正道有理のジャンクBOX

経験から学ぶことも出来ないならば動物にも及ばない。将来の結果に役立てるよう、経験や知識を活用できるから人間には進歩がある。

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レーニン「共産主義における『左翼』小児病」学習ノート③

第2章 ボリシェヴィキの成功の一つの基本条件

 「・・わが党に最も厳しい、鉄の規律がなかったならば、労働者階級の全大衆が、すなわち労働者階級のなかで分別があり、誠実で、献身的で、影響があって、おくれた層をみちびいたり、ひきつけたりすることのできるすべての人が、このうえなく完全に、献身的にわが党を支持してくれなかったなら、ボルシェビキはこの二ヵ年半はおろか二ヵ月半も権力を持ちこたえられなかったであろう」(P12)という言葉で始まっている。

言うまでもないが、レーニンがこの章で述べようとしている「成功」の条件とは、単にボルシェビキ(革命党)としての運動や組織戦術の総括ではない。「革命という事業」、つまり革命党とプロレタリアートの歴史的事業としてのプロレタリア独裁を現実に戦い取ったという意味での「成功」について述べているのである。

 それに続けて「プロレタリア独裁」がなぜ必要なのか、その意味について明らかにしている。

(打倒されたことによって、10倍にも強くなったブルジョアジーの抵抗の力は)「国際資本の力、ブルジョアジーの国際的連繁の力と強固さにあるだけではなくて、それは習慣の力のうちに、小規模生産の力のうちにもある。なぜなら、小規模生産は残念ながらまだこの世界に極めてたくさん残っており、この小規模生産は資本主義とブルジョアジーを絶えず、毎日、毎時間、自然発生的に、しかも大量に生み出しているからである。これらすべての理由からプロレタリアートの独裁が必要となってくる」(P13)と述べている。

ここで重要なのは、打倒されたことによって国際資本の抵抗力が比較にならないほど増すのは言うまでもないことであるが、それだけではなく国内の「習慣」の力、「小生産」の力がいかに強く根をはっているか、それが問題なのだと言っているのである。だから、プロ独を実現するためには、あらかじめそれに備えた戦略が必要なのだ、ということであろう。
 ここで現在の日本に即して考えてみよう。
小市民的=小ブルジョア的階層は社会の圧倒的な部分を占めている。地域社会の中に目を向ければ明らかなように、その中心的担い手の多くは医師、弁護士、学者や教師、公務員、言論界等々のf:id:pd4659m:20210613165318j:plainインテリゲンチャであり、小商工業の経営者や大企業の中間管理職といった中産階級である。こうした人々が「習慣」の力や「既存の秩序」を産み出す原動力となっているのである。
また、産業構造に目を転じれば、0.3%(1.1万社)の大企業の中に30%の労働者(約1,460万人――そして組織労働者1,000万人の大半、とりわけ連合傘下の労働者はこの中に含まれている)が働いており、全事業者の約14.8%を占める中規模事業者約53万社は大企業の傘下に入るか、チャンスがあれば大ブルジョアジーの仲間入りをしたいと望んでいる。そして残り約84.9%の小規模事業者(約300万社)は巨大資本の支配と収奪の中で、常にその存続を脅かされ、プロレタリアートへの転落に怯えながらも、ブルジョア体制を下支えする存在であり続けよう必死の抵抗を続けるのである。他方では、4,000万人を超える労働者のほとんどが、たとえどんな形のものであるにせよ労働組合といわれるものに組織されることさえなく、資本の言いなりに働かされている。こうした現実を度外視してプロレタリア革命を語ること、またプロ独を樹立すればそこから直ちにプロレタリア解放の道が始まるかのように考えるとすれば、それこそ空論主義でしかない。
では、こうした膨大な中間層、プチブル層、また孤立させられ階級としての自覚におくれた労働者階級をどのようにして政治に引き入れ、革命の陣営につかせ、応援団に加え、少なくとも革命への抵抗勢力にならないように導くことができるのか。これはブルジョアジーを倒すこと以上に難しく、忍耐のいる仕事だが、それができなければ権力の奪取も、それを維持することも極めて難しい。
レーニンがこの著作で提起している、すべての問題意識はこのことにある。

これは、国際共産主義運動にとって基本的、普遍的なことであるが、その戦術はそれぞれの国のそれぞれの状況によって一様ではない。だから、共産主義者の党は柔軟で弾力性のある戦術を練り上げる必要があると述べているのである。

そしてレーニンは続ける。

その勝利は「長い、ねばり強い、猛烈な死闘、忍耐、規律、剛毅、不屈、意志の統一を必要とする戦いなしには」不可能であった。そのためには「プロレタリアートの無条件の中央集権と最も厳格な規律こそがブルジョアジーに勝利する根本条件の一つ」であったと述べ、では「なぜボルシェビキが革命的プロレタリアートに不可欠な規律をつくりあげることができたのかという原因について」三つの設問に答えるという形で説明している。

①革命党の規律が何によってささえられるのか?
→プロレタリア前衛の階級意識、革命に対する献身、その忍耐、自己犠牲、
 英雄主義によってである。 

②革命党の規律は、なにによって点検されるのか?
→きわめて広範な勤労大衆、なによりもまずプロレタリア的勤労大衆と、さ
 らにまた非プロレタリア的勤労大衆とも結びつき、接近し、必要とあれば
 ある程度まで彼らととけあう能力
によってである。

③革命党の規律は、なにによって強化されるのか?
→これら前衛のおこなう政治指導のただしさによってであり、かれらの政治
 的戦略と戦術の正しさによってである。―ただし、これは最も広い大衆が
 自分の経験にもとづいてその正しさを納得するということを条件とする。

そして、「これらの条件がないなら、規律を作り出そうという試みは、必ず間のぬけたもの、空文句、道化に変ってしまう。だが、他方、これらの条件は一挙にうまれるわけのもの」ではなく、「長いあいだの苦労によって、苦しい経験によってはじめてつくりあげられる」(P15)と述べている。

この有名な規定は過去の党建設―党活動上の歴史において、様々に解釈され実践されてきたものである。例えば革命理論や階級意識の意義を強調するもの、献身や自己犠牲を党の作風や気風の獲得に結び付け強調するもの、労働者人民に接近する能力を党と階級の交通形態の確立の観点から重視するもの、戦略や戦術の正しさを強調するもの、革命党の実践、経験の蓄積と組織的団結の意義を強調するもの、労働者大衆による経験の意義を重視するもの等々、その時点での組織的課題に合わせて、一側面を強調するようなことはしていなかっただろうか。重要なことは、これらすべての要素、諸側面をトータルに把握し、実践して初めて共産主義の党、革命党が建設されるということである。

ところで、設問①については一般に「党の規律」が献身、忍耐、自己犠牲、英雄主義にあるといわれれば、たいていの革命党員は納得するであろう。これはよく引用される部分でもある。
 では、設問②において、なぜ「非プロレタリア的勤労大衆とも結びつき、接近し、必要とあればある程度まで彼らととけあう能力」をもつことが、党の規律を「点検する」ことになるのか? ここで留意すべきは「大衆が」点検するのではなく、「大衆と結びつく(党の)能力」が、点検の主語になっていることだ。つまり、党や党員活動家が大衆に結びつく度合いこそが規律の尺度だと言っているのである。
 また、設問③で「最も広い大衆が自分の経験にもとづいてその正しさを納得する」という条件がないときには「革命党の戦略や戦術の正しさ」が強化されないとしているのはなぜなのか。こちらの場合は「党を強化する」ものは「もっとも広い大衆の経験にもとづく納得」、すなわち主語は「大衆」なのである。革命的プロレタリアートとの結びつきを強めることの方がより大切ではないのか? と考えるひともいるだろう。
(いや、そういう疑問すら持たず、ただレーニンを引用して「大衆との結びつき」やボルシェビキ党の恐るべき献身性を呪文のように讃えてさえいれば、革命的だと思っている人さえいるのだ! レーニンはこうしたことをもっと深く考えよ、と警告しているのである)

ここで、レーニンは述べている。

これらの条件は「長いあいだの苦労によって、苦しい経験によってはじめてつくりあげられるのである。これらの条件をつくりだすのを容易にするものは正しい革命理論である。さらにこの理論は、教条ではなく、真に大衆的な、また真に革命的な運動の実践と密接にむすびついてはじめて最終的につくりあげられるものである」

ボルシェビズムの「革命理論の正しさを証明したものは、一九世紀全体の世界的な経験だけでなく、とくに、ロシアの革命思想の彷徨〔ホウコウ=さ迷い歩く〕と動揺、誤りと失望の経験であった。・・・これまで見たこともない野蛮で反動的なツァーリズムの圧迫を受けながら、正しい革命理論をむさぼるように探求し、この分野におけるヨーロッパとアメリカの『最後の言葉』〔一番新しい帝国主義国の政治、経済、社会、文化等〕の一つ一つを余さず、おどろくべき熱心さと綿密さで追究した。聞いたこともないほどの苦しみと犠牲、見たこともないような革命的英雄主義、信じられないようなエネルギーと限りない探求、研究、実践上の試練、失望、点検、ヨーロッパの経験との比較の半世紀にわたる歴史によって、ロシアはただ一つの正しい革命理論であるマルクス主義を真に苦しみを通じてたたかいとったのである」(P15)

この論述の中でも明らかなように、ここには半世紀にわたる苦闘を通してつかみとったマルクス主義理論に対する不動の確信がにじみ出ている。
マルクス主義を科学とするならば、あらゆる社会的な事象について弁証法唯物論の立場から説明できなければならない。それが、仮に非プロレタリア的勤労大衆であろうとも、ブルジョアジーの擁護者でないかぎりは納得させる論理を持たなければならない。マルクス主義的な革命理論への揺るぎない確信があるからこそ、あらゆる大衆との交通形態を重視し、変革の対象とすることによって自分自身をも検証する。こうした苦闘の過程が自己をマルクス主義者としてうち鍛えていくことでもあるのだ。また、先進的意識をもっているプロレタリアートだけではなしに、より広い大衆の中に溶け込む努力によって柔軟性や弾力性が養われるのである。
ロシアのボルシェビキは、ツァーリ専制の抑圧の下で試行錯誤を繰り返しながら、そうした地道な活動を積み重ね、マルクス主義を真の革命理論として自分のものにしてきたということが述べられているのである。

この革命理論に支えられた自発的な意思の力、献身性や自己犠牲、英雄主義――ところで「自発的な意志の力」をもってする組織性、これを「団結」といわないだろうか。共産主義的団結=鉄のように固い規律。そういう意味で「鉄の規律」を作り出したということである。
 もう一つは、「大衆が自ら経験によって正しさを納得する」ということが絶対的条件になっていることである。革命党の側からみれば「自身の理論の正しさ」を大衆が自分たちの「経験によって正しさを納得する」ということは、大衆が意識として内在化する(=意識変革)ということであり、この弁証法的な相互関係がなければ、正しい理論の構築はできないという意味でも極めて重要なことを述べているのである。
ここで提起されている内容をレーニンの権威を振りかざしながら都合のいいところだけ引用したり、あらゆる階級、階層、より広い大衆の中で活動をすることを予め閉ざしてしまうことは、まさに「間のぬけたもの、空文句、道化」に陥るばかりでなく、独善的で、およそ革命とは無縁な運動に陥るほかはないのである。

第3章 ボリシェヴィズムの歴史のおもな段階

 この章では、一九〇三年から一九一七年の革命までの歴史を6つの年代に分けて総括している。しかし、レーニンは一般的なロシア革命史を述べようとしているわけでも、ボルシェビキの党史を語ろうとしているわけでもない。プロレタリア革命という戦略を見据え、それぞれの時代がもっている特徴や性格に対応した柔軟で弾力的な戦術の重要さを明らかにしようとしているのである。

①まず第一は革命の準備の時代(一九〇三年から一九〇五年)
 この時代には(1)自由主義的=ブルジョア的潮流、(2)小ブルジョア的=民主主義的潮流、(3)プロレタリア的=革命的潮流という三つの潮流が、来るべき〔ツァー専制後の新しい時代を見据えそのヘゲモニーをかけた〕たたかいのための適当な思想的=政治的武器をきたえてゆく」時代。

②革命の時代(一九〇五年から一九〇七年)
 すべての階級が公然と進出し、その綱領と戦術が大衆の行動によって試された時代。

ストライキ闘争は世界にいままで見られなかったような広さと鋭さをもつ。経済的ストライキは政治的ストライキに成長し、政治的ストライキは成長して蜂起になる。指導するプロレタリアートと、指導される、動揺している、不安定な農民層との関係は、実践的に点検される」
「議会的闘争形態と非議会的闘争形態の交替、議会ボイコット戦術と議会参加戦術の交替、合法的闘争形態と非合法的闘争形態の交替、同様に、これらのものの相互関係と結びつき、――これらすべてのものは、おどろくべく豊かな内容の点できわだっている。この期間の一ヵ月は政治科学の基礎を、大衆にも、指導者にも、階級にも、党にも、教えこんだという点で、『平和な』、『立憲的な』発展の一年にあたる」(P17)

この時期、レーニンは『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』(一九〇五年六月)を書いている。そして次のような「カウツキーの分析はわれわれにきわめて完全な満足をあたえる」として紹介している(レーニン全集第11巻 「ロシア革命におけるプロレタリアートとその同盟者」)

「小冊子『二つの戦術』のなかで、ロシアのボリシェヴィキはつねに、メンシェヴイズムとの闘争の基礎が、右翼の社会民主主義者による『ブルジョア革命』という概念の歪曲にあるとみてきた。『ブルジョア革命』というカテゴリーを、ロシア革命における首位と指導的役割とをブルジョアジーにみとめるという意味に理解することは、マルクス主義の卑俗化であるということを、われわれは何百回となくかたってきたし、メンシェヴィキの無数の言明をもとにしてこれを明らかにしてきた。ブルジョアジーの動揺性にさからい、ブルジョアジーの動揺性を麻痺させることによる、ブルジョア革命――ボリシェヴィキは革命における社会民主党の基本的任務を、こう定式化した」

ボルシェビキは「ブルジョア革命」だからナンセンスとは言わなかった。これに対し、メンシェビキは「ブルジョア革命」はブルジョアジーが主導権をもつものと考え、そこでプロレタリアートが首位を奪おうとか、ブルジョアジーの動揺に付け入ろうとは考えなかったのである。

③反動の時代(一九〇七年から一九一〇年)

 ツァーリズムの勝利。革命的な政党と反政府的な政党のすべてがうち砕かれた。沈滞、士気阻喪、分裂、離散、裏切り。好色文学が政治に変り、観念論と神秘主義があらわれる。

「だが同時に、まさにこの大きな敗北が、ほんとうの、きわめて有益な教訓、歴史的弁証法の教訓、政治闘争をどうおこなうかの理解と手腕と技術にかんする教訓を、革命的な諸政党と革命的な階級にあたえる」(P18)

そして、有名な言葉を述べている。
「友だちは不幸なときにわかる」「敗けた軍隊はよくまなぶ」

〔しかし、友だちの不幸に気付かないものもいるし、敗けても学ばない軍隊もいる〕

レーニンは繰り返し注意を喚起している。
「革命的諸政党は徹底的に学ばなければならない。かれらは攻撃することを学んだ。いまや、この攻撃の科学を、もっと正しく退却するにはどうすべきかという科学でおぎなうべきだということを理解しなければならない。正しい攻撃と正しい退却を学ばずには、勝利することはできない」(P18)

そして、ボルシェビキが秩序整然と、味方の損害や分裂も最も少なく、活動を再開する力を残して退却できたのは、「退却しなければならないこと、また退却する能力を持たなければならないこと、最も反動的な議会で、最も反動的な労働組合、協同組合、保険組合、その他の組織内で合法的に活動すること」(P19)の必要性を理解しようとしない「口先だけの革命家たちを、容赦なく暴露して追い出したからに他ならない」と述べている。

これが、次の高揚の時代、ボルシェビキの優位を切り開くことにつながっていくのである。

 ④高揚の時代(一九一〇年から一九一四年)

「最初、この運動の高まりは信じられないほどのろのろ」としていたが「一九一二年のレナ事件の後、すこしはやくなった」

「レナ事件」一九一二年四月一七日に、ロシア帝国のシベリアのレナ川付近でストライキを行っていた金鉱労働者をロシア帝国軍が無差別に射殺した事件。

 「ボルシェビキは、いままで耳にしたこともないような困難にうちかち、メンシェビキを押しのけた」「労働運動内のブルジョアの手先としてのメンシェヴィキの役割は、一九○五年以後にブルジョアジー全体が非常によく理解していた・・・だからこそブルジョアジー全体が、ボリシェヴィキに反対したメンシェヴィキを、あらゆるやり方で支持したのである。しかし、非合法活動と、「合法的可能性」をかならず利用することとを結びつけるという正しい戦術をとらなかったなら、ボリシェヴィキは、メンシェヴィキをおしのけることに成功しなかったであろう。ボリシェヴィキは、もっとも反動的な国会で労働者クーリヤ全部を獲得した」(P19)

労働者クーリア
選挙権が与えられたのは男子労働者総数50人以上の工場・鉱山の25歳以上の男子労働者。有権者代表比率は50~1000人の企業から1名、1000人以上の企業では各1000人増すごとに1名加算とした。都市民や圧倒的な数の農民層にくらべ、全体に占める選出比率は小さかったが、労働者クーリアの選挙人を決める集会は、唯一合法的かつ全労働者を包摂した政治宣伝の場であったということだ。これは、工場委員会とともに労働者の経済闘争と政治闘争を結合させる重要な役割を果たしたのではないだろうか。

⑤第一次世界帝国主義戦争(一九一四年から一九一七年)

「合法的な議会主義は、最も反動的な『議会』ではあったが、革命的プロレタリアートの党に、ボルシェビキに、非常に役に立った」「戦争のおかげですべての先進国ではほめそやされている『合法性』が奪いさられたとき、ロシアの革命家たちがスイスやその他の国で組織したような、自由な(非合法な)意見交換や正しい意見の自由な(非合法な)仕上げという点では、ロシア革命家のまねさえできなかった」(P20)

(そして、この時期に)「社会排外主義と『カウッキー主義』(フランスのロンゲ主義、イギリスの独立労働党の指導者たちとフェビアン派たちの見解、イタリアのトゥラーティの見解など)のみにくさ、いやらしさ、卑劣さを容赦なく暴露し、大衆のほうでもやがて自分の経験からボルシェビキの意見の正しさをますます確信するようになったこと」が一九一七年から一九二〇年のロシア革命を勝利に導いた基本的原因の一つだ、と総括している。

⑥ロシアの第二次革命(一九一七年二月から一〇月まで)

ツァーリズムにたいする、信じられないほどの破壊力をつくりだした。数日のうちに、ロシアは、世界中のどの国よりも自由な――戦争状態のもとで――民主的ブルジョア共和国にかわった」「たとえどんなに反動的な議会であれ、議会内の反政府党の指導者であるという肩書は、このような指導者が革命でその後一役買うのを容易なものにした」

「メンシェビキと『社会革命党員』とは、数週間のうちに、ヨーロッパの第二インタナショナルの英雄たち、入閣主義者〔社会排外主義との絶縁が問題になっているときに、その反動的なブルジョア内閣への参加を主張する。ミルラン主義とも呼ばれる〕その他の役たたずの日和見主義者のすべての手口と物腰、論拠と詭弁を、数週間のうちに、身につけた」

「(われわれは)こんなことはみな、メンシェビキですでに見せつけられている。歴史はいたずら好きで、おくれた国の日和見主義者たちに、多くのすすんだ国の日和見主義者たちの先鞭をつけさせたのである」

すすんだ国の革命家は、自分たちが日和見主義にならないよう、ロシアのメンシェビキの破産を反面教師として学ばなければならない。ということを示唆している。

この章の最後では次のように記している。

「議会制(事実上の)ブルジョア共和国にたいする、またメンシェヴィキにたいする勝利にかがやく闘争をはじめるにあたって、ボルシェビキはきわめて慎重であって、けっして無造作に準備したのではない、――いまヨーロッパやアメリカでしばしば見うけられる見解とは逆である。われわれは、さきにあげた時期の初めのころ、政府を打倒せよと呼びかけたのではなく、ソヴェトの構成と気分とを前もって変えなければ、政府を打倒することができないことを明らかにしたのである。われわれは、ブルジョア議会、憲法制定議会のボイコットを宣言したのではなく」「憲法制定議会をもつブルジョア共和国は、憲法制定議会をもたないブルジョア共和国よりもよい、だが「労働者=農民の」ソヴェト共和国は、いかなるブルジョア民主主義的・議会制的共和国よりももっとよい」と述べたのだ。「このような用心ぶかい、綿密な、慎重な、そして長い準備〔労働者大衆の中で培った経験と思慮ぶかさ〕がなかったなら、われわれは一九一七年十月の勝利をかちとることも、この勝利を維持することもできなかったであろう」

ツァー専制が世界の列強に伍して突き進むためには、遅れた資本主義から帝国主義への急速な転換を求められていた。このような歴史的条件に規定され、ロシアでボルシェビキが経験した一五年は、先進帝国主義の歴史の数十年を濃縮したような激しいものがあったと思う。
 だからこそ、ボルシェビキの経験は普遍的で原理的なものを持っていると考えるべきなのだろう。

また、ボルシェビキの慎重さは、ツァー専制の弾圧が厳しいから「イソップの言葉で」語ったという事だけではない。プロレタリア大衆自身が自分の経験を通して納得し、また考えるためにはどのように訴えるべきなのか、広範な大衆の意識を一歩でも引き上げるにはどうすべきか、実践を通しながら必死に考え抜いた結果だったに違いない。

「○○せよ!」「○○でなければならない!」式の左翼党派のアジテーションは、レーニンとボルシェビズムの歪曲されたイメージからきたものなのか?

もう一つ、ボルシェビキプロレタリアートと労働者大衆の意識を引き上げ、政治的経験を積み上げるために他党派との「妥協」や「同盟」も辞さない柔軟な戦術を用いた。その主だったものを見ると、このレーニンの時代区分とほぼ対応しているのは興味がある。
①一九〇一年~二年 ブルジョア自由主義派の指導者であったストルーヴェとの「政治同盟」。②一九〇五年以降 労働者と農民の同盟。③ツァーリズムに反対してブルジョアジーを支持すること(選挙での支持協力)。④一九〇六年~一二年 メンシェヴィキとの「統一」。⑤一九一五年 国際反戦会議(ツィンメルヴァルド、キンタール)でのカウツキー派、メンシェヴィキ左派、社会革命党との妥協。⑥十月革命時における社会革命党左派との政治ブロック。
このように見ると、いかにも場当たり的で一貫性がないように感じるかもしれない。

しかし、党の活動の重要部分を成す戦術と路線、現実的な労働者階級、人民を指導し階級形成していく活動において、自らの「手足をしばられることのない戦術」が柔軟性を確保する条件なのである。(硬直した「型」にはまった戦術は、客観情勢の変化や主体的条件の変化に対応できず、そこで戦術を転換した場合には、労働者大衆にとっては場当たり的な、無責任なものに映ってしまうのだ)
柔軟性と弾力性の確保、これこそがレーニンの提起の核心である

もちろんレーニンは戦術を現場に合わせた御都合的なもの、基本的にはどうでも良いものなどとして柔軟性を強調したわけではない。ロシアでは〇五年革命の後、革命運動の後退期が訪れたが、依然として国会のボイコット戦術、また労働組合をはじめとする諸機関(保険金庫など)のボイコットを主張する党内左派は存在したし、そうした部分との真剣な党内論争をも経ながらボルシェビキの戦術は形成されていったのである。ここでは当然にも労働者階級の経験、蓄積、運動の状態、また党が持つ現実的な影響力、加えて支配階級が内包している矛盾、そのほころび、支配能力とその頑強さや弱点等々の分析が必要となった。レーニンが重視したのは<労働者階級の経験と状態、現実的な運動とその経験>であり、ここから一歩でも前に出る戦術であった。反動的議会を利用、活用すること、反動的労働組合や行政機関を活用、利用することは、当時の労働者人民には政治的に自由の経験、団結の蓄積の観点からいって大きな意味を持っていた。

 このことを確認し、次の章からは具体的な戦術の考え方について検討することになる。