はじめて階級意識=革命的意識が生まれる。したがって、自然発生的な労働運動からだけでは階級意識は獲得できないし、ブルジョアジーの物質力の前ではやがて、それに取り込まれることさえ起きてしまう。だからこそ、革命党の宣伝扇動の内容とその意識性が重要なのだというのが『なにをなすべきか』以来の一貫した考え方だった(この立場を忘れると、労働運動内での理論闘争の意義や重要性を見失い、成果主義セクト主義に陥いるのである)。

この章では労働運動内に「持ち込まれる社会主義的意識」それ自身が真に革命的なものかどうか、マルクス主義に根差しプロレタリア革命をみちびくことができるものかどうかを見極める能力の重要性が取り上げられている。
俗に言えば、正しい党派闘争を通して党は強くなれるし鍛えられるということなのだろう。
前章で「圧倒的な労働者大衆を引き付ける必要性」が述べられたが、その場合――そうであればこそ――労働運動に影響を与え、革命運動を阻害したり変質させる妨害者、イデオロギーを見分け、またこれと闘うことが重要だということなのである。

レーニンはボルシェビズムが闘ってきた労働運動内の三つの主要な敵として、①日和見主義、②小ブルジョア的革命性、③無政府主義を挙げている。

「第一に、主として」たたかってきたのは、日和見主義である。

では、何をもって日和見主義というのか? それは「成長して社会排外主義となり、(ついには)プロレタリアートに反対してすっかりブルジョアジーに味方する」ような潮流である。だからこれは「当然に、労働運動内部のボルシェビズムの主な敵」であり、「この敵は、国際的な規模では、今なお主な敵である」(P23)

まず、大前提としてはこうした日和見主義を峻別し、たたかうことが重要だと述べている。

 次に「労働運動内部のボルシェビズムのもう一つの敵」として挙げているのは、「ブルジョア的革命性」であり、これとの長年の闘いの中で「成長し、つよくなり、きたえられた」のだが、このことは「あまりにも不十分にしか知られていない」と嘆いている。

 「この小ブルジョア的革命性は、いくらか無政府主義に似ているか、または、それからなにかを借りてきたものであり、プロレタリアの一貫した階級闘争の条件と要求からは、どの本質的な点でも、逸れている」として、その階級としての性格は「小所有者、小経営主(多くのヨーロッパ諸国では、非常に広範な多数の分子をふくむ社会的タイプ)は、資本主義のもとでは、たえず押えつけられており、非常にしばしばその生活は信じられないほどひどくまた急速に悪化し、零落していくので、たやすく極端な革命性にうつっていくが、忍耐、組織性、規律、確固さをあらわすことができない」と、マルクス主義理論における小ブルジョアジーの規定を再確認し、このような「小ブルジョアは、無政府主義とおなじように、すべての資本主義国につきものの社会現象である。このような革命性が動揺ただならず、実をむすぶことがなく、すぐに従順になり、無神経になり、幻想にはしり、はなはだしくなると、あれこれのブルジョア的な『流行』思潮に『熱狂的』に魅せられてしまう特質をもっている」と喝破したうえで、「これらの真理を理論的に抽象的にみとめるだけでは、革命党を古い誤りから救いだすことにはならない。というのは、こういう誤りは、予想外のきっかけで、すこしばかり新しい形をとって、これまでみられなかった装いをして、あるいはこれまでみられなかった環境のもとで、独特な――多少とも独特な――情勢のもとで、いつでも現れてくるものだからである」(P24)と指摘している。

そして、最後にこの小ブルジョア的革命性と結びつくイデオロギーとして「無政府主義」そのものについて多くを割いて述べている。

無政府主義は、しばしば労働運動の日和見主義的な過誤にたいする一種の罰であった」

ボルシェビキ日和見主義にたいして、仮借なく、妥協することなくたたかってきたことが、ロシアの無政府主義にとりたてて言うほどの影響力を与えなかった要因ではあるが、それは「部分的」功績であって、無政府主義の力をよわめるうえに、いっそう重要な役割をはたしたのにはロシア革命運動の歴史性があったのだとして次のように総括している。

無政府主義は過去に(十九世紀の七○年代)異常にはなばなしく発展しながらも、革命的階級の指導理論としては、まちがったものであり、役にたたないものであることを、徹底的にさらけだす機会をもっていた」(P25)ボルシェビズムが一九○三年に発足するにあたって「小ブルジョア的・半無政府主義的な(あるいは、無政府主義に媚態を呈しかねない)革命性と容赦なくたたかう伝統を受けついだ」こと。それは「ロシアに革命的プロレタリアートの大衆党の基礎がすえられた一九○○~一九○三年に、とくに強固になった。ボルシェビズムは、小ブルジョア的革命性の傾向をなによりも代表していた党、すなわち『社会革命党』との闘争」を引き継ぎ、次の三つの主要な点においてたたかい続けてきた。

第一にマルクス主義を否定したこの党は、どんな政治行動をとるにあたっても階級勢力とその相互関係を厳密に客観的に考慮にいれなければならないということを、どうしても理解しようとしなかった(そうすることができなかったと言うほうが、おそらく正しいであろう)。

逆の言い方をすれば、階級勢力の相互関係を厳密に客観的に分析し、考慮して政治行  動をとることができない独善的な党は、マルクス主義の党とは言えないということだ。

第二に、この党は、われわれマルクス主義者が断固としてしりぞけた個人的テロル、暗殺をみとめることが、彼らの特別な「革命性」または「左翼主義」であると考えた

第三に、「社会革命党」は、ドイツ社会民主党比較的小さな日和見主義的な過誤を冷笑することを「左翼主義」と考えたが、他方では、たとえば農業問題、あるいはプロレタリアートの独裁の問題では同じ党の極端な日和見主義者のまねをした

そして、このあとに展開される無政府主義への批判はこの章の核心的な部分であることを特に強調しなければならない。

この章で述べられているように、レーニンボルシェビキの全歴史を通して、無政府主義あるいは半無政府主義的潮流との容赦ないたたかいを貫いてきた。それはマスクス主義の国家観をいささかでも歪めることは、プロレタリア革命を敗北に導かざるを得ないということを理解していたからである。

 【レーニンによるマルクス主義国家論の継承】

レーニンがロシア10月革命前夜に著した『国家と革命』を読めばこのことはより一そう明確になる。ここで、少し長くなるが『国家と革命』の内容を大まかに整理してみたい。

 まず第一章で、①階級対立の非和解性の産物としての国家、②武装した人間の特殊な部隊、監獄その他(暴力装置としての国家)、③被抑圧階級を搾取する道具としての国家、④国家の「死滅」と暴力革命、という国家の四つの規定について論述している。

また、第二章の最後では、「プロレタリア独裁」論について次のようにまとめている。
マルクスの国家学説の本質は、一階級の独裁が、あらゆる階級社会一般にとってだけでなく、またブルジョアジーを打倒したプロレタリアートにとってだけでなく、さらに、資本主義を『階級なき社会』から、すなわち共産主義からへだてる歴史的時期〔過渡期〕全体にとっても、必然的であることを理解した人によって体得された。
ブルジョア国家の形態はきわめて多種多様であるが、その本質は一つである。これらの国家はみな、形態はどうあろうとも、結局のところ、かならずブルジョアジーの独裁なのである。資本主義から共産主義への過渡は、もちろん、おどろくべく豊富で多様な政治形態をもたらさざるをえないが、しかしそのさい、本質は不可避的にただ一つ――プロレタリアートの独裁であろう」

第三章では、マルクスエンゲルスが書いた『共産党宣言』への序文(一八七二年六月)において、『フランスにおける内乱』から引用した『労働者階級は、できあいの国家機構をそのままわが手ににぎって、自分自身の目的のためにつかうことはできない』という定式を再確認し、これは両者が「パリ・コンミューンの一つの根本的な、主要な教訓を、非常な重要性をもつものと考えたので、『共産党宣言』にたいする本質的な修正として挿入した」ものだと述べている。

レーニンは、この引用に続けて「非常に意味深長なのは、ほかならぬこの本質的な修正が日和見主義者によって歪曲されていて、この修正の意味が、『共産党宣言』の読者の一○○人中の九九人ではないにしても、一○人中の九人には、おそらくわかっていないということである」と指弾している。

第三章はこのあと、「粉砕された国家機構をなにに代えるのか」について触れ、「この問題にたいして、マルクスは、一八四七年の「共産党宣言」では、・・・(プロレタリアートの)任務を指示してはいるが、その解決方法については抽象的な解答しかあたえていなかった」が、「コンミューンの経験がこれに具体的な方策を与えたのである」と述べて、プロレタリア独裁国家におけるいくつかの方策を示唆している。

そして、『国家と革命』の第四章以後は、そのほとんどが無政府主義、ないしは無政府主義と密接な関係を持つ日和見主義者への批判にあてている。また、第六章の冒頭では次のように述べ、マルクス主義国家論をあいまいにし、無政府主義との違いを際だたせることを避けようとしたり、気づかないようなあやふやな態度が日和見主義を育成するのだといって共産主義運動全体に警鐘をならしているのである。

社会革命にたいする国家の関係と国家にたいする社会革命の関係という問題は、一般に革命の問題と同じように、第二インタナショナル(一八八九~一九一四年)のもっとも著名な理論家や政論家たちの興味をひくことがきわめてすくなかった。しかし、日和見主義が徐々に成長して、ついに一九一四年の第二インタナショナルの崩壊をもたらしたその過程で、もっとも特徴的なことは、彼らがこの問題に間近に接近したときでさえ、それをつとめて避けようとしたか、あるいはそれに気がつかなかったということである。

一般的にはつぎのように言える。国家とプロレタリア革命の関係の問題にたいする逃げ腰の態度、日和見主義に有利で日和見主義を育んだ態度から、マルクス主義の歪曲とその完全な卑俗化とが生じたのである

レーニンプロレタリア独裁権力を先取り的に担うという実践的立場にたって、時々の主体的条件、諸階級間の相互関係や気分を注意深く観察し、どうたたかい、何をすべきなのかを考えた。また何がプロレタリアートにとって有益なのかを常に重要な判断基準として、柔軟な戦術を駆使したのである。
その際、プロレタリア独裁をたたかいとるうえで、マルクス主義の国家観を明確にすることが極めて重要と考え、これと本質的に相いれない無政府主義、それと類似した、あるいは無政府主義と密接に結びつく小ブルジョア的左翼主義や日和見主義の影響から労働運動を守ることに全力をあげ、その反動性を容赦なく暴露してたたかった。

 レーニンマルクス主義国家論について、『国家と革命』の第四章~第五章の中で詳細に検討している。

そして、ここでのポイントは、第一に「労働者階級は、できあいの国家機構をそのままわが手ににぎって、自分自身の目的のためにつかうことはできない」ということ。これはパリコンミューンの経験にもとづき、マスクスとエンゲルスが一九七二年に『共産党宣言』の序文の中で定式化したものである。

 第二には「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、前者の後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期があり、この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない」(一九七五年『ゴータ綱領批判』)ということである。

レーニンは、共産党宣言』が書かれた当初は「プロレタリアートは自己の解放をかちとるためには、ブルジョアジーを打倒し、政治権力を奪取し、その革命的独裁を打ち立てなければならない」〔プロレタリア独裁≒プロレタリア解放のように〕と「二つの概念を無造作に並べ」ていたが、今では問題は違ったかたちで提起されている」のだと注意を促している。(『国家と革命』第五章―2)

マルクスにおける国家理論の発展】

マルクスは1848年に『共産党宣言』を書き、その後『経済学批判』(1859年)や『賃金、価格および利潤』(1865年)そして、『資本論』第一巻の発行(1867年)とマルクス経済学の体系を完成させてきた。しかし、マルクスの国家論=革命論が大きく影響を受けるのは、1871年のパリ・コンミューンを待たねばならなかった。

1871年に『フランスにおける内乱』を執筆しパリ・コンミューンの経験を注意深く分析した。そして、1872年には『共産党宣言』への新たな序文をエンゲルスと共同で掲載し、プロレタリア国家について「できあいの国家機構をそのまま使うことはできない」という明確な定式化を行なったのである。また、1875年の『ゴータ綱領批判』においては「プロレタリア独裁による過渡期社会が必要である」ことを鮮明に提起した。

このことによって、マルクス主義者と無政府主義者との見解の対立が鮮明になり、第一インターナショナルの分裂と崩壊に向かうのである。

ところが、世界の革命運動―労働運動内には、この無政府主義者との相違をあいまいにしようとする日和見主義が現れた。それによって労働者の意識の中に小ブルジョア的革命性が入り込む余地を産み出したのである。かれらはストライキに反対したり、圧倒的な労働者大衆を組織するのではなく、少数の陰謀集団によってブルジョア国家を打倒しようとテロを称賛し、あるいはブルジョア国家を打倒し権力を奪取した後、どうするのかを示すことはできず、プロレタリア独裁に反対する一方で、完全な民主主義を夢想し、階級と国家の消滅にいたるプロセスを示すことができない。

この章でレーニンが述べていることは、戦術における柔軟性は極めて重要だが、プロレタリア独裁を貫くためにはマルクス主義国家論=革命論をあいまいにしてはならない、ということではないかと思う。

第5章 ドイツの共産党「左派」。指導者―党―階級―大衆

第5章でレーニンは、ドイツ共産党「左派」(中央指導部に対する自称「原則的反対派」)を取り上げ、「彼らは『左翼小児病』のあらゆる徴候を示している」として、この「反対派」の文章への批判をとおして、それを明らかにしているのだが、「左翼」空論主義者に共通するのは、マルクス主義における概念の混乱にあると言ってもいいのではないだろうか。

ここでは、「反対派」の長い文章の引用が出ているので、なかなかわかりづらい。

要約すれば「反対派」は、プロレタリア独裁について「だれが、独裁の担い手とならなければならないか。共産党か、それともプロレタリアートか?……原則的に目標としなければならないのは、共産党の独裁かそれともプロレタリアートの独裁か?」と共産党プロレタリアートを対置した。また「反対派」は、共産党中央委が独立社会民主党との連立政策を追求したり議会での闘争を提起するのも、社民党との連立政策をおおいかくすためだと非難し、次のように言った。「いまでは二つの党が対立している。一つは指導者の党である。この党は上から革命闘争を組織し、それを指揮しようとつとめる」ことであり、「そして独裁を掌握する連立政府に自分たちが参加できるような情勢をつくりだすために、妥協に応じ、議会主義に応じている。もう一つは大衆の党である。この党は、革命闘争が下からもりあがってくるのを期待している」「あちらは指導者の独裁、こちらは大衆の独裁!これがわれわれのスローガンである」。

このように「左派」は前衛党を労働者階級に対置し、指導者を大衆に対置し、あたかもそれらがプロレタリア独裁の実現や、革命運動においてあい容れないものであるかのように論じているのである。

レーニンは、このように対置すること自体がまったくの誤りであると「左派」の主張を批判して言う。「『党の独裁か、それとも階級の独裁か?指導者の独裁(党)か、それとも大衆の独裁(党)か?』という問題のたてかただけでも、まったく信じられないほどの、手のつけられない思想の混乱を証明している」

そして、次のように整理している。
「だれでも知っているように、大衆は階級にわかれている。――大衆と階級を対立させることができるのは、社会的生産機構のなかでしめる地位によって区分されていない、膨大な多数者一般を、社会的生産機構のなかで特別の地位を占める範疇に対置させる場合にかぎられる、――階級を指導しているものは、普通たいてい場合、少なくとも近代の文明国では、政党である、――政党は通則として、最も権威のある、勢力のある、経験に富んだ、もっとも責任の重い地位にえらばれた指導者と呼ばれる人物の、多少なりとも安定したグループによって指導されている。こんなことはイロハである」(P37)。

ここでレーニンが言いたいのは、それぞれの概念をあいまいにせず、明確にしておけということである。(わけのわからない造語や、定式化された論理の一部のカテゴリーをでたらめな解釈で置きかえるのは、マルクス主義を歪め革命運動を混乱させようとするものだ!)
「党と階級の一体化」などという珍論も、時と形を変えた日和見主義である。「党」と「階級」というカテゴリーを混然一体化することで、前衛党がもつべき意識性や指導性を意図的にあいまいにするものだからである。

そのあと、レーニンは「左派」が、労働者大衆から遊離した第二インターなどの日和見主義、社会排外主義に対する労働者大衆の自然発生的な反発を代表していること。かれらは、労働者の自然発生性に拝跪し、労働者が革命政党に結集し闘うことの必要性、必然性を理解しなかったことを批判する。

ここでの重要なポイントは次の点にある
「『指導者』と大衆との分裂は、帝国主義戦争の末期と戦後にかけて、すべての国で、特にはっきりとするどくあらわれた。この現象の根本的な原因については(マルクスエンゲルスによって説明されているように)・・『大衆』のなかから、なかば小市民的な、日和見主義的な『労働貴族』を分裂した。この労働貴族の指導者たちは、たえずブルジョアジーの側に移ってゆき、直接あるいは間接に彼らの手でやしなわれて」いる。

「・・この害悪とたたかい、社会主義の裏切り者である日和見主義的な指導部を暴露し、はずかしめ、追い出さなくては、革命的プロレタリアートの勝利は不可能である」(P39)

レーニンは第二の重要なポイントとして
「党派性と党規律の否定――これこそ反対派のおちつくところだ」といって次のように説明している。

「これは、ブルジョアジーのために、プロレタリアートを完全に武装解除するのと同じである。これは、ほかならぬ小ブルジョア的分散性、動揺と同じであり、忍耐、団結、秩序ある行動にたいする無能力とおなじである。これらのものを見のがしておくと、かならず、あらゆるプロレタリア革命運動をほろぼしてしまうだろう。共産主義の立場から党派性を否定することは、(ドイツにおける)資本主義崩壊の前夜から、共産主義の低い段階や中位の段階にでなく、高い段階へ一足とびにゆくことを意味する」(P40)。

そして、レーニンは革命後のロシアの経験から次のようにつづける。
「ロシアで、(ブルジョアジーをうちたおしてから三年目だが)、資本主義から社会主義へ、つまり共産主義の低い段階へ移行するための第一歩を経験しているところである。プロレタリアートが権力をとったのちでも、階級はいたるところに、長年にわたってのこってきたし、またのこるだろう。・・・階級を廃絶することは、地主や資本家を駆逐することを意味するだけではない――これを、われわれは比較的たやすくやりとげた――、小商品生産者を廃絶することをも意味する。だが、彼らを駆逐することも、押しつぶすこともできない。彼らとは仲よく暮さなければならない。彼らは、非常に長い期間にわたる、漸進的な、慎重な組織的活動によってはじめて、つくりかえ、再教育することができる(またそうしなければならない)」さらに、それはなぜかについて「彼らは、プロレタリアートを四方八方から小ブルジョア的な雰囲気で取りまき、それをプロレタリアートのうちにしみこませ、その力でプロレタリアートを堕落させ、プロレタリアートのなかに小ブルジョア的な無性格、分散性、個人主義、熱狂から意気消沈への変転をくりかえし引きおこしている」(P41)

この「無性格、分散性、個人主義、熱狂から意気消沈への変転」こそが共産主義的な意識性、党派性への対極をなすものであり、労働者大衆を個人主義的、無党派的な層として形成し分離していく、レーニンが言う「習慣の力」なのである。
今日では、ロシア革命当時の「小商品生産者」の範疇にはなかったような、ベンチャービジネスやデジタル・ビジネス、知的産業やサービス産業など、多岐にわたる小ブル的、小商品生産の力が大資本をとりまく多層構造を形成しており、「習慣の力」はより複雑で根深くなっていると言わなければならない。

 レーニンは述べている。

「これに対抗するためには、またプロレタリアートの組織者としての役割(これが、彼らのおもな役割である)をただしく、首尾よくやりとげ、勝利をあげるためには、プロレタリアートの政党内に最も厳格な中央集権と規律が必要である。プロレタリアートの独裁は、旧社会の勢力と伝統にたいする頑強な闘争、すなわち、流血の、または無血の、暴力的な、または平和的な、軍事的または経済的な、教育的または行政的な闘争である」としたうえで、次のように付け加えている。「幾百万人幾千万人の人々の習慣の力は――もっとも恐ろしい力である。闘争できたえられた鉄のような党なしには、その階級のすべての誠実な人々から信用される党なしには、大衆の気持ちを見まもってそれに影響をあたえることのできる党なしには、この闘争を首尾よくおこなうことはできない。集中化された大ブルジョアジーに打ち勝つことは、幾百万幾千万の小経営者に「打ち勝つ」ことにくらべると、千倍も容易である。彼ら小経営者は、その毎日の、日常の、目に見えない、とらえどころのない、腐蝕的な活動によって、まさにブルジョアジーに必要な結果、ブルジョアジーを復活させる結果そのものをつくりだしているのである。プロレタリアートの党の鉄の規律をたとえすこしでも弱めるものは(とくにプロレタリアートの独裁の時期に)、実際にはプロレタリアートにそむいてブルジョアジーをたすけるものである」(P41)。

この脈絡の中で考えた時、「鉄の規律」は小ブルジョア的な「習慣の力」から前衛党とプロレタリアートをまもるために必要だと言っているのであり、セクト主義的で独善的な、あるいは官僚主義的な硬直性を示す言葉ではない。
 レーニンは、プロレタリア独裁権力を維持しなければならないという現実の中で、この「習慣の力」の巨大さ、これと対峙することの困難さをロシア革命の教訓として訴えているのであるが、それは革命運動をたたかうすべての前衛党にとっては今日的な課題として投げかけられているいえよう。

また前衛党の役割を低め否定する「左派」の主張は、「小ブルジョア的な分散性、動揺性であり、がまんし、団結し、整然たる行動をとる能力のないことである」として、それがプロレタリア的立場とは無縁であることを指摘している。