正道有理のジャンクBOX

経験から学ぶことも出来ないならば動物にも及ばない。将来の結果に役立てるよう、経験や知識を活用できるから人間には進歩がある。

正道有理のジャンクBOX

レーニン「共産主義における『左翼』小児病」学習ノート①

序章

  (一)

レーニンは「共産主義における『左翼』小児病」(以下「『左翼』空論主義」と略)の著作を一九二〇年四月から五月にかけて書きあげた。

そして五月一二日に原稿が仕上がると、その植字から印刷の進行状況までを自分で監督し、このパンフレットの発行を急がせた。レーニンは三か月後に迫ったコミンテルン第三インターナショナル)第二回大会のために、この論文を間に合わせることがどうしても必要であった。

一九一七年、ロシア革命が勝利すると帝国主義戦争によって苦しめられてきたロシア帝国支配下の植民地諸国の人民、被抑圧民族プロレタリアートは次々と民族独立の革命闘争に決起した。またドイツでは一九一八年一〇月、キール軍港に停泊していた軍艦の水兵たちが汽缶の火を消して出撃命令を拒否し、兵士評議会を結成して革命的反乱に決起した。この水兵の反乱を口火として、革命的闘争の炎は全ドイツにひろがり、ドイツ全都市に労兵評議会(レーテ)がつくられた。ここにドイツ革命の火ぶたが切っておとされ、まさに第一次世界大戦末期のヨーロッパは革命的激動のるつぼと化し、その熱気は国際共産主義運動全体に大きく影響を与えるものとなっていた。

レーニンをはじめとするボルシェビキと、すべてのロシアプロレタリアートがドイツ革命をかたずをのんで見守り、ドイツプロレタリアートの勝利を心から待ちのぞんだことは疑いない。

この革命をロシア革命に続いてプロレタリア独裁権力の樹立―全ヨーロッパのプロレタリア革命へと押し上げることができるのか、という国際共産主義運動の歴史的真価が問われていたのである。

ロシア革命の成功は、ヨーロッパを中心にドイツ、イギリス、イタリア、オランダそしてアメリカなど多くの国で共産主義的、社会主義的組織や諸グループ、労働者党結成の流れを作り出したが、それはボリシェヴィキ的潮流ばかりではなく、アナルコサンジカリスト的潮流や左翼社民的潮流も含んでいた。また、第二インターナショナルのもとで祖国擁護―社会排外主義に転落した社会民主主義潮流の一部は、戦後の革命期においては一層反動的にブルジョアジーの手先となって労働者人民の闘いに敵対する一方、多くの部分が動揺と分裂を繰り返していた。こうした中で、反動化した社会民主主義の指導部から決別し、革命的左派の潮流を引き継ごうとする革命党、共産主義者の組織建設も世界各国で進んでいたのである。

だが経験の浅い共産主義組織は、最初から多くの困難や欠陥を有していた。労働組合運動内では改良主義的諸組織が依然として大きな影響力をもっており、労働者大衆はその下に組織されていた。多くの共産主義の党は「先進的な労働者」をひきつけることはできたが、広範な労働者を右翼的社民指導部の影響から切り離し、革命運動の隊列に引き入れることはできていなかった。

イギリスの共産主義者ブルジョア議会への参加に否定的態度をとり、ドイツの共産主義労働者党ブルジョア議会や改良主義労働組合の中での活動を拒否し、共産党が大衆に影響をおよぼし、組織する可能性を妨げるものとなっていた。

こうした「左翼」空論主義的見解は、イギリスやドイツのみならず、フランス、オーストリアアメリカ、オランダその他の国にも広まっていた。各国の共産主義者とその党は、排外主義、改良主義的な第二インターナショナルと決別し、先進的なプロレタリアートを集結させるために精力的にたたかってきた党ではあったが、ここで問われたのは空理空論ではなく、現実にプロレタリア独裁を闘いとる準備と能力を備えているのかどうか、という問題だったのである。

 

 (二)

このレーニンのパンフレットは、七月十九日からモスクワで開催されたコミンテルン第二回大会を前に、すべての参加者に配布された。同時にレーニンは、各国の共産党指導者に精力的に手紙を送り「左翼的」空論主義からの決別、これとの闘いを呼びかけた。

一九二〇年という年は、ドイツでは一九一八年一〇月を発端とした革命的激動期に突入していたにもかかわらず、確固とした戦いの方針は示されなかった。SPDの「祖国擁護」方針に反発して分裂した独立社会民主党(USPD)、労働組合内反対派の革命的オプロイテは社会主義を標榜し、労働組合への影響力も大きかったが、議会主義的変革を求め、蜂起には反対していた。一方、急進派のスパルタクス団(後のドイツ共産党)は権力奪取を目指していたが、広範な労働者を組織してはいなかった。このように、プロレタリア人民の隊列は統一した指導部を持っておらず、労働者・兵士のレーテ運動が全国に波及する中、プロレタリア権力に到達するまでの道筋はついに示されることがなかった。こうしてドイツ革命はとん挫し、ハンガリー革命もルーマニアの侵攻によって敗北を余儀なくされた。他方ではポーランド社会党右派のピウスツキが領土的野心からロシアに侵攻、ソヴィエト=ポーランド戦争が始まっていた。レーニンポーランドの労働者が呼応して蜂起することを期待して赤軍ワルシャワに向けて進撃たせたが、これは大きな誤算となりワルシャワを目前にして赤軍は大敗北を喫することになる。ポーランドの労働者は国際プロレタリアートの側ではなく、ピウスツキの呼びかけた祖国防衛という民族主義を選んだのであった。<E.H.カー/塩川伸明訳『ロシア革命』 岩波現代文庫>

ロシア革命が直面したこのような歴史的現実の中で、次の革命的攻勢にそなえるためには、それぞれの共産党共産主義運動が、自覚したプロレタリアのみならず、すべての労働者大衆と非プロレタリアをも味方の隊列に引き入れ、実際にプロレタリア独裁を戦取する(蜂起を戦いとる)準備、能力をもった真の前衛へと成長することが決定的に求められたのである。

 本書は党建設と党活動に関する原則的な諸点、それも、ロシア革命を実際に成し遂げプロレタリア独裁権力を確立しつつあるボルシェビキの、優れて実践上の経験を通してつかみ取った一般的=普遍的な党建設上の原則を述べたものといえよう。とりわけ左からの空論主義、教条主義セクト主義の偏向に対して、本来の革命党、労働者党がとるべき原則的態度を明らかにしたものである。

ただ、今日のわれわれがこの著作の学習をする際には、そうした党建設、組織原則の確認にとどまってはいけないと思うのである。考えなければいけないことは、世界の共産主義運動と共産主義組織が、いまなおレーニンの提起に実践的な回答を与えることができず、帝国主義の延命を許し、そのもとに労働者人民、被抑圧民族人民の生殺与奪が委ねられてしまっているという痛苦な現実があるということだ。

このレーニンの「『左翼』空論主義」は、今日でも各国の革命的共産主義者にとって重要な文献に扱われているが、コミンテルンとその後の国際共産主義運動はこのレーニンの提起にどのように答えたのだろうか。

 (三)

国際共産主義運動の中に根深く存在し続けた『左翼』空論主義

一九二一年、コミンテルンは統一ドイツ共産党議長パウル・レヴィを「イタリア社会党の分裂工作に反対した」という理由で辞任に追いこみ、「攻勢派」すなわち武装闘争派と入れ換えた。そのうえで三月蜂起は、コミンテルンが派遣したクン・ベーラの指導のもとに行われたのであるが、大衆的支持を得られないままあっけなく粉砕されたのである。

その三ヶ月後に開催されたコミンテルン第三回大会では、三月の熱気からいまだ冷めやらないドイツ共産党の若い指導部は、「現在は革命期であるから、われわれ革命的前衛はひたすら前進あるのみ。いかなる障害を前にしても停止してはならず、現実の力の前に労働者階級を惹きつけなければならない」と主張した。また、コミンテルンの各国支部および中執の中にも、なお攻勢理論に固執している左翼主義者は多数いたのである。ジノヴィエフブハーリン、ラデックなどもその中に含まれていたが、彼らは注意深くレーニンの顔色をうかがい、ベーラ・クンを前面に押し立てていた。

大会を前にした執行委員会でトロッキーは、ベーラ・クンの「左翼主義」を痛烈に批判する大演説を行い大激論となったのである。第二回大会のレーニンの忠告は重視されなかったか無視されていたのだ。

レーニンは、この会議には出席していなかった(このころのレーニンは体の調子が思わしくなく、主要な会議は議事録に目を通し、自分が意見を述べる必要があると認めた場合以外に参加することは少なくなっていた )が、ベーラ・クンが攻勢理論の立場からトロツキーを攻撃する演説を行ったことを知ると、速記録をとり寄せ次の執行委員会議に出席して、ベーラ・クンを激烈に批判し、トロツキーを全面的に擁護する猛烈な演説を行なった。

「同志ベーラ・クンは、日和見主義者だけが誤りを犯したと主張している。しかし、実際には、左派も誤りを犯しているのだ。この速記録によれば、(フランス共産党の徴兵拒否に関し)同志トロツキーは、この種の左派の同志たちが今後とも同じ道を歩み続けるならば、フランスにおける共産主義運動と労働者運動を破滅に追いやるだろうと語っている。私もこのことを深く確信している。そこで私は、同志ベーラ・クンの演説に抗議するためにここに来たのである」

「・・・・大衆はますます君たちに近づいており、君たちはますます勝利に近づいている。そうであるならなおさら、労働組合の指導権を獲得しなければならない。労働組合の多数派獲得は、準備作業にとって素晴らしい成果をもたらす。もしこれに成功すれば、偉大な勝利となるだろう。ブルジョア民主主義はもはや信用されていないが、労働組合では第2および第2半インターナショナル出身の官僚的指導者がいぜんとして優位を保っている。労働組合の中で、われわれは何よりも信頼できるマルクス主義的多数派を獲得しなければならない」

このトロッキーを擁護するレーニンの演説は、スターリン主義者によってレーニン全集からは割愛された。だが、レーニン共産主義インターナショナル第三回大会の過程で繰り返し「左翼」共産主義を批判したことは、たとえばレーニン全集第32巻(「ドイツ共産主義者への手紙」)、同第42巻(「ドイツ、ポーランドチェコスロヴァキアハンガリーおよびイタリアの代議員団会議における演説」)等に掲載されており、また大会議事録からも明らかにされている。
ここから考えられるのは、レーニンが想定していたよりも「左翼」空論主義は根深く、これを克服する闘いは簡単ではなかったということではないだろうか。

 そしてレーニンの没後、スターリンが「一国社会主義論」を唱えて世界革命路線を放棄すると、「左翼共産主義」批判はトロッキー批判に置き換わり、左翼空論主義=極左冒険主義はトロツキストの代名詞にとって変わられた。同時に、各国でのプロレタリア革命―プロレタリア独裁権力樹立という困難な事業から解放された共産党組織は、広範な労働者大衆の獲得、反動的な労働組合での気の遠くなるような組織活動を放棄し、労働者階級の政治的空間に一定の位置を占めることにその存在意義を見出していくのである。その結果、党を大衆運動の中に埋没させたり、逆に党勢拡大に大衆運動や労働組合を利用したり、セクト主義的に囲い込む等々、共産主義運動の原則は完全に変質してしまったのだということを指摘しなければならない。こうした国際共産主義運動スターリン主義)の存在は、帝国主義によるソ連包囲外交に一定のブレーキをかけスターリン主義の防衛=平和共存路線を助け、もって帝国主義の延命を補完するという役割を果たしてきたのである。そして、ソ連崩壊後は、新左翼を含むすべての共産主義運動が革命の戦略を見失い、ますます社民化の道を突き進んでいると言わなければならない。

 (四)

この著作を学習する方法として第1章の次に、第10章「二、三の結論」で展開されるロシア革命(とりわけ1905年以後の)を概括し、そこで何が求められたのかということをレーニンのまとめに従って押さえたうえで、2章に戻って、当時の共産主義インターナショナルコミンテルン)に参加しているヨーロッパ各国の「若い」共産党組織が陥っている誤りについて検討し、レーニン主義的な国際共産主義運動を再建するには何が求められているのかを考えてみたい。

第1章 どんな意味でロシア革命の国際的意義をかたることができるか?

 レーニンはこの章の書き出しで次のように述べている。

「ロシアでプロレタリアートが政治権力をとってから最初の数か月間は、遅れたロシアと進んだ西ヨーロッパ諸国との間に非常な違いがあるので、これら西ヨーロッパ諸国のプロレタリア革命は、わが国の革命とあまり似たものにならないだろうと思われたのも無理からぬことであった。いまでは、われわれはすでに相当な国際的経験をつんでおり、この経験はわれわれの革命のいくつかの基本的な特徴が、たんに地方的な、民族に特有の、ロシアだけの意義を持っているのではなくて、国際的な意義をもっていることを極めてはっきりと物語っている」(P9)

 ここでレーニンが言う「相当な国際的経験」とは何を指しているのだろうか。

革命後の数か月からこの著作が書かれた一九二〇年四月までの約二年半の経験というのは、ほかならぬプロレタリア独裁の経験を意味していると考えてよいのではないか。レーニンはこの世界でも初めての経験を踏まえてロシア革命ボルシェビキの闘いを総括し「国際的意義を持ついくつかの基本的な特徴」を提起しているのだと述べているのである。単なる「革命運動」の総括ではなく、武装蜂起とプロレタリア独裁権力の樹立―維持という、唯物論的現実に踏まえたロシア革命の歴史的検証が行われているという点が重要なのであり、同じようにプロレタリア革命を目指そうとする全世界の共産主義運動が共有すべき基本的で普遍的な提起だということなのである。

そして、

①「国際的意義」とは、わが国で起こったことが国際的意義を持つ、あるいはそれが国際的規模で繰り返されるのは歴史的に避けられない(普遍的であるということ)

②そのように理解するならば、広い意味ではなく、革命の基本的な特徴の二、三のものについての意義をみとめねばならない(広い意味に解してはならないが、基本的なことなのだ)

としたうえで「もちろん、この真理を誇張し、・・・いくつかの基本的な特徴以外にひろげるなら、それは極めて大きなまちがいとなろう」とも述べている。

 ★それぞれの国の階級闘争は、その歴史的、民族的、あるいは経済的=産業的等々の条件によって一様ではないから、全部ロシアの真似をしてはダメだが、二、三の基本的特徴は普遍的なもので国際的意義を持っているからキチンと主体化しなければいけない、と言っているのだ。

 続けて「しかし、ロシアの手本がすべての国にその避けられない、近い将来のなにかを、それもきわめて本質的なものを示しているということ―まさに、これこそが現在の歴史的時代の事態である。すべての国の先進的な労働者たちはずっと前から理解していた・・・というより革命的な階級の本能によってこれをつかみ、感じていた」(P10)として

1、ソヴィエト権力の国際的「意義」(狭い意味の)

2、ボルシェビキの理論と戦術の国際的な「意義」(狭い意味の)

この二つが革命的な階級の本能としっかり結びついていたというところにボルシェビキの闘いの普遍性、国際的な意義がある、ということだろう。                            (続く)