正道有理のジャンクBOX

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レーニン「共産主義における『左翼』小児病」学習ノート④

第4章 ボルシェヴィズムは、労働運動内のどんな敵とたたかって成長し、強くなり、きたえられたか?

前章では、ボルシェビキロシア革命の全歴史を通じて、それぞれのおかれた条件に応じて柔軟で弾力性のある戦術を使い分けてきたことを見てきた。それは、マルクス主義理論に対する揺るぎない確信と、これを全面的に発展させ実践的に継承しようとしたレーニンボルシェビキの全力を尽くしたたたかいの成果なのである。 

ところで、この章題で「労働運動内の」というときの労働運動とは何を指しているのかということを考えてみたい。

レーニンの組織論においては「労働運動」とはその歴史性、社会性に規定されて自然成長的に生み出されるプロレタリアートの運動であり、これに(プロレタリアートの)「外部」から持ち込まれる社会主義的意識が結びつくことを通して、はじめて階級意識=革命的意識が生まれる。したがって、自然発生的な労働運動からだけでは階級意識は獲得できないし、ブルジョアジーの物質力の前ではやがて、それに取り込まれることさえ起きてしまう。だからこそ、革命党の宣伝扇動の内容とその意識性が重要なのだというのが『なにをなすべきか』以来の一貫した考え方だった(この立場を忘れると、労働運動内での理論闘争の意義や重要性を見失い、成果主義セクト主義に陥いるのである)。

この章では労働運動内に「持ち込まれる社会主義的意識」それ自身が真に革命的なものかどうか、マルクス主義に根差しプロレタリア革命をみちびくことができるものかどうかを見極める能力の重要性が取り上げられている。
俗に言えば、正しい党派闘争を通して党は強くなれるし鍛えられるということなのだろう。
前章で「圧倒的な労働者大衆を引き付ける必要性」が述べられたが、その場合――そうであればこそ――労働運動に影響を与え、革命運動を阻害したり変質させる妨害者、イデオロギーを見分け、またこれと闘うことが重要だということなのである。

レーニンはボルシェビズムが闘ってきた労働運動内の三つの主要な敵として、①日和見主義、②小ブルジョア的革命性、③無政府主義を挙げている。

「第一に、主として」たたかってきたのは、日和見主義である。

では、何をもって日和見主義というのか? それは「成長して社会排外主義となり、(ついには)プロレタリアートに反対してすっかりブルジョアジーに味方する」ような潮流である。だからこれは「当然に、労働運動内部のボルシェビズムの主な敵」であり、「この敵は、国際的な規模では、今なお主な敵である」(P23)

まず、大前提としてはこうした日和見主義を峻別し、たたかうことが重要だと述べている。

 次に「労働運動内部のボルシェビズムのもう一つの敵」として挙げているのは、「ブルジョア的革命性」であり、これとの長年の闘いの中で「成長し、つよくなり、きたえられた」のだが、このことは「あまりにも不十分にしか知られていない」と嘆いている。

 「この小ブルジョア的革命性は、いくらか無政府主義に似ているか、または、それからなにかを借りてきたものであり、プロレタリアの一貫した階級闘争の条件と要求からは、どの本質的な点でも、逸れている」として、その階級としての性格は「小所有者、小経営主(多くのヨーロッパ諸国では、非常に広範な多数の分子をふくむ社会的タイプ)は、資本主義のもとでは、たえず押えつけられており、非常にしばしばその生活は信じられないほどひどくまた急速に悪化し、零落していくので、たやすく極端な革命性にうつっていくが、忍耐、組織性、規律、確固さをあらわすことができない」と、マルクス主義理論における小ブルジョアジーの規定を再確認し、このような「小ブルジョアは、無政府主義とおなじように、すべての資本主義国につきものの社会現象である。このような革命性が動揺ただならず、実をむすぶことがなく、すぐに従順になり、無神経になり、幻想にはしり、はなはだしくなると、あれこれのブルジョア的な『流行』思潮に『熱狂的』に魅せられてしまう特質をもっている」と喝破したうえで、「これらの真理を理論的に抽象的にみとめるだけでは、革命党を古い誤りから救いだすことにはならない。というのは、こういう誤りは、予想外のきっかけで、すこしばかり新しい形をとって、これまでみられなかった装いをして、あるいはこれまでみられなかった環境のもとで、独特な――多少とも独特な――情勢のもとで、いつでも現れてくるものだからである」(P24)と指摘している。

そして、最後にこの小ブルジョア的革命性と結びつくイデオロギーとして「無政府主義」そのものについて多くを割いて述べている。

無政府主義は、しばしば労働運動の日和見主義的な過誤にたいする一種の罰であった」

ボルシェビキ日和見主義にたいして、仮借なく、妥協することなくたたかってきたことが、ロシアの無政府主義にとりたてて言うほどの影響力を与えなかった要因ではあるが、それは「部分的」功績であって、無政府主義の力をよわめるうえに、いっそう重要な役割をはたしたのにはロシア革命運動の歴史性があったのだとして次のように総括している。

無政府主義は過去に(十九世紀の七○年代)異常にはなばなしく発展しながらも、革命的階級の指導理論としては、まちがったものであり、役にたたないものであることを、徹底的にさらけだす機会をもっていた」(P25)ボルシェビズムが一九○三年に発足するにあたって「小ブルジョア的・半無政府主義的な(あるいは、無政府主義に媚態を呈しかねない)革命性と容赦なくたたかう伝統を受けついだ」こと。それは「ロシアに革命的プロレタリアートの大衆党の基礎がすえられた一九○○~一九○三年に、とくに強固になった。ボルシェビズムは、小ブルジョア的革命性の傾向をなによりも代表していた党、すなわち『社会革命党』との闘争」を引き継ぎ、次の三つの主要な点においてたたかい続けてきた。

第一にマルクス主義を否定したこの党は、どんな政治行動をとるにあたっても階級勢力とその相互関係を厳密に客観的に考慮にいれなければならないということを、どうしても理解しようとしなかった(そうすることができなかったと言うほうが、おそらく正しいであろう)。

逆の言い方をすれば、階級勢力の相互関係を厳密に客観的に分析し、考慮して政治行  動をとることができない独善的な党は、マルクス主義の党とは言えないということだ。

第二に、この党は、われわれマルクス主義者が断固としてしりぞけた個人的テロル、暗殺をみとめることが、彼らの特別な「革命性」または「左翼主義」であると考えた

第三に、「社会革命党」は、ドイツ社会民主党比較的小さな日和見主義的な過誤を冷笑することを「左翼主義」と考えたが、他方では、たとえば農業問題、あるいはプロレタリアートの独裁の問題では同じ党の極端な日和見主義者のまねをした

そして、このあとに展開される無政府主義への批判はこの章の核心的な部分であることを特に強調しなければならない。

この章で述べられているように、レーニンボルシェビキの全歴史を通して、無政府主義あるいは半無政府主義的潮流との容赦ないたたかいを貫いてきた。それはマスクス主義の国家観をいささかでも歪めることは、プロレタリア革命を敗北に導かざるを得ないということを理解していたからである。

 【レーニンによるマルクス主義国家論の継承】

レーニンがロシア10月革命前夜に著した『国家と革命』を読めばこのことはより一そう明確になる。ここで、少し長くなるが『国家と革命』の内容を大まかに整理してみたい。

 まず第一章で、①階級対立の非和解性の産物としての国家、②武装した人間の特殊な部隊、監獄その他(暴力装置としての国家)、③被抑圧階級を搾取する道具としての国家、④国家の「死滅」と暴力革命、という国家の四つの規定について論述している。

また、第二章の最後では、「プロレタリア独裁」論について次のようにまとめている。
マルクスの国家学説の本質は、一階級の独裁が、あらゆる階級社会一般にとってだけでなく、またブルジョアジーを打倒したプロレタリアートにとってだけでなく、さらに、資本主義を『階級なき社会』から、すなわち共産主義からへだてる歴史的時期〔過渡期〕全体にとっても、必然的であることを理解した人によって体得された。
ブルジョア国家の形態はきわめて多種多様であるが、その本質は一つである。これらの国家はみな、形態はどうあろうとも、結局のところ、かならずブルジョアジーの独裁なのである。資本主義から共産主義への過渡は、もちろん、おどろくべく豊富で多様な政治形態をもたらさざるをえないが、しかしそのさい、本質は不可避的にただ一つ――プロレタリアートの独裁であろう」

第三章では、マルクスエンゲルスが書いた『共産党宣言』への序文(一八七二年六月)において、『フランスにおける内乱』から引用した『労働者階級は、できあいの国家機構をそのままわが手ににぎって、自分自身の目的のためにつかうことはできない』という定式を再確認し、これは両者が「パリ・コンミューンの一つの根本的な、主要な教訓を、非常な重要性をもつものと考えたので、『共産党宣言』にたいする本質的な修正として挿入した」ものだと述べている。

レーニンは、この引用に続けて「非常に意味深長なのは、ほかならぬこの本質的な修正が日和見主義者によって歪曲されていて、この修正の意味が、『共産党宣言』の読者の一○○人中の九九人ではないにしても、一○人中の九人には、おそらくわかっていないということである」と指弾している。

第三章はこのあと、「粉砕された国家機構をなにに代えるのか」について触れ、「この問題にたいして、マルクスは、一八四七年の「共産党宣言」では、・・・(プロレタリアートの)任務を指示してはいるが、その解決方法については抽象的な解答しかあたえていなかった」が、「コンミューンの経験がこれに具体的な方策を与えたのである」と述べて、プロレタリア独裁国家におけるいくつかの方策を示唆している。

そして、『国家と革命』の第四章以後は、そのほとんどが無政府主義、ないしは無政府主義と密接な関係を持つ日和見主義者への批判にあてている。また、第六章の冒頭では次のように述べ、マルクス主義国家論をあいまいにし、無政府主義との違いを際だたせることを避けようとしたり、気づかないようなあやふやな態度が日和見主義を育成するのだといって共産主義運動全体に警鐘をならしているのである。

社会革命にたいする国家の関係と国家にたいする社会革命の関係という問題は、一般に革命の問題と同じように、第二インタナショナル(一八八九~一九一四年)のもっとも著名な理論家や政論家たちの興味をひくことがきわめてすくなかった。しかし、日和見主義が徐々に成長して、ついに一九一四年の第二インタナショナルの崩壊をもたらしたその過程で、もっとも特徴的なことは、彼らがこの問題に間近に接近したときでさえ、それをつとめて避けようとしたか、あるいはそれに気がつかなかったということである。

一般的にはつぎのように言える。国家とプロレタリア革命の関係の問題にたいする逃げ腰の態度、日和見主義に有利で日和見主義を育んだ態度から、マルクス主義の歪曲とその完全な卑俗化とが生じたのである

レーニンプロレタリア独裁権力を先取り的に担うという実践的立場にたって、時々の主体的条件、諸階級間の相互関係や気分を注意深く観察し、どうたたかい、何をすべきなのかを考えた。また何がプロレタリアートにとって有益なのかを常に重要な判断基準として、柔軟な戦術を駆使したのである。
その際、プロレタリア独裁をたたかいとるうえで、マルクス主義の国家観を明確にすることが極めて重要と考え、これと本質的に相いれない無政府主義、それと類似した、あるいは無政府主義と密接に結びつく小ブルジョア的左翼主義や日和見主義の影響から労働運動を守ることに全力をあげ、その反動性を容赦なく暴露してたたかった。

 レーニンマルクス主義国家論について、『国家と革命』の第四章~第五章の中で詳細に検討している。

そして、ここでのポイントは、第一に「労働者階級は、できあいの国家機構をそのままわが手ににぎって、自分自身の目的のためにつかうことはできない」ということ。これはパリコンミューンの経験にもとづき、マスクスとエンゲルスが一九七二年に『共産党宣言』の序文の中で定式化したものである。

 第二には「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、前者の後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期があり、この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない」(一九七五年『ゴータ綱領批判』)ということである。

レーニンは、共産党宣言』が書かれた当初は「プロレタリアートは自己の解放をかちとるためには、ブルジョアジーを打倒し、政治権力を奪取し、その革命的独裁を打ち立てなければならない」〔プロレタリア独裁≒プロレタリア解放のように〕と「二つの概念を無造作に並べ」ていたが、今では問題は違ったかたちで提起されている」のだと注意を促している。(『国家と革命』第五章―2)

マルクスにおける国家理論の発展】

マルクスは1848年に『共産党宣言』を書き、その後『経済学批判』(1859年)や『賃金、価格および利潤』(1865年)そして、『資本論』第一巻の発行(1867年)とマルクス経済学の体系を完成させてきた。しかし、マルクスの国家論=革命論が大きく影響を受けるのは、1871年のパリ・コンミューンを待たねばならなかった。

1871年に『フランスにおける内乱』を執筆しパリ・コンミューンの経験を注意深く分析した。そして、1872年には『共産党宣言』への新たな序文をエンゲルスと共同で掲載し、プロレタリア国家について「できあいの国家機構をそのまま使うことはできない」という明確な定式化を行なったのである。また、1875年の『ゴータ綱領批判』においては「プロレタリア独裁による過渡期社会が必要である」ことを鮮明に提起した。

このことによって、マルクス主義者と無政府主義者との見解の対立が鮮明になり、第一インターナショナルの分裂と崩壊に向かうのである。

ところが、世界の革命運動―労働運動内には、この無政府主義者との相違をあいまいにしようとする日和見主義が現れた。それによって労働者の意識の中に小ブルジョア的革命性が入り込む余地を産み出したのである。かれらはストライキに反対したり、圧倒的な労働者大衆を組織するのではなく、少数の陰謀集団によってブルジョア国家を打倒しようとテロを称賛し、あるいはブルジョア国家を打倒し権力を奪取した後、どうするのかを示すことはできず、プロレタリア独裁に反対する一方で、完全な民主主義を夢想し、階級と国家の消滅にいたるプロセスを示すことができない。

この章でレーニンが述べていることは、戦術における柔軟性は極めて重要だが、プロレタリア独裁を貫くためにはマルクス主義国家論=革命論をあいまいにしてはならない、ということではないかと思う。

第5章 ドイツの共産党「左派」。指導者―党―階級―大衆

第5章でレーニンは、ドイツ共産党「左派」(中央指導部に対する自称「原則的反対派」)を取り上げ、「彼らは『左翼小児病』のあらゆる徴候を示している」として、この「反対派」の文章への批判をとおして、それを明らかにしているのだが、「左翼」空論主義者に共通するのは、マルクス主義における概念の混乱にあると言ってもいいのではないだろうか。

ここでは、「反対派」の長い文章の引用が出ているので、なかなかわかりづらい。

要約すれば「反対派」は、プロレタリア独裁について「だれが、独裁の担い手とならなければならないか。共産党か、それともプロレタリアートか?……原則的に目標としなければならないのは、共産党の独裁かそれともプロレタリアートの独裁か?」と共産党プロレタリアートを対置した。また「反対派」は、共産党中央委が独立社会民主党との連立政策を追求したり議会での闘争を提起するのも、社民党との連立政策をおおいかくすためだと非難し、次のように言った。「いまでは二つの党が対立している。一つは指導者の党である。この党は上から革命闘争を組織し、それを指揮しようとつとめる」ことであり、「そして独裁を掌握する連立政府に自分たちが参加できるような情勢をつくりだすために、妥協に応じ、議会主義に応じている。もう一つは大衆の党である。この党は、革命闘争が下からもりあがってくるのを期待している」「あちらは指導者の独裁、こちらは大衆の独裁!これがわれわれのスローガンである」。

このように「左派」は前衛党を労働者階級に対置し、指導者を大衆に対置し、あたかもそれらがプロレタリア独裁の実現や、革命運動においてあい容れないものであるかのように論じているのである。

レーニンは、このように対置すること自体がまったくの誤りであると「左派」の主張を批判して言う。「『党の独裁か、それとも階級の独裁か?指導者の独裁(党)か、それとも大衆の独裁(党)か?』という問題のたてかただけでも、まったく信じられないほどの、手のつけられない思想の混乱を証明している」

そして、次のように整理している。
「だれでも知っているように、大衆は階級にわかれている。――大衆と階級を対立させることができるのは、社会的生産機構のなかでしめる地位によって区分されていない、膨大な多数者一般を、社会的生産機構のなかで特別の地位を占める範疇に対置させる場合にかぎられる、――階級を指導しているものは、普通たいてい場合、少なくとも近代の文明国では、政党である、――政党は通則として、最も権威のある、勢力のある、経験に富んだ、もっとも責任の重い地位にえらばれた指導者と呼ばれる人物の、多少なりとも安定したグループによって指導されている。こんなことはイロハである」(P37)。

ここでレーニンが言いたいのは、それぞれの概念をあいまいにせず、明確にしておけということである。(わけのわからない造語や、定式化された論理の一部のカテゴリーをでたらめな解釈で置きかえるのは、マルクス主義を歪め革命運動を混乱させようとするものだ!)
「党と階級の一体化」などという珍論も、時と形を変えた日和見主義である。「党」と「階級」というカテゴリーを混然一体化することで、前衛党がもつべき意識性や指導性を意図的にあいまいにするものだからである。

そのあと、レーニンは「左派」が、労働者大衆から遊離した第二インターなどの日和見主義、社会排外主義に対する労働者大衆の自然発生的な反発を代表していること。かれらは、労働者の自然発生性に拝跪し、労働者が革命政党に結集し闘うことの必要性、必然性を理解しなかったことを批判する。

ここでの重要なポイントは次の点にある
「『指導者』と大衆との分裂は、帝国主義戦争の末期と戦後にかけて、すべての国で、特にはっきりとするどくあらわれた。この現象の根本的な原因については(マルクスエンゲルスによって説明されているように)・・『大衆』のなかから、なかば小市民的な、日和見主義的な『労働貴族』を分裂した。この労働貴族の指導者たちは、たえずブルジョアジーの側に移ってゆき、直接あるいは間接に彼らの手でやしなわれて」いる。

「・・この害悪とたたかい、社会主義の裏切り者である日和見主義的な指導部を暴露し、はずかしめ、追い出さなくては、革命的プロレタリアートの勝利は不可能である」(P39)

レーニンは第二の重要なポイントとして
「党派性と党規律の否定――これこそ反対派のおちつくところだ」といって次のように説明している。

「これは、ブルジョアジーのために、プロレタリアートを完全に武装解除するのと同じである。これは、ほかならぬ小ブルジョア的分散性、動揺と同じであり、忍耐、団結、秩序ある行動にたいする無能力とおなじである。これらのものを見のがしておくと、かならず、あらゆるプロレタリア革命運動をほろぼしてしまうだろう。共産主義の立場から党派性を否定することは、(ドイツにおける)資本主義崩壊の前夜から、共産主義の低い段階や中位の段階にでなく、高い段階へ一足とびにゆくことを意味する」(P40)。

そして、レーニンは革命後のロシアの経験から次のようにつづける。
「ロシアで、(ブルジョアジーをうちたおしてから三年目だが)、資本主義から社会主義へ、つまり共産主義の低い段階へ移行するための第一歩を経験しているところである。プロレタリアートが権力をとったのちでも、階級はいたるところに、長年にわたってのこってきたし、またのこるだろう。・・・階級を廃絶することは、地主や資本家を駆逐することを意味するだけではない――これを、われわれは比較的たやすくやりとげた――、小商品生産者を廃絶することをも意味する。だが、彼らを駆逐することも、押しつぶすこともできない。彼らとは仲よく暮さなければならない。彼らは、非常に長い期間にわたる、漸進的な、慎重な組織的活動によってはじめて、つくりかえ、再教育することができる(またそうしなければならない)」さらに、それはなぜかについて「彼らは、プロレタリアートを四方八方から小ブルジョア的な雰囲気で取りまき、それをプロレタリアートのうちにしみこませ、その力でプロレタリアートを堕落させ、プロレタリアートのなかに小ブルジョア的な無性格、分散性、個人主義、熱狂から意気消沈への変転をくりかえし引きおこしている」(P41)

この「無性格、分散性、個人主義、熱狂から意気消沈への変転」こそが共産主義的な意識性、党派性への対極をなすものであり、労働者大衆を個人主義的、無党派的な層として形成し分離していく、レーニンが言う「習慣の力」なのである。
今日では、ロシア革命当時の「小商品生産者」の範疇にはなかったような、ベンチャービジネスやデジタル・ビジネス、知的産業やサービス産業など、多岐にわたる小ブル的、小商品生産の力が大資本をとりまく多層構造を形成しており、「習慣の力」はより複雑で根深くなっていると言わなければならない。

 レーニンは述べている。

「これに対抗するためには、またプロレタリアートの組織者としての役割(これが、彼らのおもな役割である)をただしく、首尾よくやりとげ、勝利をあげるためには、プロレタリアートの政党内に最も厳格な中央集権と規律が必要である。プロレタリアートの独裁は、旧社会の勢力と伝統にたいする頑強な闘争、すなわち、流血の、または無血の、暴力的な、または平和的な、軍事的または経済的な、教育的または行政的な闘争である」としたうえで、次のように付け加えている。「幾百万人幾千万人の人々の習慣の力は――もっとも恐ろしい力である。闘争できたえられた鉄のような党なしには、その階級のすべての誠実な人々から信用される党なしには、大衆の気持ちを見まもってそれに影響をあたえることのできる党なしには、この闘争を首尾よくおこなうことはできない。集中化された大ブルジョアジーに打ち勝つことは、幾百万幾千万の小経営者に「打ち勝つ」ことにくらべると、千倍も容易である。彼ら小経営者は、その毎日の、日常の、目に見えない、とらえどころのない、腐蝕的な活動によって、まさにブルジョアジーに必要な結果、ブルジョアジーを復活させる結果そのものをつくりだしているのである。プロレタリアートの党の鉄の規律をたとえすこしでも弱めるものは(とくにプロレタリアートの独裁の時期に)、実際にはプロレタリアートにそむいてブルジョアジーをたすけるものである」(P41)。

この脈絡の中で考えた時、「鉄の規律」は小ブルジョア的な「習慣の力」から前衛党とプロレタリアートをまもるために必要だと言っているのであり、セクト主義的で独善的な、あるいは官僚主義的な硬直性を示す言葉ではない。
 レーニンは、プロレタリア独裁権力を維持しなければならないという現実の中で、この「習慣の力」の巨大さ、これと対峙することの困難さをロシア革命の教訓として訴えているのであるが、それは革命運動をたたかうすべての前衛党にとっては今日的な課題として投げかけられているいえよう。

また前衛党の役割を低め否定する「左派」の主張は、「小ブルジョア的な分散性、動揺性であり、がまんし、団結し、整然たる行動をとる能力のないことである」として、それがプロレタリア的立場とは無縁であることを指摘している。

レーニン「共産主義における『左翼』小児病」学習ノート③

第2章 ボリシェヴィキの成功の一つの基本条件

 「・・わが党に最も厳しい、鉄の規律がなかったならば、労働者階級の全大衆が、すなわち労働者階級のなかで分別があり、誠実で、献身的で、影響があって、おくれた層をみちびいたり、ひきつけたりすることのできるすべての人が、このうえなく完全に、献身的にわが党を支持してくれなかったなら、ボルシェビキはこの二ヵ年半はおろか二ヵ月半も権力を持ちこたえられなかったであろう」(P12)という言葉で始まっている。

言うまでもないが、レーニンがこの章で述べようとしている「成功」の条件とは、単にボルシェビキ(革命党)としての運動や組織戦術の総括ではない。「革命という事業」、つまり革命党とプロレタリアートの歴史的事業としてのプロレタリア独裁を現実に戦い取ったという意味での「成功」について述べているのである。

 それに続けて「プロレタリア独裁」がなぜ必要なのか、その意味について明らかにしている。

(打倒されたことによって、10倍にも強くなったブルジョアジーの抵抗の力は)「国際資本の力、ブルジョアジーの国際的連繁の力と強固さにあるだけではなくて、それは習慣の力のうちに、小規模生産の力のうちにもある。なぜなら、小規模生産は残念ながらまだこの世界に極めてたくさん残っており、この小規模生産は資本主義とブルジョアジーを絶えず、毎日、毎時間、自然発生的に、しかも大量に生み出しているからである。これらすべての理由からプロレタリアートの独裁が必要となってくる」(P13)と述べている。

ここで重要なのは、打倒されたことによって国際資本の抵抗力が比較にならないほど増すのは言うまでもないことであるが、それだけではなく国内の「習慣」の力、「小生産」の力がいかに強く根をはっているか、それが問題なのだと言っているのである。だから、プロ独を実現するためには、あらかじめそれに備えた戦略が必要なのだ、ということであろう。
 ここで現在の日本に即して考えてみよう。
小市民的=小ブルジョア的階層は社会の圧倒的な部分を占めている。地域社会の中に目を向ければ明らかなように、その中心的担い手の多くは医師、弁護士、学者や教師、公務員、言論界等々のf:id:pd4659m:20210613165318j:plainインテリゲンチャであり、小商工業の経営者や大企業の中間管理職といった中産階級である。こうした人々が「習慣」の力や「既存の秩序」を産み出す原動力となっているのである。
また、産業構造に目を転じれば、0.3%(1.1万社)の大企業の中に30%の労働者(約1,460万人――そして組織労働者1,000万人の大半、とりわけ連合傘下の労働者はこの中に含まれている)が働いており、全事業者の約14.8%を占める中規模事業者約53万社は大企業の傘下に入るか、チャンスがあれば大ブルジョアジーの仲間入りをしたいと望んでいる。そして残り約84.9%の小規模事業者(約300万社)は巨大資本の支配と収奪の中で、常にその存続を脅かされ、プロレタリアートへの転落に怯えながらも、ブルジョア体制を下支えする存在であり続けよう必死の抵抗を続けるのである。他方では、4,000万人を超える労働者のほとんどが、たとえどんな形のものであるにせよ労働組合といわれるものに組織されることさえなく、資本の言いなりに働かされている。こうした現実を度外視してプロレタリア革命を語ること、またプロ独を樹立すればそこから直ちにプロレタリア解放の道が始まるかのように考えるとすれば、それこそ空論主義でしかない。
では、こうした膨大な中間層、プチブル層、また孤立させられ階級としての自覚におくれた労働者階級をどのようにして政治に引き入れ、革命の陣営につかせ、応援団に加え、少なくとも革命への抵抗勢力にならないように導くことができるのか。これはブルジョアジーを倒すこと以上に難しく、忍耐のいる仕事だが、それができなければ権力の奪取も、それを維持することも極めて難しい。
レーニンがこの著作で提起している、すべての問題意識はこのことにある。

これは、国際共産主義運動にとって基本的、普遍的なことであるが、その戦術はそれぞれの国のそれぞれの状況によって一様ではない。だから、共産主義者の党は柔軟で弾力性のある戦術を練り上げる必要があると述べているのである。

そしてレーニンは続ける。

その勝利は「長い、ねばり強い、猛烈な死闘、忍耐、規律、剛毅、不屈、意志の統一を必要とする戦いなしには」不可能であった。そのためには「プロレタリアートの無条件の中央集権と最も厳格な規律こそがブルジョアジーに勝利する根本条件の一つ」であったと述べ、では「なぜボルシェビキが革命的プロレタリアートに不可欠な規律をつくりあげることができたのかという原因について」三つの設問に答えるという形で説明している。

①革命党の規律が何によってささえられるのか?
→プロレタリア前衛の階級意識、革命に対する献身、その忍耐、自己犠牲、
 英雄主義によってである。 

②革命党の規律は、なにによって点検されるのか?
→きわめて広範な勤労大衆、なによりもまずプロレタリア的勤労大衆と、さ
 らにまた非プロレタリア的勤労大衆とも結びつき、接近し、必要とあれば
 ある程度まで彼らととけあう能力
によってである。

③革命党の規律は、なにによって強化されるのか?
→これら前衛のおこなう政治指導のただしさによってであり、かれらの政治
 的戦略と戦術の正しさによってである。―ただし、これは最も広い大衆が
 自分の経験にもとづいてその正しさを納得するということを条件とする。

そして、「これらの条件がないなら、規律を作り出そうという試みは、必ず間のぬけたもの、空文句、道化に変ってしまう。だが、他方、これらの条件は一挙にうまれるわけのもの」ではなく、「長いあいだの苦労によって、苦しい経験によってはじめてつくりあげられる」(P15)と述べている。

この有名な規定は過去の党建設―党活動上の歴史において、様々に解釈され実践されてきたものである。例えば革命理論や階級意識の意義を強調するもの、献身や自己犠牲を党の作風や気風の獲得に結び付け強調するもの、労働者人民に接近する能力を党と階級の交通形態の確立の観点から重視するもの、戦略や戦術の正しさを強調するもの、革命党の実践、経験の蓄積と組織的団結の意義を強調するもの、労働者大衆による経験の意義を重視するもの等々、その時点での組織的課題に合わせて、一側面を強調するようなことはしていなかっただろうか。重要なことは、これらすべての要素、諸側面をトータルに把握し、実践して初めて共産主義の党、革命党が建設されるということである。

ところで、設問①については一般に「党の規律」が献身、忍耐、自己犠牲、英雄主義にあるといわれれば、たいていの革命党員は納得するであろう。これはよく引用される部分でもある。
 では、設問②において、なぜ「非プロレタリア的勤労大衆とも結びつき、接近し、必要とあればある程度まで彼らととけあう能力」をもつことが、党の規律を「点検する」ことになるのか? ここで留意すべきは「大衆が」点検するのではなく、「大衆と結びつく(党の)能力」が、点検の主語になっていることだ。つまり、党や党員活動家が大衆に結びつく度合いこそが規律の尺度だと言っているのである。
 また、設問③で「最も広い大衆が自分の経験にもとづいてその正しさを納得する」という条件がないときには「革命党の戦略や戦術の正しさ」が強化されないとしているのはなぜなのか。こちらの場合は「党を強化する」ものは「もっとも広い大衆の経験にもとづく納得」、すなわち主語は「大衆」なのである。革命的プロレタリアートとの結びつきを強めることの方がより大切ではないのか? と考えるひともいるだろう。
(いや、そういう疑問すら持たず、ただレーニンを引用して「大衆との結びつき」やボルシェビキ党の恐るべき献身性を呪文のように讃えてさえいれば、革命的だと思っている人さえいるのだ! レーニンはこうしたことをもっと深く考えよ、と警告しているのである)

ここで、レーニンは述べている。

これらの条件は「長いあいだの苦労によって、苦しい経験によってはじめてつくりあげられるのである。これらの条件をつくりだすのを容易にするものは正しい革命理論である。さらにこの理論は、教条ではなく、真に大衆的な、また真に革命的な運動の実践と密接にむすびついてはじめて最終的につくりあげられるものである」

ボルシェビズムの「革命理論の正しさを証明したものは、一九世紀全体の世界的な経験だけでなく、とくに、ロシアの革命思想の彷徨〔ホウコウ=さ迷い歩く〕と動揺、誤りと失望の経験であった。・・・これまで見たこともない野蛮で反動的なツァーリズムの圧迫を受けながら、正しい革命理論をむさぼるように探求し、この分野におけるヨーロッパとアメリカの『最後の言葉』〔一番新しい帝国主義国の政治、経済、社会、文化等〕の一つ一つを余さず、おどろくべき熱心さと綿密さで追究した。聞いたこともないほどの苦しみと犠牲、見たこともないような革命的英雄主義、信じられないようなエネルギーと限りない探求、研究、実践上の試練、失望、点検、ヨーロッパの経験との比較の半世紀にわたる歴史によって、ロシアはただ一つの正しい革命理論であるマルクス主義を真に苦しみを通じてたたかいとったのである」(P15)

この論述の中でも明らかなように、ここには半世紀にわたる苦闘を通してつかみとったマルクス主義理論に対する不動の確信がにじみ出ている。
マルクス主義を科学とするならば、あらゆる社会的な事象について弁証法唯物論の立場から説明できなければならない。それが、仮に非プロレタリア的勤労大衆であろうとも、ブルジョアジーの擁護者でないかぎりは納得させる論理を持たなければならない。マルクス主義的な革命理論への揺るぎない確信があるからこそ、あらゆる大衆との交通形態を重視し、変革の対象とすることによって自分自身をも検証する。こうした苦闘の過程が自己をマルクス主義者としてうち鍛えていくことでもあるのだ。また、先進的意識をもっているプロレタリアートだけではなしに、より広い大衆の中に溶け込む努力によって柔軟性や弾力性が養われるのである。
ロシアのボルシェビキは、ツァーリ専制の抑圧の下で試行錯誤を繰り返しながら、そうした地道な活動を積み重ね、マルクス主義を真の革命理論として自分のものにしてきたということが述べられているのである。

この革命理論に支えられた自発的な意思の力、献身性や自己犠牲、英雄主義――ところで「自発的な意志の力」をもってする組織性、これを「団結」といわないだろうか。共産主義的団結=鉄のように固い規律。そういう意味で「鉄の規律」を作り出したということである。
 もう一つは、「大衆が自ら経験によって正しさを納得する」ということが絶対的条件になっていることである。革命党の側からみれば「自身の理論の正しさ」を大衆が自分たちの「経験によって正しさを納得する」ということは、大衆が意識として内在化する(=意識変革)ということであり、この弁証法的な相互関係がなければ、正しい理論の構築はできないという意味でも極めて重要なことを述べているのである。
ここで提起されている内容をレーニンの権威を振りかざしながら都合のいいところだけ引用したり、あらゆる階級、階層、より広い大衆の中で活動をすることを予め閉ざしてしまうことは、まさに「間のぬけたもの、空文句、道化」に陥るばかりでなく、独善的で、およそ革命とは無縁な運動に陥るほかはないのである。

第3章 ボリシェヴィズムの歴史のおもな段階

 この章では、一九〇三年から一九一七年の革命までの歴史を6つの年代に分けて総括している。しかし、レーニンは一般的なロシア革命史を述べようとしているわけでも、ボルシェビキの党史を語ろうとしているわけでもない。プロレタリア革命という戦略を見据え、それぞれの時代がもっている特徴や性格に対応した柔軟で弾力的な戦術の重要さを明らかにしようとしているのである。

①まず第一は革命の準備の時代(一九〇三年から一九〇五年)
 この時代には(1)自由主義的=ブルジョア的潮流、(2)小ブルジョア的=民主主義的潮流、(3)プロレタリア的=革命的潮流という三つの潮流が、来るべき〔ツァー専制後の新しい時代を見据えそのヘゲモニーをかけた〕たたかいのための適当な思想的=政治的武器をきたえてゆく」時代。

②革命の時代(一九〇五年から一九〇七年)
 すべての階級が公然と進出し、その綱領と戦術が大衆の行動によって試された時代。

ストライキ闘争は世界にいままで見られなかったような広さと鋭さをもつ。経済的ストライキは政治的ストライキに成長し、政治的ストライキは成長して蜂起になる。指導するプロレタリアートと、指導される、動揺している、不安定な農民層との関係は、実践的に点検される」
「議会的闘争形態と非議会的闘争形態の交替、議会ボイコット戦術と議会参加戦術の交替、合法的闘争形態と非合法的闘争形態の交替、同様に、これらのものの相互関係と結びつき、――これらすべてのものは、おどろくべく豊かな内容の点できわだっている。この期間の一ヵ月は政治科学の基礎を、大衆にも、指導者にも、階級にも、党にも、教えこんだという点で、『平和な』、『立憲的な』発展の一年にあたる」(P17)

この時期、レーニンは『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』(一九〇五年六月)を書いている。そして次のような「カウツキーの分析はわれわれにきわめて完全な満足をあたえる」として紹介している(レーニン全集第11巻 「ロシア革命におけるプロレタリアートとその同盟者」)

「小冊子『二つの戦術』のなかで、ロシアのボリシェヴィキはつねに、メンシェヴイズムとの闘争の基礎が、右翼の社会民主主義者による『ブルジョア革命』という概念の歪曲にあるとみてきた。『ブルジョア革命』というカテゴリーを、ロシア革命における首位と指導的役割とをブルジョアジーにみとめるという意味に理解することは、マルクス主義の卑俗化であるということを、われわれは何百回となくかたってきたし、メンシェヴィキの無数の言明をもとにしてこれを明らかにしてきた。ブルジョアジーの動揺性にさからい、ブルジョアジーの動揺性を麻痺させることによる、ブルジョア革命――ボリシェヴィキは革命における社会民主党の基本的任務を、こう定式化した」

ボルシェビキは「ブルジョア革命」だからナンセンスとは言わなかった。これに対し、メンシェビキは「ブルジョア革命」はブルジョアジーが主導権をもつものと考え、そこでプロレタリアートが首位を奪おうとか、ブルジョアジーの動揺に付け入ろうとは考えなかったのである。

③反動の時代(一九〇七年から一九一〇年)

 ツァーリズムの勝利。革命的な政党と反政府的な政党のすべてがうち砕かれた。沈滞、士気阻喪、分裂、離散、裏切り。好色文学が政治に変り、観念論と神秘主義があらわれる。

「だが同時に、まさにこの大きな敗北が、ほんとうの、きわめて有益な教訓、歴史的弁証法の教訓、政治闘争をどうおこなうかの理解と手腕と技術にかんする教訓を、革命的な諸政党と革命的な階級にあたえる」(P18)

そして、有名な言葉を述べている。
「友だちは不幸なときにわかる」「敗けた軍隊はよくまなぶ」

〔しかし、友だちの不幸に気付かないものもいるし、敗けても学ばない軍隊もいる〕

レーニンは繰り返し注意を喚起している。
「革命的諸政党は徹底的に学ばなければならない。かれらは攻撃することを学んだ。いまや、この攻撃の科学を、もっと正しく退却するにはどうすべきかという科学でおぎなうべきだということを理解しなければならない。正しい攻撃と正しい退却を学ばずには、勝利することはできない」(P18)

そして、ボルシェビキが秩序整然と、味方の損害や分裂も最も少なく、活動を再開する力を残して退却できたのは、「退却しなければならないこと、また退却する能力を持たなければならないこと、最も反動的な議会で、最も反動的な労働組合、協同組合、保険組合、その他の組織内で合法的に活動すること」(P19)の必要性を理解しようとしない「口先だけの革命家たちを、容赦なく暴露して追い出したからに他ならない」と述べている。

これが、次の高揚の時代、ボルシェビキの優位を切り開くことにつながっていくのである。

 ④高揚の時代(一九一〇年から一九一四年)

「最初、この運動の高まりは信じられないほどのろのろ」としていたが「一九一二年のレナ事件の後、すこしはやくなった」

「レナ事件」一九一二年四月一七日に、ロシア帝国のシベリアのレナ川付近でストライキを行っていた金鉱労働者をロシア帝国軍が無差別に射殺した事件。

 「ボルシェビキは、いままで耳にしたこともないような困難にうちかち、メンシェビキを押しのけた」「労働運動内のブルジョアの手先としてのメンシェヴィキの役割は、一九○五年以後にブルジョアジー全体が非常によく理解していた・・・だからこそブルジョアジー全体が、ボリシェヴィキに反対したメンシェヴィキを、あらゆるやり方で支持したのである。しかし、非合法活動と、「合法的可能性」をかならず利用することとを結びつけるという正しい戦術をとらなかったなら、ボリシェヴィキは、メンシェヴィキをおしのけることに成功しなかったであろう。ボリシェヴィキは、もっとも反動的な国会で労働者クーリヤ全部を獲得した」(P19)

労働者クーリア
選挙権が与えられたのは男子労働者総数50人以上の工場・鉱山の25歳以上の男子労働者。有権者代表比率は50~1000人の企業から1名、1000人以上の企業では各1000人増すごとに1名加算とした。都市民や圧倒的な数の農民層にくらべ、全体に占める選出比率は小さかったが、労働者クーリアの選挙人を決める集会は、唯一合法的かつ全労働者を包摂した政治宣伝の場であったということだ。これは、工場委員会とともに労働者の経済闘争と政治闘争を結合させる重要な役割を果たしたのではないだろうか。

⑤第一次世界帝国主義戦争(一九一四年から一九一七年)

「合法的な議会主義は、最も反動的な『議会』ではあったが、革命的プロレタリアートの党に、ボルシェビキに、非常に役に立った」「戦争のおかげですべての先進国ではほめそやされている『合法性』が奪いさられたとき、ロシアの革命家たちがスイスやその他の国で組織したような、自由な(非合法な)意見交換や正しい意見の自由な(非合法な)仕上げという点では、ロシア革命家のまねさえできなかった」(P20)

(そして、この時期に)「社会排外主義と『カウッキー主義』(フランスのロンゲ主義、イギリスの独立労働党の指導者たちとフェビアン派たちの見解、イタリアのトゥラーティの見解など)のみにくさ、いやらしさ、卑劣さを容赦なく暴露し、大衆のほうでもやがて自分の経験からボルシェビキの意見の正しさをますます確信するようになったこと」が一九一七年から一九二〇年のロシア革命を勝利に導いた基本的原因の一つだ、と総括している。

⑥ロシアの第二次革命(一九一七年二月から一〇月まで)

ツァーリズムにたいする、信じられないほどの破壊力をつくりだした。数日のうちに、ロシアは、世界中のどの国よりも自由な――戦争状態のもとで――民主的ブルジョア共和国にかわった」「たとえどんなに反動的な議会であれ、議会内の反政府党の指導者であるという肩書は、このような指導者が革命でその後一役買うのを容易なものにした」

「メンシェビキと『社会革命党員』とは、数週間のうちに、ヨーロッパの第二インタナショナルの英雄たち、入閣主義者〔社会排外主義との絶縁が問題になっているときに、その反動的なブルジョア内閣への参加を主張する。ミルラン主義とも呼ばれる〕その他の役たたずの日和見主義者のすべての手口と物腰、論拠と詭弁を、数週間のうちに、身につけた」

「(われわれは)こんなことはみな、メンシェビキですでに見せつけられている。歴史はいたずら好きで、おくれた国の日和見主義者たちに、多くのすすんだ国の日和見主義者たちの先鞭をつけさせたのである」

すすんだ国の革命家は、自分たちが日和見主義にならないよう、ロシアのメンシェビキの破産を反面教師として学ばなければならない。ということを示唆している。

この章の最後では次のように記している。

「議会制(事実上の)ブルジョア共和国にたいする、またメンシェヴィキにたいする勝利にかがやく闘争をはじめるにあたって、ボルシェビキはきわめて慎重であって、けっして無造作に準備したのではない、――いまヨーロッパやアメリカでしばしば見うけられる見解とは逆である。われわれは、さきにあげた時期の初めのころ、政府を打倒せよと呼びかけたのではなく、ソヴェトの構成と気分とを前もって変えなければ、政府を打倒することができないことを明らかにしたのである。われわれは、ブルジョア議会、憲法制定議会のボイコットを宣言したのではなく」「憲法制定議会をもつブルジョア共和国は、憲法制定議会をもたないブルジョア共和国よりもよい、だが「労働者=農民の」ソヴェト共和国は、いかなるブルジョア民主主義的・議会制的共和国よりももっとよい」と述べたのだ。「このような用心ぶかい、綿密な、慎重な、そして長い準備〔労働者大衆の中で培った経験と思慮ぶかさ〕がなかったなら、われわれは一九一七年十月の勝利をかちとることも、この勝利を維持することもできなかったであろう」

ツァー専制が世界の列強に伍して突き進むためには、遅れた資本主義から帝国主義への急速な転換を求められていた。このような歴史的条件に規定され、ロシアでボルシェビキが経験した一五年は、先進帝国主義の歴史の数十年を濃縮したような激しいものがあったと思う。
 だからこそ、ボルシェビキの経験は普遍的で原理的なものを持っていると考えるべきなのだろう。

また、ボルシェビキの慎重さは、ツァー専制の弾圧が厳しいから「イソップの言葉で」語ったという事だけではない。プロレタリア大衆自身が自分の経験を通して納得し、また考えるためにはどのように訴えるべきなのか、広範な大衆の意識を一歩でも引き上げるにはどうすべきか、実践を通しながら必死に考え抜いた結果だったに違いない。

「○○せよ!」「○○でなければならない!」式の左翼党派のアジテーションは、レーニンとボルシェビズムの歪曲されたイメージからきたものなのか?

もう一つ、ボルシェビキプロレタリアートと労働者大衆の意識を引き上げ、政治的経験を積み上げるために他党派との「妥協」や「同盟」も辞さない柔軟な戦術を用いた。その主だったものを見ると、このレーニンの時代区分とほぼ対応しているのは興味がある。
①一九〇一年~二年 ブルジョア自由主義派の指導者であったストルーヴェとの「政治同盟」。②一九〇五年以降 労働者と農民の同盟。③ツァーリズムに反対してブルジョアジーを支持すること(選挙での支持協力)。④一九〇六年~一二年 メンシェヴィキとの「統一」。⑤一九一五年 国際反戦会議(ツィンメルヴァルド、キンタール)でのカウツキー派、メンシェヴィキ左派、社会革命党との妥協。⑥十月革命時における社会革命党左派との政治ブロック。
このように見ると、いかにも場当たり的で一貫性がないように感じるかもしれない。

しかし、党の活動の重要部分を成す戦術と路線、現実的な労働者階級、人民を指導し階級形成していく活動において、自らの「手足をしばられることのない戦術」が柔軟性を確保する条件なのである。(硬直した「型」にはまった戦術は、客観情勢の変化や主体的条件の変化に対応できず、そこで戦術を転換した場合には、労働者大衆にとっては場当たり的な、無責任なものに映ってしまうのだ)
柔軟性と弾力性の確保、これこそがレーニンの提起の核心である

もちろんレーニンは戦術を現場に合わせた御都合的なもの、基本的にはどうでも良いものなどとして柔軟性を強調したわけではない。ロシアでは〇五年革命の後、革命運動の後退期が訪れたが、依然として国会のボイコット戦術、また労働組合をはじめとする諸機関(保険金庫など)のボイコットを主張する党内左派は存在したし、そうした部分との真剣な党内論争をも経ながらボルシェビキの戦術は形成されていったのである。ここでは当然にも労働者階級の経験、蓄積、運動の状態、また党が持つ現実的な影響力、加えて支配階級が内包している矛盾、そのほころび、支配能力とその頑強さや弱点等々の分析が必要となった。レーニンが重視したのは<労働者階級の経験と状態、現実的な運動とその経験>であり、ここから一歩でも前に出る戦術であった。反動的議会を利用、活用すること、反動的労働組合や行政機関を活用、利用することは、当時の労働者人民には政治的に自由の経験、団結の蓄積の観点からいって大きな意味を持っていた。

 このことを確認し、次の章からは具体的な戦術の考え方について検討することになる。

レーニン「共産主義における『左翼』小児病」学習ノート②

第10章 二、三の結論

この章は、その表題にあるように第1章で述べられている「基本的な特徴の二、三のもの」と対応しているのだろう。
2章から9章は個別具体的に「左翼」空論主義の例を挙げて批判しており、引用されることも多い。しかし、この10章は、2章~9章までの論述の根拠となっているロシア革命の教訓、総括に即して改めて確認している極めて重要な部分なのである。

(一)ロシアにおける経験

 「一九○五年の最初のひと月だけで、ストライキ参加者数は、過去一○年間(一八九五~一九○四年)における年平均ストライキ参加者数の一○倍に達した。そして、一九○五年一月から一〇月にかけて、ストライキは、たえまなく大きな規模で増大した。まったく独特な、多くの歴史的条件に影響されて、おくれたロシアは、抑圧された大衆が革命に際し、その自主的活動を飛躍的に成長させるものであること(この点はすべての大革命によく見られる)をはじめて世界に示したばかりでなく、プロレタリアートの重要性は人口中に占めるその割合よりもはるかに高いものであることを示し、また経済的ストライキと政治的ストライキの結合、政治的ストライキから武装蜂起への転化、資本主義に圧迫されている階級の大衆闘争と大衆組織の新しい形態、つまりソヴィエトの誕生を、はじめて世界に示したのである」(P104)

「一九一七年の二月革命十月革命とは、ソヴィエトを全国的な規模で全面的に発展させ、ついでプロレタリア的・社会主義的変革におけるソヴィエトの勝利へと導いた。さらに、二年たらずのうちにソヴィエトが国際的な性格をもつことがあきらかになり、この闘争形態と組織形態は国際労働運動にひろがり、ソヴィエトの歴史的使命は、ブルジョア議会制度、ブルジョア民主主義一般の墓掘人、相続人、後継者となることだ、という点がはっきりした。(P105)

ここでは、①革命期におけるプロレタリアートの決起の規模が、平時では考えられないような爆発的なものとなること、②その時の闘争形態、組織形態、すなわちソヴィエトは国際的な普遍性をもっている〔これは、古くはコンミューンのような形で始まり、新しくはドイツのレーテによって証明された〕ということが述べられている。

続けて
「あらゆる国で労働運動が経験しなければならないこと」(それはすでに始まっている)、「新しく生まれ、しだいに強くなり、勝利を目指して進んでいく共産主義」にとっての二つの闘争が重要であるとして、「まず第一にそして主として、自分たちの(それぞれの国の)『メンシェヴイズム』すなわち日和見主義や社会排外主義との闘争」と「第二に――いわばつけたしとして――この共産主義『左翼』共産主義との闘争である」と提起し、この第一の闘争は、あらゆる国で、おそらく一つの例外もなしに、第二インターナショナル(事実上いまはもう葬られている)と第三インタナンョナルの闘争として繰り広げられている。

一方の「第二の闘争は、ドイツでも、イギリスでも、イタリアでも、アメリカでも(少なくとも、『世界産業労働者連盟』とアナルコ・サンディカリズム派のある部分は、『左翼』共産主義の間違いを弁護しているが、同時にほとんど全般的に、全一的にソヴィエト制度をみとめている)、フランスでも(もとのサンディカリストの一部が政党と議会制度にたいしてとる態度を見よ。しかし、この場合にも同時に彼らはソヴェト制度をみとめている)、つまりインタナショナルの運動の枠の中だけではなく、疑いもなく全世界的な規模に、見うけられる」として軽視できない問題であることを指摘しているのである。

第一の任務――ブルジョア民主主義や社会排外主義との闘い
第二の任務――「左翼」共産主義との闘い
をあげ、(第三インターナショナルに結集する潮流にとっては)第一の任務について   は労働運動にとっても共産主義運動にとっても例外なしに立場が明瞭になっており争う余地もないが、第二の任務では、「左翼」共産主義もサンディカリストもほとんどがソヴィエト制度を認めている点では共通しているのに、その戦術や運動においては空論主義に陥っている。プロレタリア革命にとって、その克服は避けて通れない問題なのだということを述べているのである。

 「各国の労働運動はブルジョアジーに勝つために、どこでも本質上同種の予備校を終了するわけだが、この場合、その発展は自分流におこなうのである。そのうえボルシェビズムは組織的な政治的な党派として勝利の準備を整えるために歴史から十五年の期間を与えられたのであるが、先進的な資本主義諸大国は、この道をボルシェビズムよりはるかに早く歩んでいる」

「いま肝心なことは、各国の共産主義が、十分な自覚をもって日和見主義と「左翼的な」空理空論に対する闘争の主要な原則的任務を考慮するとともに、この闘争がそれぞれの国で、その経済、政治、文化、その国の民族構成、その植民地、その宗教的区分、等々の特徴に応じて具体的な特殊性を持っているし、持たざるを得ない点を考慮することである」(P106)

ボルシェビキが歴史から十五年の期間を与えられた」と言っているのは、もちろん「左翼」空論主義との闘争という意味で言っていることである。それは、街頭闘争をめぐる論争、議会への参加や召喚をめぐる論争、労働組合との関係をめぐる論争等々、様々な場面で多くの党内闘争=理論闘争を通して自分たちの闘いを作り上げてきたことを意味している。この十五年の中には、もちろんメンシェビキとの闘争も含まれるが、主要にはボルシェビキ党内における左翼主義との闘い(ジノヴィエフブハーリンをはじめ、常に左にぶれる者はいたが、レーニンはこれと厳格かつ同志的な討論を通じて前衛党としての統一を保ち続けた)として総括されていると考えるべきだろう。

(二)国際的戦術の統一とは画一的な戦術の適用ではない

続いて、
「ぜひともはっきりさせておかなければならないのは、このような(革命的プロレタリアートの国際的戦術を方向づけることのできる真に中央集権的な、真に指導的な中央部をつくりだす腕前、能力を持った)指導的な中央部は、どんな場合でも闘争の戦術的規則を千篇一律化し、機械的に均一化し、画一化することによってつくることはできないということである。諸国民と諸国家間に民族的な、国家的な差異がある限り、—―そしてまた、このような差異は、全世界的な規模でプロレタリアートの独裁が実現されたのちでさえ、なお長期にわたって存続するだろう。――あらゆる国の共産主義的労働運動の国際的戦術の統一は、この多様さを取り除くことでも民族的な差異をなくすことを要求することでもなく、共産主義の基本的な諸原則(ソヴィエト権力とプロレタリア独裁)を個々の点で正しく変化させ、それらを民族的な、民族=国家的な差異に正しく適応させ適用することを要求するのである。単一の国際的任務の解決、労働運動内にある日和見主義と左翼的な空理空論に対する勝利、ブルジョアジーの打倒、ソヴィエト共和国とプロレタリア独裁の樹立に対し、各国が具体的に対処するにあたって、民族的に特殊なもの、民族的に独自なものを調査し、研究し、さがし出し、推測し、把握すること――ここにこそ先進諸国(先進諸国に限らないが)が経験しているこの歴史的な時期の主要な任務がある」(P107)

ここではプロレタリア革命=プロレタリア独裁国家の民族的、国家的差異の問題について述べているのだが、レーニンは現実にプロレタリア独裁を樹立した立場から現実的な問題として(どの国も経験するであろう国際的意義をもった問題として)提起している。
すべての国が画一的なプロ独国家を作れると考えてはならない。それぞれの国の共産党は、それぞれの国の差異を考え、民族的に特殊なもの、独自なものを調査し、研究し、さがし出し、推測し、把握して柔軟に対応することをせずに、空理空論ではプロレタリア独裁を維持することはできないのだと言っているのだろう。

(三)広範な大衆の獲得なしにプロ独の実現・維持はできない

 「プロレタリアの前衛は思想的にわれわれの側にかちとられた。これは重要なことである。これなしには、勝利への第一歩さえ踏みだすことはできない。だが、ここから勝利まではまだかなり遠い。前衛だけでは勝てないのである。全階級が、つまり広範な大衆が、あるいは前衛を支持する立場をとるか、あるいは少なくとも前衛にたいし好意ある中立をまもり、敵を支持することが完全にできない立場に立たないうちに、ただ前衛だけを決戦に投じることはばかげているばかりでなく、罪悪でもある」(P108)

広範な大衆が前衛を支持し、少なくとも好意ある中立をまもり、敵を支持することがないという関係が作られる前に、革命党と先進的なプロレタリアート(前衛)だけで決戦に臨むのは「ばかげているし、罪悪ですらある」と述べている。革命党にとって、客観的条件を見誤ることは、前衛のもとに結集した先進的なプロレタリアート反革命の餌食にされ、血の海に沈められないとも限らないのであり、階級に対する強烈な責任を自覚することが必要なのである。

 さらに「資本に圧迫されている広範な勤労大衆が実際にこの立場をとるようにするためには、宣伝や扇動だけでは不十分である。そのためには、これらの大衆自身の政治的な経験が必要である」(P108)

「国際的労働運動内の自覚した前衛、すなわち、共産党共産主義グループ、共産主義的流派の当面の任務は、広い大衆(いまのところ、大部分はまだ眠っており、政治に無関心で、旧弊で、不活発で、目覚めていない)をこの新しい状態に導いてゆくすべを知ることであり、もっと正確に言うと、自分の党だけでなくて〔他の党派や潮流の影響を受けているような〕これらの大衆をも指導して、この新しい立場に接近させ移行させるすべを知ることである」(P109)

その当面の任務として次の二つがあげられている。

①第一の歴史的任務
 プロレタリアートの自覚した前衛をソヴィエト権力と労働者階級の独裁の
 側にひきよせることは、日和見主義と社会排外主義に対する完全な思想的
 ・政治的勝利なしには果たせなかった(⇒ロシアではそれを成功させたし
 現に第三インターナショナルの党はそれをやりつつある)

②第二の任務
 革命にさいして前衛の勝利を保障することのできる新しい立場に大衆をみ
 ちびくすべを知るという任務。これは左翼的な空理空論を一掃し、そのま
 ちがいを完全に克服し、それから解放されないなら、果たすことができな
 い。

ここで、第二の任務がなぜ重要なのかについて、さらに詳細に述べている。

プロレタリアートの前衛を共産主義の側に引き入れることが問題であったあいだは、その限りでは、第一に押し出されるのは宣伝であった。・・・ところが大衆の実践的行動が問題になり――こんな言い方がゆるされるなら――数百万の軍隊の配置が問題になり、ある社会の階級勢力全体を最後の決戦の配置につかせることが問題となる場合は、もはや宣伝の熟達だけでは、『純粋な』共産主義の真理をくりかえすだけでは、ものの役に立たないのである。この場合、大衆をまだ指導したことのない宣伝家や小グループのメンバーがよく考えているように、何千といった単位でものを考えてはならない。この場合、われわれは革命的な階級の前衛を説得してしまったかどうかをかえりみるだけではなく、さらに全階級――その社会の全階級を必ず例外なく――の歴史的に行動力のある諸勢力が、決戦の時がすでに熟しきった場合の配置についているかどうかを検討しなければならない」(P110)

【「決戦期の成熟」(成熟した革命期)を判断する三つの指標】

「決戦の時が熟しきった」ということを判断するのは、諸勢力が次のような配置についているかどうかだとして三つの指標をあげている。

一、敵階級勢力の全体がまったく混乱し、お互い同士で激しくいがみ合い、
 彼らの力に余る闘争でひどく力を弱めていること。(⇒敵階級内に分裂が
 生じ、力が分散して集中力を欠いている)
二、中間分子が動揺し、落ち着きがなく、小ブルジョアジーブルジョア
 ーとは区別される小ブルジョア民主主義者がことごとく人民の前で十分に
 暴露され、その実践上の破産によってまったく物笑いのタネにされている
 ということ。
三、ブルジョアジーに対する最も断固たる、限りなく勇敢な、革命行動を支
 持する大衆的な気持ちがプロレタリアートの中におこり、それがたかまっ
 ていること。

【『第二インターナショナルの崩壊』で提起された内容との比較】

この部分は『第二インターナショナルの崩壊』(以下『第二インターの崩壊』と略)の中で「革命的情勢なしには、革命は不可能であり、しかも、どんな革命的情勢でも革命をもたらすとはかぎらない」として、革命的情勢における三つの主要な徴候としてあげていた内容に対応している。そこでは
①支配階級にとっては、いままでどおりの形で、その支配を維持することが
 不可能なこと。「上層」のあれこれの危機、支配階級の政策の危機が、割
 れ目を作りだし、そこから、被抑圧階級の不摘と激昂がやぶれ出ること。
②被抑圧階級の欠乏と困窮が普通以上に激化すること。
③右の諸原因によって、大衆の活動性がいちじるしくたかまること。

個々のグループや党の意志だけでなく、個々の階級の意志にも依存しないこれらの客観的変化なしには、革命は――概して――不可能である。これらの客観的変化の総計こそ、革命的情勢とよばれるものなのである。

しかし、「革命的情勢があればかならず革命がおこるというわけのものではなく、ただ、次のような情勢からだけ、すなわち、右に列挙した客観的変化に主体的変化が結びつく場合、つまり旧来の政府を粉砕する(またはゆるがす)にたる強力な革命的大衆行動をおこす革命的階級の能力が結びつくような場合にだけ、おこるものだからである。この旧来の政府は、これを『失墜』させないかぎり、たとえ危機の時期であろうとも決して『倒れる』ものではない。これが、革命にたいするマルクス主義者の見解であり、それはすべてのマルクス主義によって何度も何度も展開され、議論の余地のないものと認められたものである」(『第二インターの崩壊』国民文庫、三六~三七ページ)。

 レーニンは、革命的情勢について以上のような規定を与えたうえで、革命的情勢に対応した革命党の任務、革命闘争を本格的に準備するための党の基本原則について、つぎのような一般的規定を与えていた。(A、Bは筆者)

(A)「ここではすべての社会主義者の、もっとも議論の余地のない、そしてもっとも基本的な義務が問題なのである。すなわち、革命的情勢が存在することを大衆のまえにあきらかにし、それの広さと深さを説明し、プロレタリアートの革命的自覚と革命的決意をよびさまし、プロレタリアートをたすけて革命的行動にうつらせ、この方向で活動するために革命的情勢に応じた 組織をつくりだすという義務が、それである」

(B)「人民を鼓舞しゆすぶり、資本主義の崩壊をはやめるために危機を利用すること。今日の諸党が自己のこの義務を履行しないことはかれらの裏切りであり、かれらの政治的死であり、自己の役割の放棄であり、ブルジョアジーの側への移行である」

 【「革命的情勢」を「成熟した革命期」に引き寄せる党の意識性の問題】

第二インターの崩壊」での提起は《革命的情勢》、そして「『左翼』空論主義」では《成熟した革命期=決戦期》(強いて言えば、これが「革命情勢」なのだ)の判断の内容として提起されたのである。
そして、「第二インターの崩壊」(先の引用)の中の、前段(A)の部分は「主体的変化」、(B)の部分は「客観的変化」について述べたものであり、「客観的変化」に「主体的変化」が結びつかない限り、革命的情勢があっても革命は起こらないと指摘していたのであった。

 われわれはこのレーニンの提起にしたがい、「革命的情勢の接近に対応した革命党の三つの義務」として、
(1)革命的情勢の存在を大衆にむかって全面的に宣伝、扇動する。
(2)革命的行動への可能的着手と、その計画的、系統的強化。
(3)非合法、非公然的組織建設、合非の問題の正しい解決。
というように整理し理解した。これは、いうなれば革命党のあるいは先進的プロレタリアートの「主体的変化」を自らの義務としたものであった。

本書でレーニンが展開している内容の重要なポイントは、「革命的情勢」を「革命の成熟」した決戦期にまで引き寄せるためには、「主体的変化」だけに力を注ぎ、「客観的変化」を待つのではなく、それを意識的に引き出す革命党の術=戦術が必要なのだということ。つまり、「客観的変化」を引き出し促進する能力をもった革命党へと成長しなければだめだということである。これは、「第二インターの崩壊」当時よりも、革命党としての主客にわたる意識的な働きかけという点で、さらに踏み込んだ提起なのである。

では、どのように行うのか
それは、ブルジョアジーを揺さぶり動揺と分裂を誘い、急進的なインテリゲンチャブルジョアジーから引きはがし対立させ、革命運動の味方につけ、あるいは改良主義的、愛国主義的な社会民主主義政党の傘下にある組合や労働者大衆、階級的に目覚めていない大衆や中間層を鼓舞し、全人民を政治行動に引き入れるという積極的な働きかけ、宣伝・扇動とはちがった意識的な政治工作の方法=術を身につけ実践することが前衛党の義務だと述べているのである。それをしないことは「政治的な死であり、裏切りであり、ブルジョアジーの側への移行」であるとして厳しく求めているのは、そうしない限りブルジョアジーは決して自ら倒れることはないし、あの手この手で延命の道を考え出すからなのだ。

ところでレーニンは1914年、第3インター結成に向けて以下のように訴えていた。

「諸階級の協力を擁護すること、社会主義革命の思想と革命的闘争方法とを否認すること、ブルジョア民族主義に迎合すること、民族または祖国の歴史的=一時的な限界をわすれること、ブルジョア的合法性を物神化(むやみに崇拝)すること、「広範な住民大衆」(小ブルジョアジーと読め)を自分から突きはなすことをおそれて、階級的観点と階級闘争とを拒否すること、――これらは、疑いもない、日和見主義の思想的基礎である。まさにこの基礎の上に第二インターナショナルの大多数の指導者たちの今日の排外主義的、愛国主義的な気分が成長したのである。(レーニン全集第21巻「社会主義インターナショナルの現状と任務」)


 したがって共産主義インターナショナル(第3インター)に結集した若い共産主義諸党は、排外主義、愛国主義に転落し革命的プロレタリアートの運動に敵対する自国内の社会勢力と全力を挙げてたたかい、先進的なプロレタリアートを運動的、イデオロギー的に獲得するために全力をあげてきた。かれらはブルジョアジーに屈服した社民の弾圧をうけ、あるいは反動的な労働組合からの妨害や排撃に屈せず、前衛党として自らをうち鍛えてきたのである。

 だが、いま求められているのは、こうしたブルジョア的、小ブル的中間層やインテリゲンチャに楔を打ち込み動揺させ、愛国的な社民勢力の影響下にある保守的でもっとも遅れた大衆への働きかけ、「宣伝、扇動」というイデオロギー的な活動だけではない、妥協や回り道といった柔軟性のある政治的能力や統一戦線的な方法への習熟が求められたのである。それまでの経験からは不慣れであり、抵抗も大きかったにちがいない。そこから空論主義、教条主義、「左翼」主義的な傾向が生まれることは避けられなかったに違いない。
 しかし、まさにボルシェビキは3年有半の中でそれをやって見せ、プロレタリア革命を成功させた高みから改めて訴えたということである。

レーニンは「第二インターの崩壊」の中で、「客観的変化」の内容について「個々のグループや党の意志だけでなく、個々の階級の意志にも依存しないこれらの客観的変化」という表現をつかっていた。これは「客観的変化」が前衛の意識的行為から離れた自然成長的なものという誤解を産んでしまったということはないだろうか。
 レーニンは、ロシア革命を勝利にみちびいたその総括と教訓に基づいて、ただ「客観的な変化」を待つのではなく、それを促進する前衛党の意識的、能動的な働きかけが必要なのだという若干の軌道修正が必要だと考えたのかもしれない。つまり前衛党と先進的なプロレタリアートの結集という任務に加えて、さらに広範な大衆を革命の戦列に加えるという任務(それ自身は共産主義運動が得意としなかった分野)はプロレタリア革命にとっても、またプロレタリア独裁の維持にとっても不可欠な任務であり、そこに重心を置くよう訴えたということである。

 

 【革命的情勢への過渡期の成熟を緩慢で困難にしている条件は何か】

ところで、今日の帝国主義の危機が歴史的にますます深まっているという情勢があるにもかかわらず、これと「主体的変化」の結びつき(および「主体的変化」そのもの)を困難にしているのはなぜかと自問し、本多延嘉氏はそれを次のように分析していた。

「もとより今日の情勢の成熟は、帝国主義スターリン主義の時代的規定性をもつものとして進んでいる。すなわち、第一には、帝国主義スターリン主義の時代を根底的につらぬく世界革命の過渡期という時代的特徴を本質的な背景として、資本主義体制の延命のためには、アメリカ帝国主義を基軸とする戦後世界体制を是が非でも護持しようとする力がはたらき、矛盾の爆発を不断にひきのばそうとしていること、第二には、スターリン主義の裏切りによって大衆の「自主的な歴史的行動」への決起がたえず歪められ、妨げられていることである。いいかえるならば、帝国主義の側においても、スターリン主義の側においても、情勢の爆発を先取り的に制圧する努力が著しく強く、それを回避するためならばどんなことでもする傾向がある、ということである。しかし、こうした傾向は、けっして革命的情勢への過渡期の成熟の存在を否定するものではなく、かえって、その深さと広さを示すものでしかないのである」(本多著作選第2巻「革命闘争と革命党の事業の堅実で全面的な発展のために」1973年)

帝国主義は、国際共産主義運動ロシア革命の総括と教訓から学んだのと同じように(あるいはそれ以上に自らの延命を賭して)革命の道を封じる術を学んでいる。にもかかわらず、それは帝国主義の危機そのものを回避するものでも軽減するものでもないのだ。

 この章では、さらにイギリスの自由党内でのロイドジョージ派とチャーチル派との意見のくいちがいや、労働党ヘンダーソンとの連立内での意見のくいちがいなどを例にあげながら、このようなことは「純粋な共産主義の立場から見ると、まったくとるに足りない、つまらぬこと」かもしれないが、「大衆のこの実践的行動の立場から見ると、非常に重要である・・・ここにこそ、たんに自覚した、確信を持った、思想的な宣伝家にとどまらず、革命における大衆の実践的指導者になろうと望んでいる共産主義者の一切の仕事があり、一切の任務がある。すべての必要な実践上の妥協、迂回、協調、ジグザグ、退却などを行う能力と共産主義の思想に対する最も厳格な献身とを結びつけ」そうすることでブルジョアジーとその政治権力の破産、崩壊を促進することが必要なのだと述べている。こうして、支配階級やその手先となっている小ブルジョア民主主義者の動揺や破産を促進する。そうすることが「大衆を、ほかならぬ我々の精神で、すなわち共産主義に向かって啓蒙するだろう」と述べている。(P111)

必要な実践上(戦術上)の妥協、迂回、協調、ジグザグ、退却を柔軟におこない得る能力。それを支え結びつけるものこそ共産主義の思想に対する最も厳格な献身だというわけである。
「厳格な献身」の対象は、「共産主義の思想」だということが極めて重要なポイントだ!

このあとも、重要な問題提起が続いている。

「一般に歴史は、とくに革命の歴史は、どんなにすぐれた政党、どんなに進歩的な階級のどんなに自覚した前衛が考えているよりも、つねに内容豊かであり、多様であり、多面的であり、いきいきとしており、また『複雑微妙な』ものである。なぜなら、どんなにすぐれた前衛でも、たかだか何万人かの〔これを「何十万人かの」と言い換えたところでその意味するものは同じだろう――筆者〕意識、意志、情熱、想像をあらわすだけであるが、革命を実現するものは、人間のあらゆる能力がとくに高まり、緊張するときに、最も激しい階級闘争にかきたてられた何千万人の意識、意志、情熱、想像だからである」(P112)

そこから導かれる重要な二つの実践的結論として、革命的な階級は
①その任務を実現するためには、一つの例外もなしに、社会活動のあらゆる
 形態ないしあらゆる方面に通じていなければならない。(政治権力を獲得
 するまでにやりとげられなかったことは、獲得後に、しかも時として大き
 な冒険や非常な危険をおかしてやりとげるのである)
②一つの形態がどれほど急激に、また不意に他の形態にとってかわっても、
 それに応じられるようでなければならない。
この意味について、この後より具体的に述べられている。

「あらゆる闘争手段に通じていないと、ほかの階級の状態の中にわれわれの意思と無関係な変化が起こり、そのためわれわれにとくに不得手な活動形態をとることが日程にのぼる場合、われわれは大敗北を――ときには決定的な敗北をさえ舐めるかもしれない」

また「合法的な闘争手段は日和見主義」で「非合法的な闘争手段こそ革命的」というように考えるのは間違っている。非合法的な闘争手段をとるべき時にその力もなく、取ろうともしないのは労働者階級に対する裏切りであるが、「非合法的な闘争形態をあらゆる合法的な闘争形態と結びつけることができない革命家は、きわめて質の悪い革命家である」(P113)

「直接的な、公然たる、真に大衆的な、真に革命的な闘争が起る条件がまだないときに革命家であること、革命的でなくてむしろ多くの場合まったく反動的な機関のなかで、革命的でない環境のなかで、革命的な活動方法が必要であることをすぐには理解できない大衆のなかで、革命の利益を(宣伝により、扇動により、組織によって)まもることの方がはるかにむずかしい――またはるかに尊い」〔しかし、こうした活動があってこそはじめて〕「大衆を本当の、決定的な、最後の、大きな革命闘争にみちびく具体的な道、ないしは事件の特別な転換点をみつけだし、さぐりだし、それを正しく確定できること――ここに西ヨーロッパとアメリカにおける〔全世界の〕現在の共産主義者の主要な任務がある」(P114)

 この後も、具体的な例をあげ、あるいはロシアの経験を引用しながら、いろいろな条件の変化に応じて、柔軟性に富んだ戦術を使い分ける能力の必要性について多くのページを割いて説明している。ここは、それぞれの共産主義的組織が「調査し、研究し、さがし出し、推測し、把握して」最もふさわしい戦術を練り上げる際には、柔軟かつ多面的な分析が必要であることを示唆している。

「どんな国でも、共産主義はきたえられ成長している。それは深く根をはっているので、迫害を加えても共産主義の力を弱めることも無力にすることもできず、かえってそれを強めている。われわれが勝利に向かって、もっと確信をもって、もっとしっかりした足どりで進むには、ただ一つだけ足りないものがある。すなわち、あらゆる国のあらゆる共産主義者が、戦術には最大限の弾力性をもたす必要があることを、いたるところで徹底的に考え抜き、自覚することである。とくに先進諸国で、素晴らしく成長しつつある共産主義に今日欠けているものは、この自覚とこの自覚を実践に適用する力量である」(P121)                (次回は第2章から)   

レーニン「共産主義における『左翼』小児病」学習ノート①

序章

  (一)

レーニンは「共産主義における『左翼』小児病」(以下「『左翼』空論主義」と略)の著作を一九二〇年四月から五月にかけて書きあげた。

そして五月一二日に原稿が仕上がると、その植字から印刷の進行状況までを自分で監督し、このパンフレットの発行を急がせた。レーニンは三か月後に迫ったコミンテルン第三インターナショナル)第二回大会のために、この論文を間に合わせることがどうしても必要であった。

一九一七年、ロシア革命が勝利すると帝国主義戦争によって苦しめられてきたロシア帝国支配下の植民地諸国の人民、被抑圧民族プロレタリアートは次々と民族独立の革命闘争に決起した。またドイツでは一九一八年一〇月、キール軍港に停泊していた軍艦の水兵たちが汽缶の火を消して出撃命令を拒否し、兵士評議会を結成して革命的反乱に決起した。この水兵の反乱を口火として、革命的闘争の炎は全ドイツにひろがり、ドイツ全都市に労兵評議会(レーテ)がつくられた。ここにドイツ革命の火ぶたが切っておとされ、まさに第一次世界大戦末期のヨーロッパは革命的激動のるつぼと化し、その熱気は国際共産主義運動全体に大きく影響を与えるものとなっていた。

レーニンをはじめとするボルシェビキと、すべてのロシアプロレタリアートがドイツ革命をかたずをのんで見守り、ドイツプロレタリアートの勝利を心から待ちのぞんだことは疑いない。

この革命をロシア革命に続いてプロレタリア独裁権力の樹立―全ヨーロッパのプロレタリア革命へと押し上げることができるのか、という国際共産主義運動の歴史的真価が問われていたのである。

ロシア革命の成功は、ヨーロッパを中心にドイツ、イギリス、イタリア、オランダそしてアメリカなど多くの国で共産主義的、社会主義的組織や諸グループ、労働者党結成の流れを作り出したが、それはボリシェヴィキ的潮流ばかりではなく、アナルコサンジカリスト的潮流や左翼社民的潮流も含んでいた。また、第二インターナショナルのもとで祖国擁護―社会排外主義に転落した社会民主主義潮流の一部は、戦後の革命期においては一層反動的にブルジョアジーの手先となって労働者人民の闘いに敵対する一方、多くの部分が動揺と分裂を繰り返していた。こうした中で、反動化した社会民主主義の指導部から決別し、革命的左派の潮流を引き継ごうとする革命党、共産主義者の組織建設も世界各国で進んでいたのである。

だが経験の浅い共産主義組織は、最初から多くの困難や欠陥を有していた。労働組合運動内では改良主義的諸組織が依然として大きな影響力をもっており、労働者大衆はその下に組織されていた。多くの共産主義の党は「先進的な労働者」をひきつけることはできたが、広範な労働者を右翼的社民指導部の影響から切り離し、革命運動の隊列に引き入れることはできていなかった。

イギリスの共産主義者ブルジョア議会への参加に否定的態度をとり、ドイツの共産主義労働者党ブルジョア議会や改良主義労働組合の中での活動を拒否し、共産党が大衆に影響をおよぼし、組織する可能性を妨げるものとなっていた。

こうした「左翼」空論主義的見解は、イギリスやドイツのみならず、フランス、オーストリアアメリカ、オランダその他の国にも広まっていた。各国の共産主義者とその党は、排外主義、改良主義的な第二インターナショナルと決別し、先進的なプロレタリアートを集結させるために精力的にたたかってきた党ではあったが、ここで問われたのは空理空論ではなく、現実にプロレタリア独裁を闘いとる準備と能力を備えているのかどうか、という問題だったのである。

 

 (二)

このレーニンのパンフレットは、七月十九日からモスクワで開催されたコミンテルン第二回大会を前に、すべての参加者に配布された。同時にレーニンは、各国の共産党指導者に精力的に手紙を送り「左翼的」空論主義からの決別、これとの闘いを呼びかけた。

一九二〇年という年は、ドイツでは一九一八年一〇月を発端とした革命的激動期に突入していたにもかかわらず、確固とした戦いの方針は示されなかった。SPDの「祖国擁護」方針に反発して分裂した独立社会民主党(USPD)、労働組合内反対派の革命的オプロイテは社会主義を標榜し、労働組合への影響力も大きかったが、議会主義的変革を求め、蜂起には反対していた。一方、急進派のスパルタクス団(後のドイツ共産党)は権力奪取を目指していたが、広範な労働者を組織してはいなかった。このように、プロレタリア人民の隊列は統一した指導部を持っておらず、労働者・兵士のレーテ運動が全国に波及する中、プロレタリア権力に到達するまでの道筋はついに示されることがなかった。こうしてドイツ革命はとん挫し、ハンガリー革命もルーマニアの侵攻によって敗北を余儀なくされた。他方ではポーランド社会党右派のピウスツキが領土的野心からロシアに侵攻、ソヴィエト=ポーランド戦争が始まっていた。レーニンポーランドの労働者が呼応して蜂起することを期待して赤軍ワルシャワに向けて進撃たせたが、これは大きな誤算となりワルシャワを目前にして赤軍は大敗北を喫することになる。ポーランドの労働者は国際プロレタリアートの側ではなく、ピウスツキの呼びかけた祖国防衛という民族主義を選んだのであった。<E.H.カー/塩川伸明訳『ロシア革命』 岩波現代文庫>

ロシア革命が直面したこのような歴史的現実の中で、次の革命的攻勢にそなえるためには、それぞれの共産党共産主義運動が、自覚したプロレタリアのみならず、すべての労働者大衆と非プロレタリアをも味方の隊列に引き入れ、実際にプロレタリア独裁を戦取する(蜂起を戦いとる)準備、能力をもった真の前衛へと成長することが決定的に求められたのである。

 本書は党建設と党活動に関する原則的な諸点、それも、ロシア革命を実際に成し遂げプロレタリア独裁権力を確立しつつあるボルシェビキの、優れて実践上の経験を通してつかみ取った一般的=普遍的な党建設上の原則を述べたものといえよう。とりわけ左からの空論主義、教条主義セクト主義の偏向に対して、本来の革命党、労働者党がとるべき原則的態度を明らかにしたものである。

ただ、今日のわれわれがこの著作の学習をする際には、そうした党建設、組織原則の確認にとどまってはいけないと思うのである。考えなければいけないことは、世界の共産主義運動と共産主義組織が、いまなおレーニンの提起に実践的な回答を与えることができず、帝国主義の延命を許し、そのもとに労働者人民、被抑圧民族人民の生殺与奪が委ねられてしまっているという痛苦な現実があるということだ。

このレーニンの「『左翼』空論主義」は、今日でも各国の革命的共産主義者にとって重要な文献に扱われているが、コミンテルンとその後の国際共産主義運動はこのレーニンの提起にどのように答えたのだろうか。

 (三)

国際共産主義運動の中に根深く存在し続けた『左翼』空論主義

一九二一年、コミンテルンは統一ドイツ共産党議長パウル・レヴィを「イタリア社会党の分裂工作に反対した」という理由で辞任に追いこみ、「攻勢派」すなわち武装闘争派と入れ換えた。そのうえで三月蜂起は、コミンテルンが派遣したクン・ベーラの指導のもとに行われたのであるが、大衆的支持を得られないままあっけなく粉砕されたのである。

その三ヶ月後に開催されたコミンテルン第三回大会では、三月の熱気からいまだ冷めやらないドイツ共産党の若い指導部は、「現在は革命期であるから、われわれ革命的前衛はひたすら前進あるのみ。いかなる障害を前にしても停止してはならず、現実の力の前に労働者階級を惹きつけなければならない」と主張した。また、コミンテルンの各国支部および中執の中にも、なお攻勢理論に固執している左翼主義者は多数いたのである。ジノヴィエフブハーリン、ラデックなどもその中に含まれていたが、彼らは注意深くレーニンの顔色をうかがい、ベーラ・クンを前面に押し立てていた。

大会を前にした執行委員会でトロッキーは、ベーラ・クンの「左翼主義」を痛烈に批判する大演説を行い大激論となったのである。第二回大会のレーニンの忠告は重視されなかったか無視されていたのだ。

レーニンは、この会議には出席していなかった(このころのレーニンは体の調子が思わしくなく、主要な会議は議事録に目を通し、自分が意見を述べる必要があると認めた場合以外に参加することは少なくなっていた )が、ベーラ・クンが攻勢理論の立場からトロツキーを攻撃する演説を行ったことを知ると、速記録をとり寄せ次の執行委員会議に出席して、ベーラ・クンを激烈に批判し、トロツキーを全面的に擁護する猛烈な演説を行なった。

「同志ベーラ・クンは、日和見主義者だけが誤りを犯したと主張している。しかし、実際には、左派も誤りを犯しているのだ。この速記録によれば、(フランス共産党の徴兵拒否に関し)同志トロツキーは、この種の左派の同志たちが今後とも同じ道を歩み続けるならば、フランスにおける共産主義運動と労働者運動を破滅に追いやるだろうと語っている。私もこのことを深く確信している。そこで私は、同志ベーラ・クンの演説に抗議するためにここに来たのである」

「・・・・大衆はますます君たちに近づいており、君たちはますます勝利に近づいている。そうであるならなおさら、労働組合の指導権を獲得しなければならない。労働組合の多数派獲得は、準備作業にとって素晴らしい成果をもたらす。もしこれに成功すれば、偉大な勝利となるだろう。ブルジョア民主主義はもはや信用されていないが、労働組合では第2および第2半インターナショナル出身の官僚的指導者がいぜんとして優位を保っている。労働組合の中で、われわれは何よりも信頼できるマルクス主義的多数派を獲得しなければならない」

このトロッキーを擁護するレーニンの演説は、スターリン主義者によってレーニン全集からは割愛された。だが、レーニン共産主義インターナショナル第三回大会の過程で繰り返し「左翼」共産主義を批判したことは、たとえばレーニン全集第32巻(「ドイツ共産主義者への手紙」)、同第42巻(「ドイツ、ポーランドチェコスロヴァキアハンガリーおよびイタリアの代議員団会議における演説」)等に掲載されており、また大会議事録からも明らかにされている。
ここから考えられるのは、レーニンが想定していたよりも「左翼」空論主義は根深く、これを克服する闘いは簡単ではなかったということではないだろうか。

 そしてレーニンの没後、スターリンが「一国社会主義論」を唱えて世界革命路線を放棄すると、「左翼共産主義」批判はトロッキー批判に置き換わり、左翼空論主義=極左冒険主義はトロツキストの代名詞にとって変わられた。同時に、各国でのプロレタリア革命―プロレタリア独裁権力樹立という困難な事業から解放された共産党組織は、広範な労働者大衆の獲得、反動的な労働組合での気の遠くなるような組織活動を放棄し、労働者階級の政治的空間に一定の位置を占めることにその存在意義を見出していくのである。その結果、党を大衆運動の中に埋没させたり、逆に党勢拡大に大衆運動や労働組合を利用したり、セクト主義的に囲い込む等々、共産主義運動の原則は完全に変質してしまったのだということを指摘しなければならない。こうした国際共産主義運動スターリン主義)の存在は、帝国主義によるソ連包囲外交に一定のブレーキをかけスターリン主義の防衛=平和共存路線を助け、もって帝国主義の延命を補完するという役割を果たしてきたのである。そして、ソ連崩壊後は、新左翼を含むすべての共産主義運動が革命の戦略を見失い、ますます社民化の道を突き進んでいると言わなければならない。

 (四)

この著作を学習する方法として第1章の次に、第10章「二、三の結論」で展開されるロシア革命(とりわけ1905年以後の)を概括し、そこで何が求められたのかということをレーニンのまとめに従って押さえたうえで、2章に戻って、当時の共産主義インターナショナルコミンテルン)に参加しているヨーロッパ各国の「若い」共産党組織が陥っている誤りについて検討し、レーニン主義的な国際共産主義運動を再建するには何が求められているのかを考えてみたい。

第1章 どんな意味でロシア革命の国際的意義をかたることができるか?

 レーニンはこの章の書き出しで次のように述べている。

「ロシアでプロレタリアートが政治権力をとってから最初の数か月間は、遅れたロシアと進んだ西ヨーロッパ諸国との間に非常な違いがあるので、これら西ヨーロッパ諸国のプロレタリア革命は、わが国の革命とあまり似たものにならないだろうと思われたのも無理からぬことであった。いまでは、われわれはすでに相当な国際的経験をつんでおり、この経験はわれわれの革命のいくつかの基本的な特徴が、たんに地方的な、民族に特有の、ロシアだけの意義を持っているのではなくて、国際的な意義をもっていることを極めてはっきりと物語っている」(P9)

 ここでレーニンが言う「相当な国際的経験」とは何を指しているのだろうか。

革命後の数か月からこの著作が書かれた一九二〇年四月までの約二年半の経験というのは、ほかならぬプロレタリア独裁の経験を意味していると考えてよいのではないか。レーニンはこの世界でも初めての経験を踏まえてロシア革命ボルシェビキの闘いを総括し「国際的意義を持ついくつかの基本的な特徴」を提起しているのだと述べているのである。単なる「革命運動」の総括ではなく、武装蜂起とプロレタリア独裁権力の樹立―維持という、唯物論的現実に踏まえたロシア革命の歴史的検証が行われているという点が重要なのであり、同じようにプロレタリア革命を目指そうとする全世界の共産主義運動が共有すべき基本的で普遍的な提起だということなのである。

そして、

①「国際的意義」とは、わが国で起こったことが国際的意義を持つ、あるいはそれが国際的規模で繰り返されるのは歴史的に避けられない(普遍的であるということ)

②そのように理解するならば、広い意味ではなく、革命の基本的な特徴の二、三のものについての意義をみとめねばならない(広い意味に解してはならないが、基本的なことなのだ)

としたうえで「もちろん、この真理を誇張し、・・・いくつかの基本的な特徴以外にひろげるなら、それは極めて大きなまちがいとなろう」とも述べている。

 ★それぞれの国の階級闘争は、その歴史的、民族的、あるいは経済的=産業的等々の条件によって一様ではないから、全部ロシアの真似をしてはダメだが、二、三の基本的特徴は普遍的なもので国際的意義を持っているからキチンと主体化しなければいけない、と言っているのだ。

 続けて「しかし、ロシアの手本がすべての国にその避けられない、近い将来のなにかを、それもきわめて本質的なものを示しているということ―まさに、これこそが現在の歴史的時代の事態である。すべての国の先進的な労働者たちはずっと前から理解していた・・・というより革命的な階級の本能によってこれをつかみ、感じていた」(P10)として

1、ソヴィエト権力の国際的「意義」(狭い意味の)

2、ボルシェビキの理論と戦術の国際的な「意義」(狭い意味の)

この二つが革命的な階級の本能としっかり結びついていたというところにボルシェビキの闘いの普遍性、国際的な意義がある、ということだろう。                            (続く)

原発汚染水の海洋放出を絶対許すな

 汚染水放出への怒りを排外主義の扇動でごまかすな!

菅義偉首相は7日夕、首相官邸で全国漁業協同組合連合会の岸宏会長と会談し、東京電力福島第1原発から出る放射性物質トリチウムを含む処理水の処分方針について意見交換した。会談後には記者団の取材に、処分方針を「近日中に判断したい」と表明したが、一方の岸会長は政府が目指す海洋放出に「絶対反対との考えはいささかも変わらない」と強調していた。

こうした中で、政府は13日に加藤勝信官房長官をトップとする関係閣僚会議を開き、東電福島第1原発にたまり続ける放射性物質トリチウムを含む処理水の海洋放出を行なうとする基本方針を決めた。

政府は処理水を人体に影響が出ないレベルまで薄めて海に流す方法を検討しているが、漁業関係者の不安と怒りは極めて大きい。

この決定をうけ世界から懸念と抗議の声が上がっている。

とりわけ韓国では市民団体がいち早く怒りの声を上げ、マスコミもそれを取り上げているが、それは政府の決定をオブラートに包む極めて悪質なものである。韓国以外の海外の反応をほとんど無視し伝えないという形で、「韓国は日本政府のやることに何でも反対する」「反日」だと宣伝し排外主義を煽っているのである。あたかも韓国だけが嫌がらせのために日本の海産物への輸入規制をしているかのような報道さえある。事実は全くそうではない。こうした嫌韓意識を煽ることによって、汚染水海洋放出への民衆の怒りを帳消しにしたいという意図が透けて見えるではないか。こうしたメディアを使った宣伝に騙されてはならない。

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全世界で怒りと懸念の声が高まっている 

しかし事実は政府が考えるほど簡単に進むとは思わない。

世界24カ国の311の環境団体が「福島第一原発の汚染水を海洋に放出してはならない」とする書簡を日本の経済産業省に届けたことを12日に明らかにしている。この書簡には、世界各国の市民およそ6万5000人が署名している。この書簡を届けた「福島原発事故10年国際署名実行委員会」(各国の環境団体の連合体)の代表は、「福島県をはじめとし、(日本の)多くの人たちが(汚染水の海洋放出に)大きく反発しています。海外からも、憂慮・反対の声が多くあがっています」とさらなる反対の声をあげてほしいと呼び掛けている。

また、これとは別に国際環境団体グリーンピースも同日、日本政府の汚染水放出計画の撤回を求める世界の市民の請願18万3754筆を経済産業省に提出した。

また、IAEAは日本の立場に理解を示していたが、国連のボイド特別報告者(人権と環境担当)らは15日、日本政府による東京電力福島第1原発処理水の海洋放出決定に「深い憂慮」を表明したとされている。

ボイド氏らは「汚染された水が海洋に放出されることで、日本国内外の人々の人権を無視できない危険にさらすことになる」と批判。「海洋放出以外の選択肢もあると専門家は指摘しており、今回の決定には失望させられた」としている。(4月16日東京新聞

 このように、世界中の人々が日本政府の決定に懸念を表明しているのだ。

 トリチウムだけを強調し、それ以外の放射性核種を隠蔽

ところで、少し原発に詳しい人ならトリチウムを含む原発の汚染物質は世界中がこれまでも放出してきているではないか、と疑問を持つことだろう。

事実、トリチウムはこれまでも日本はもとより、韓国はじめ世界中の原発で環境中に放出されてきた。では、福島第一原発の汚染処理水の海洋放出はどこが問題なのか。

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 菅義偉首相は「2年後をめどに放出を開始する」と表明。その内容は
①基準をはるかに上回る安全性を確保し、政府を挙げた風評対策の徹底を取
 り組む
②海洋放出はこれまでも国内で行ってきた実績がある。
③東電は原子力規制委員会への申請や設備工事を経て、事故から30~40年の
 廃炉期間内に海へ流す。
トリチウムの濃度は、世界保健機関(WHO)が定めた飲料水基準の約7
 分の1に薄め、年間放出量は当面、事故前の放出管理値と同じ22兆ベクレ
 ルを下回る水準とする。
というものである。

これに対して、専門家が危惧しているのは、トリチウムだけがクローズアップされていることである。そして、多くのメディアが汚染水を多核種除去装置「ALPS」で浄化しても、トリチウムだけが除去できないと報じている
その一方で原発推進派はトリチウムが放出する放射線は弱い」「自然界にも存在する」「通常の原発でも発生し、基準を満たせば海に流している」水と同じだから体内に摂り込んでも、そのほとんどが排出される」と、海洋放出は問題ないと主張するのである。

では、トリチウム以外の核種は完全に除去されるのか。除去しきれないとすればどの程度なのか。ここが問題になるのだが、この点はほとんど報道されない。

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 東京電力が2020年12月24日に公表した資料によると、処理水を2次処理してもトリチウム以外に12の核種を除去できないことがわかっている。
また、二次処理後においても半減期が長いヨウ素129(約1570万年)、セシウム135(約230万年)、炭素14(約5700年)などが残るとされている。

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増してや、二次処理前の汚染水では上の表のように、ストロンチウム90(半減期28.79年)、セシウム137(同30.1年)など高濃度で半減期の長い放射性物質が大量に含まれたままなのである。

二次処理をせず、薄めただけの「ALPS処理水」 汚染水の定義を書き換えた目眩まし

ところで、東電のホームページには「多核種除去設備=ALPS」について次のように書かれている。

「多核種除去設備」は、福島第一原子力発電所で発生する汚染水を浄化する設備のひとつです。この設備にある、吸着材が充てんされた吸着塔に汚染水を通すことによって、放射性物質を取り除く仕組みになっており、トリチウム以外の大部分の核種を取り除くことができます。なお、汚染水に関する国の「規制基準」は
①タンクに貯蔵する場合の基準、②環境へ放出する場合の基準の2つがあります。
周辺環境への影響を第一に考え、まずは①の基準を優先し多核種除去設備等による浄化処理を進めてきました。そのため、現在、多核種除去設備等の処理水はそのすべてで①の基準を満たしていますが、②の基準を満たしていないものが8割以上あります
当社は、多核種除去設備等の処理水の処分にあたり、環境へ放出する場合は、その前の段階でもう一度浄化処理(二次処理)を行うことによって、トリチウム以外の放射性物質の量を可能な限り低減し、②の基準値を満たすようにする方針です。

 政府も東電も、少なくともこの基準を作った時点では、二次処理を施さない汚染水を海洋に放出することはできないと認識してきたはずであった。また、メディアにも地元漁業関係者にもそのように説明してきたのだ。

ところが、政府と菅政権は「汚染水を水で希釈して放出するのだから安全だ」と主張しはじめた。(もちろん、そうした声は推進派の中から常に聞こえてきてはいたのだが)
そして、驚くべきことに経済産業省は、政府が海洋放出を決めた4月13日に、こっそりと「ALPS処理水」の定義を書き換えていたのである。

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そこで言われていることは「ALPS処理水の処分の際には、二次処理や希釈」によって安全基準を大幅に下回るようにしているのに、規制値を超える放射性物質を含むものと誤解されるから今後はそれを「ALPS処理水」と呼称する、それが風評被害対策でもあると開き直っているのだ。

これまでは二次処理をして規制値以下にしたものを「ALPS処理水」と呼んできた。これからは二次処理をせずに規制値以下に薄めたものも含めて「ALPS処理水」と呼ぶというのである。つまり、これまではコップの中の汚染水そのものを飲めるまでに浄化すると言っていたのに、浄化せずに風呂桶に入れて薄めて流すから毒ではないと言っているに等しい。
13億5千万㎦もある海水の量に比べれば、放出される汚染水が薄められたかどうかが大きな問題なのではない。環境中にどれだけの量の放射性核種が放出されるかが問題なのだ。

政府も東電も、トリチウムは生体内に蓄積されず、ほとんど体外に排出されるから安全だと説明してきたではないか。それは、逆に言えば、トリチウム以外の放射性核種は生体内に蓄積濃縮するという科学的事実を承認してきたということである。

水で薄めても放射性物質の総量が変わらなければ、半減期が過ぎるまでは海を漂うことに変わりはない。そして、それは回遊魚や海藻などによって濃縮され、食物連鎖によって人間が食することになるのだ。生体内で蓄積し濃縮する半減期の長い放射性物質は例え、微量であっても環境中に放出することがあってはならないのだ。

だから、これまで処分できずに来たのではなかったか。

勝手に定義を変えて、高濃度の汚染水も薄めて流せば大丈夫というなら、はじめから海に流すのとどこが違うのか。こんなことは世界の誰も認めはしないだろう。

この先、何十年も汚染水を海洋に垂れ流すつもりか!

原子力規制委員会の調査チームは1月26日、2、3号機の原子炉格納容器の上ぶたが極めて高濃度の放射能で汚染されているとする報告書案をまとめた。

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それによると、メルトダウン炉心溶融)を起こした2、3号機の格納容器の上ぶたの汚染レベルは想定を大きく超えており、2号機では放射性セシウムの濃度は少なくとも2京~4京ベクレル(京は兆の1万倍)で、事故時に大気に放出された量の2倍程度と推計されている。3号機も3京ベクレルと極めて高い。デブリがある格納容器底部の毎時7~42シーベルトにも匹敵する。この上ぶたは直径約12メートル。分厚いコンクリート製の3枚重ねで、総重量約465トン。動かすのは容易ではない。格納容器の上にも下にも毎時10シーベルトを超える線量を放つデブリがあるようなものである。この蓋を撤去して初めて溶け落ちたデブリの取り出しが始まるのである。

このように、次々と難題に直面している福島第一原発の事故処理作業において、溶け落ちたデブリの取り出しはこの先20年~30年で終わるかどうかも見通せていない。その間、高濃度の汚染水は増え続けるのである。

一度、海洋放出を認めてしまえば政府と東電は、順次この汚染水を海洋に流し続けるに違いない。

原水禁では、トリチウム汚染水の「海洋放出」を許さない緊急打電行動として総理官邸への抗議のメッセージ行動を呼び掛けている。

首相官邸ホームページ」⇒「ご意見、ご感想」⇒「首相官邸に対するご意見等」へアクセスしてください。下記URLから直接アクセスできます。 https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html

 これからの2年間、諦めることなく「原発汚染水の海洋放出断固粉砕」を掲げ全国の人民は福島の漁民、世界の反核運動と連帯し反対の声を大きくしていきましょう。

原発事故は地震や津波だけで起こるのではない

「10年目の検証」で原発事故を清算するな

3.11から10年目を迎える中で、TV各局は改めて原発事故の検証番組を組んでいる。

その多くは地震津波に対する見通しの甘さを指摘し、専門家の指摘を無視して防潮堤の嵩上げを怠った東電の無責任で杜撰な体質や、事故後も情報を隠し続けてきた隠蔽体質をクローズアップしている。

さらに、最近では事故を起こした一、ニ号機のベント用排気管が上部まで繋がっていなかったという欠陥が、社民党福島みずほ議員の国会質疑を通して明らかになった。この事は、爆発の有無に関わらず、ベントをしていれば大量の高濃度放射性物質を建屋とその周辺地域に放出していたという事だ。

こんな事は「安全神話」以前に、規制委(旧保安院)を含む原発技術者による核に対する緊張感の欠如、驕りでしかない。

ただ、本質的な事は、こうしたことではない。技術上、運用上の問題は今後もまだまだ出てくるに違いない。しかし、それらの問題点が仮に解決し、安全基準が厳しくなれば、原発は安全なエネルギーだと言えるのか。

諸々の検証番組を「10年を節目にした再稼働への布石」「原発事故の清算」にしてはならない。
(2020/10月の記事に加筆更新しました)

福島原発事故はECCS(緊急炉心冷却装置)が未完の技術であることを実証したのだ!

この間の検証番組でも明らかにされているが、これまでの原発事故を見れば分かるように、それらの多くがシステムの誤動作や人為的ミスが複合し、大事故に発展していくことが極めて多いということが分かる。むしろ、地震津波といった要因は全体から見れば特異な条件に過ぎない。それだけ原発は完成されていないシステムだということなのだ。 

 また、本来ならECCS(緊急炉心冷却装置)は、放射能を環境中に放出しない為の最後のよりどころとして、命綱のような役割を求められた筈であるが、実際にはこれが作動すると炉内圧力が急上昇し、想定外の事態に発展してしまう可能性がある。これまでの事故を見ても、ECCSの作動が逆に混乱を引き起こしているものさえある。

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 さらに「全電源の喪失と配管断絶が同時に起きた」という究極の事故を想定し、その条件下でも炉心を冷却し炉内圧力の上昇とメルトダウンを防ぐシステムは、そもそも実証実験さえ出来ないのである。

その意味で、福島原発事故は取り返しのつかない犠牲を払って行った最初の「実証実験」なのであり、まさにこの究極の安全装置=ECCSが未完成の役に立たないものであることを証明したのだ。それを取り繕うための方策がベント基準の厳格化なのである。

 つまり当初の原発技術計画では、絶対解決されていなければならなかった問題――どのような事態に陥ろうとも、絶対に環境中に放射性物質を排出しない――が解決できなかった結果として、炉心が爆発するのを防ぐ為に人類と環境を破壊することを厭わない、ベントという手段によって核物質を含む高圧の蒸気を環境中に放出しようというのだ。
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そもそも、事故に対応する作業というのは高線量下で線量計を携行しての短時間作業を人海戦術的に行うことになり、精神的にも平時とは全く違った緊張状態を強制されること、こうした被曝作業の多くが下請けや非正規雇用労働者によって担われることが多く、全電源喪失などというような極限状態を想定した訓練(たとえば暗闇の中でいくつかあるバルブの一つを手動で開くなど)をすべての現場労働者に行っているとは考えられない。 

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経産省の官僚や政治家、電力会社の上層部はこうした現実を一切無視しており、原子力規制委員会が定めた新安全基準なるものも、およそこれらのことを全く考慮せず、机上でものを言っているに過ぎない。これまでの事故と、何よりも福島の教訓をつぶさに検証する姿勢があれば、こんな杜撰な規制基準で再稼動できるはずがない。
  事故はいつでも起こり得るし原発事故は一旦起きてしまったら止めることができない。できることの方が奇跡といった方がよいのではなかろうか。 

女性蔑視発言を開き直る森喜朗を解任しろ

日本社会には自浄作用も当事者能力も無いのか

東京オリ・パラ組織委員会の森会長が女性差別発言をしてから一週間が経っても、日本オリンピック委員会も政府も全く対応不能に陥っており、「世界から最も遅れた国」としての認知度だけが高まっていく。

最早、森喜朗個人の価値観の問題ではない。このような価値観を生む底流に、それを許してきた日本社会の問題が根深く存在していることを突きつけられている。

東京オリンピックが行われるか否かに関わらず、一人でも多くの人がこの問題を考え、日本が変わる契機になれば違った意味でオリンピックの理念に一歩近づくことになるのかもしれない。

ここではそのための素材として、JOC公益法人日本オリンピック委員会)と公益法人東京オリ・パラ競技大会組織委員会という紛らわしいが似て非なる組織について見てみようと思う。

東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会は、公益財団法人日本オリンピック委員会JOC)と東京都により2014年1月24日に一般財団法人として設立され、2015年1月1日付で公益財団法人になった。

東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会

評議員

川淵三郎日本サッカー協会相談役)
遠山敦子トヨタ財団顧問、元文部科学大臣
木村興治(JOC名誉委員)
福田富昭JOC名誉委員、日本レスリング協会会長)
長谷川明(東京都副知事
梶原洋(東京都副知事

※ この評議員は、会長、副会長を含む理事の選任権を持っている。

菅総理は東京オリ・パラ組織委員会の顧問会議議長だ

そして、菅総理は国会答弁で盛んに「公益法人の独立」を強調したが、責任逃れも程々にすべきだ。
また、自民党の広報本部長として、唯一自民党の女性理事として組織委に名を連ねている丸川珠代よ、いつまで沈黙するつもりか!

この、公益法人東京オリ・パラ組織委員会には、顧問会議として内閣総理大臣と衆参議院議長が名を連ねており、特別顧問には麻生太郎はじめ7名の閣僚や財界人が入っている。しかも、驚くべきことに安倍晋三は「名誉最高顧問」というのだ。なんという不名誉な事だろう!!

 ・名誉最高顧問 元内閣総理大臣 安倍晋三
 ・最高顧問、議長 内閣総理大臣 菅義偉
 ・最高顧問 衆議院議長 大島理森
 ・最高顧問 参議院議長 山東昭子

また、特別顧問は以下の通り。
麻生太郎、櫻田謙悟、加藤勝信堤義明、中西宏明、三村明夫、吉野利明

そして、顧問には野党を含む国会議員の多数が名を連ねているのだ。どこが「別法人だから関与できない」だよ! 菅総理は顧問会議議長として、会議を招集し森会長の辞任を勧告することだって出来るではないか

JOCの上位に立つ東京オリ・パラ組織委

JOC日本オリンピック委員会)の会長は山下泰裕氏である。だが彼は東京オリ・パラ組織委の中では副会長である。この一事をもって明らかなように、国際組織であるJOC公益法人日本オリンピック委員会)よりも、公益法人東京オリンピックパラリンピック組織委員会の位置が高いのである。

なぜならJOCはオリンピックにアスリートを送り出す組織であり、東京2020組織委員会はオリンピックというイベントの財源を調達し、アスリートに競技をさせて利益を生む組織なのだ。東京2020組織委員会=東京オリ・パラ組織委員会にとって、アスリートもボランティアも金儲けのための人材に過ぎない。
そして、これには電通などが大きくかかわっているは周知のことであろう。

一方、JOCにもスポーツ振興団体や多くのスポンサー企業・財界などからの委員が参加する「評議員会」がある。しかし、これも実質的には「東京オリ・パラ組織委員会」の下部機関であり、賛助機関のようになっている。 
事実、森喜朗氏の女性蔑視発言は、この臨時評議員会の席上で行われたものだった。

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森会長の調整能力とは 集金力と利権誘導能力なのか?

森発言を擁護する者たちの理由が、「余人をもって代えがたい」とか森氏の調整能力を上げている。しかし、ここで言っている「調整」とは何を指すのか。

東京オリ・パラ組織委員会の役員構成を見ても明らかなように、名誉会長・御手洗富士夫経団連名誉会長)を筆頭に、理事にはそうそうたる財界人が名を連ねている。JOC評議員も大半はスポーツ振興団体の肩書を持つ人で占められているが、三菱電機(株)、イオン(株)、トヨタ自動車(株)などが名を連ね、日本商工会議所経済同友会も議員を出している。また、スポーツ振興団体はそれ自身としてのスポンサーをもっており、このすそ野は広い。

つまり、こうした広範な利権に絡む方面に顔が利く(言ってみれば集金能力が高い)ことを「調整できる」というのだろう。

おそらく、この人たちは資金を集めること、利権を誘導する事がオリンピックの成功にとって最も重要なのだと信じて疑わないのだろう。この人たちにとっては、端から女性の意見など聞こうとは思わないだろうし、「オリンピックの理念」など眼中にないから、そもそもアスリートの声さえ聞く気はないに違いない。

神の国」発言に通じる家父長制的なアナクロニズム

森喜朗氏の「女性差別」発言は根が深い。それは依然として日本社会にはびこっている無自覚な女性差別の本質に関わるものであり、森氏の「神の国」発言にも通じている。 

この「神の国」という発想は国家神道であり、天皇万世一系とし、家父長制によって貫かれた「国体」を標榜する思想である。
明治憲法下の日本では、天皇を頂点とし家父長的家族制度を土台とする男尊女卑が貫かれてきた。それは戦後においても戸籍法として生き残り、結婚や相続、子どもの認知をはじめ、風俗習慣の中で民衆の意識を縛りつけてきた。
夫婦別姓が長い間進まないのも、このような価値観の支配から脱却できていないからだ。

仮にオリンピックが出来なくなても、グローバルスタンダードを日本に迫る契機になるならば、歴史的な大会をやり遂げたのと同じほどの価値があるといえるだろう。